2014年11月22日土曜日

瑠璃の色

今週の講義テーマは、人形浄瑠璃。言うまでもなく一番基本から話を始めなければならない。おかげで自分の中で持ち続けてきた知識の頼りなさの一つに気付かされた。あの浄瑠璃姫の名前の意味するところの瑠璃の正体にかかわるものである。

20141122瑠璃とはインドに伝わる宝石だと分かっている。ただその色となれば、自分の中ではずっと緑だった。そこで紫ぎみのブルーと知らされて、少なからずに驚いた。それでも単なる自分の思い込みだと信じたくなくて、緑となる根拠を調べてみた。さいわい簡単に出てきた。やはり中国側の理解なのである。手近にある実例としては、承徳にある普陀宗乗寺の琉璃碑殿の色は、たしかに緑そのものだった。ただし一方では、北海公园にある琉璃九龍の壁は、ブルーを基本色としている。すなわち中国の伝統においては、緑や紺をはじめとする、簡単に得られない色の集合やその混在こそ、瑠璃の色なのだ。その理由は、宝石としての瑠璃はすでに不在のものとし、代わりに古来伝来の工法で製造されたガラス製品こそ、瑠璃という名を博したものだった。そのような瑠璃は、いまでも大事に作られ、さまざまな形で慎重に取り扱われている。ある説明によれば、瑠璃を拭くときに用いる水でさえ、12時間以上清浄しなければならないとか。

そのような瑠璃製造の工法となれば、まさに貴重なものとされている。中国では、それが2008年に公表された「第二回国家非物質文化遺産目録」と登録されている。あきらかに日本の「無形文化財」というシステムだ。ちなみに同じ目録には510の項目があり、斜めに読んでみれば、象棋、漢方養生、切り紙、そして醤油製造などじつに多彩なものが収録されている。

2014年11月15日土曜日

来たり去ったり

今週のクラスで取り上げたのは、絵巻。個人の経験をふくめて話を進めて、70年代に入ってからのカラー印刷と出版がもたらしたインパクトを触れた。90年代生まれの大学生たちにはまったく実感のないもので、絵巻そのものと感覚的にさほど変わらない距離をもつ出来事だと気付かされた。一方では、かつて全巻カラー印刷の出版物に興奮を覚えた経験からすれば、いまオンラインで公開されている絵巻を見て、使い方などまで考えなくても、少なくとも画像の見やすさというもっとも基本的な意味で、印刷物をはるかに超えたものなのだと改めて感慨深い。

ただ、そうは言っても、デジタル画像はまだまだ安心して使えるものではないことも、これまた紛れない事実だ。素晴らしいものはどんどん現われてくる一方では、かつて公開されたものはいろいろな理由で消え去っていく。これには、まずはデジタル技術それ自体によるものが多い。九十年代半ばから公開されたものは、すでにサイズや色は満足に行かず、さらにそれらを載せるシステムの構築なども更新を必要となってくる。環境の許されるところではすでにかなりのやり直しの実例を見るが、貴重な古典を取り出して改めて撮影するといったことは、とても簡単に繰り返すものではない。しかもデジタル資料そのものへの考え方がすこしずつ変わる中、公開のありかたを見直す動きも少なくない。

身近には一つの具体例がある。慶応大学が運営している「世界のデジタル奈良絵本データベース」は、公開を終了した。理由は公表されていない。デジタル資料が盛んに注目を集めている今、このような形で資料群があっさりとアクセスから消えてしまう実例はさほど見ない。検索で調べてみても、利用を促す、発見を報告するリンクなどは多数残っているが、終了を取り上げる知らせや議論は見えない。しかも一時は最先端の実践として望まれるスタンダードを樹立したこのリソースは、けっして十分な評価を受けておらず、たとえば奈良絵本研究という一番緊密な学界からも利用、応用に関する報告はあまりなされていない。かつて数えきれないほどアクセスした一利用者として、残されたのは「来たり去ったり」という語りようのない感傷みたいなもののみなのだ、

2014年11月8日土曜日

白骨の精

クラスからの話題だ。今週学生たちと一緒に読んだのは、「西遊記」。あまりにも有名なものであっても、原文を実際に読んだ若者はおそらく一人もおらず、その分、一番典型的で、短く読み切れるエピソードを持ちだした。あの「白骨の精」の話。小説誕生までの流れ、近代になってはじめて現れた「她」の文字など、周りの情報をあわせて持ち出したりして、単なる妖怪話に終わらないように心がけた。

20141108そこで、なんといっても「白骨の精」そのものだ。物語の中では、その姿は最後になってようやく明らかになる。孫悟空の如意棒に倒れされた妖怪は、骸骨の正体を現わにし、その背骨に「白骨夫人」との文字が書き入れられている。いささか芸のない結末なのだ。一方では、一つの文化的な記号にまでなった「白骨精」は、目まぐるしく移り変わる現代の中国において、どうやらまったく新しい意味を獲得したようだ。「職場」という言葉ーーこれも日本語からの外来語としてかなり普通の中国語に定着したのだがーーとペアに使われ、エリート女性を指すものとなった。その成り立ちは、いわば軽いのりの言葉遊びで、「白」領(ホワイトカラー)、「骨」幹(リーダー)、「精」英(エリート)との三つの言葉が集約されたとされている。言ってみれば、美しい女性の化け物という在来の恐れられ、嫌われるイメージから、美しい女性のリーダーという羨ましがられる存在となったのだ。言葉の変化という意味では、文字通りにマイナスからプラスへと、ありえない大転換を演じてしまった。

単純な言語の現象としても、これは実に妙な展開なのだ。懸命に考えてみれば、見立ては一つある。既成の概念に捕らわれず、ときには積極的にそれへの反動を模索することは、まさにいまの中国で共有されている思考パターンの一つだ。ならば、既成の言葉をわざと正反対の意味に用いるということもあるのだろう。ただし、そのように言われる人がこれを甘んじて受け止め、ひいてはこう言われることを愉しむという事実は、どうしても理解に苦しむ。

2014年11月2日日曜日

温かいハロウィン

年一度のハロウィンがやってきた。今年は週末と重なることもあって、子供や若者たちはなにかと元気が良い。テレビやラジオから伝わってくる日本の様子では、ハロウィンが日増しに注目を集めるようになったらしい。しかし、なにともあれ、いわば文化や新しいはやりという側面が強い日本と違って、ここではあくまでも日常生活の大事な節目なのだ。

年齢層によって、ハロウィンの過ごし方は違う。大学生たちは、昼からすでに堂々とこの日をアピールしている。仮装というよりもゆるキャラよろしくと変装して朝からキャンパスをウロウロし、教室の中に平気に入ってそのままの格好で受講をしていた。対して中学生以下の子供たちは、夜まで待ちわびて、やっと仮装を身につけて街に繰り出す。七時あとをピークに、歳もスタイルもまちまちな子供たちは後からあとからドアの前にやってくる。かれらを迎える者として、どうしても視線は仮装した顔よりも手にした容器に惹かれる。袋はそれぞれ個性があって、大きなプラスティックのもあれば、特製の専用道具もある。その中の猛者となれば、バックバッグを重そうに背負っている。小さいこどもは、ベルに手が届かずにドアをいっぱい叩く。手にした袋は非常に小さくて、底が空っぽになっているが、中身を随時に待機している親の手元に移していることが分かる。その親といえば、あるいは車で随行し、あるいはカメラを構えてひたすら撮りつづけた。子供たちの構成は、二、三人の仲良しが基本だが、中には一人で申し訳なさそうにやってくるのいれば、十人を超えるグループで風のように移動するのもいる。そうなれば話に夢中にし、反応の良くなさそうな家を平気に飛ばしていた。一方では、このような夜を迎えてきちんと用意をしなければならない。今年は、ドアの前の飾り物まで気が回らなかったが、キャンディをしっかりと360個用意し、それを二時間近い間にさほど残らないまできれいに配った。

昔のハロウィンは、必ず大雪の中だった。今年は天気が異常なほど暖かく、気持ちの良い夜だった。だが、翌日からは雪が降り始め、いまはすでに十センチ以上積もった。自然のリズムはそう変わらないものだと改めて知った。

20141101