2022年7月30日土曜日

音を考える

昨日、四冊の研究書が届いた。いずれも自分の研究分野と違うもので、分かる自信がないまま手に取り、ページを開いた。これだけの発見や思索を凝縮した書物、一通り目を通すことさえ気力の要るものだ。

最初の一冊は、音がテーマだ。かつて「声」関連の論考を集中的に読み漁った時期があり、ずっと関心を持っていた。編者は細川周平氏、『音と耳から考える』(アルテスパブリッシング、2021年)。じつに600頁以上の大著で、10部構成となっている。音というテーマには、こうも多様なアプローチがなされたものだと、目録を眺めて、気づかされることばかりだった。「戦前時昭和の音響メディア」、「音が作る共同体」、「ステレオの時代」、「物語世界論への挑戦」、などなど。「音響テクノロジーの考古学」では、音を記録する装置の発明、利用や普及の流れから、科学技術の発明、とりわけその失敗や進歩を振り返り、広い意味での人間の知恵を認識させた。「デジタル・ミュージッキング」に収めた一篇は、ライブ・コーディングという、プログラミングをパフォーマンスとする実践が紹介され、プログラミングをするアーティストと、コードを対象とするオーディエンスの存在は、まったく知らない世界だった。さきの文脈でいうと、新たな技術とは、存続するかどうかだけをもってその成敗を図り切れないことを一つの具体的な側面を通じて示された。

すでに十年も前のことだが、編者には一度自宅にまで招待された。しかもその翌日、その颯爽とした姿を祇園の山鉾をひっぱる行列の中に探し出し、盛んに鳴り続く祇園囃子の音とともに深く記憶に残ったのだった。(「祇園祭を観る」)

2022年7月23日土曜日

駅の姿

真夏に入り、今日からちょっとした小旅行に出かける。いつものように出発までにあれこれと調べものをする。今度の旅先は、鉄道と関連がある。漫然とクリックしているうちに、右の一枚が目に飛び込んできた。

『頭書増補訓蒙図彙大成』巻三「居処」に入ったものである。ここに描かれたのは、二つの風景。後ろに建つのは「護摩堂」、前に連なるのは「駅」。書き込まれた文字は、「駅、むまやど」、上段に書き込まれた説明は、さらに「駅は道中のはたごや馬つぎをいふ。駅館とも又駅舎とも駅伝ともいふ」と読む。「駅」という存在をあわせて六つの言葉を連ねた。

道路を行き交う人々は、「護摩堂」よりも後者の「駅」にかかわる風景なのだ。駅を彩るさまざまな人間を眺めると、飼料に食いつく馬や、荷下ろしをする宿の男、馬との長旅から解放されて座って一服する旅人を中心に、旅を急ぐ男はさらに三人描きこまれている。笠や頸から肩にかける袋が目を引く。一方では、三人も描きこまれた女性たちのことは、どうだろうか。それぞれの宿から送り出されて、客を引き止めるように務めているに違いない。すぐに思いつく言葉は、「飯もり」なのだ。

それにしても、訓蒙の図は興味深い。物を分解して標本のように示すものだとばかり思っていたら、こういう生き生きとした構図もあるものだ。一枚の絵に向かって、さまざまな言葉を用いて説明することができる。考えてみれば、それだからこそ、勉強のツールとしても最高だと言えるのではなかろうか。

2022年7月17日日曜日

岩崎文庫解題

数日まえ、東洋文庫から恵送してくださった貴重な資料が届いた。『岩崎文庫貴重書書誌解題』、そのVIII、IX、X。今度も、春先の郵便の滞りからの影響をもろに受けて、投函の日付を見ると、三か月半もさきのことだった。

まっさきに開いたのは、「東洋文庫絵本コレクション」と副題がついたVIIIだった。絵のある文献だけで473頁もの解題になるのだと、意外な気持ちを覚えた。だが、カタログのつもりで取り掛かったら、嬉しい誤解だった。期待をはるかに超えて、カラーや白黒の写真による対象作品のハイライトや詳細な書誌解題に加えて、『いは屋』、『いはや』などの十九の作について丁寧な翻刻まで施されたのだった。考えてみれば、関連の研究者がこの一冊までたどり着くには、ちょっとした工夫が必要となるだろう。それはさておくとして、じつに良心的で、上質な研究成果なのだ。

これに引かれて、あらためて東洋文庫の公式サイトを覗いた。同サイトの構成の重要な一部には、「東洋文庫リポジトリ」があって、直前年度の『東洋学報』を含め、かなりの研究成果が公開されている。ただ、すでに十と数えるこの解題シリーズのデジタル公開は、つい見つかっていない。

2022年7月9日土曜日

川沿いのギャラリー

さほど遠くない山の中には、観光地バンフがある。距離は120キロ、運転して一時間ちょっとだ。温泉まであって、息抜きのお出かけには持ってこいの行先だ。先日、ふらっと立ち寄ったら、川沿いの散歩路はいつの間にか野外ギャラリーと変わった。

並べられた作品は、三、四十点だろうか。歩きながらそれらを眺め、カメラを向けた。地元の人々の粋なおもてなしなのだ。作品の規模はさまざま、材料も木、ガラス、鉄とあり、ただ単に木の板に素朴な絵を描いたものも少なくなかった。全体的には手作り感十分、どちらかと言えば学生の習作といった感じだった。文字の説明を読んでみても、凝ったタイトルが付けられるわけでもなく、作者の名前や作品の意図を伝えるような統一したスタイルさえない。代わりに、自然を愛でるような有名人のフレーズだけをプリントして木々の間に多数置いた。いかにもカナダらしい、肩を凝らない自由自在で、表現を楽しむような展示なのだ。

インスタに数枚の写真を載せた。興味あればどうぞあわせて眺めてください。

2022年7月2日土曜日

大惣本デジタル公開

今週伝わってきたニュースの一つには、京都大学貴重資料デジタルアーカイブが同図書館所蔵の大惣本の一部をデジタル公開したというのがある。公開したのは417タイトル、全所蔵の3667部のわずか一割強にすぎないが、纏まりのある公開は、やはりインパクトがある。

公開の方法は、IIIFに基づき、安心してアクセスできる。一方では、中身や分量に対して、いまだ検索などの対応が十分に整っていない。デジタル制作について、「国文学研究資料館が実施する「日本語の歴史的典籍の国際共同研究ネットワーク構築計画」(略称:歴史的典籍NW事業)に拠点大学として参加して実施し」た結果だと明示し、個々の書誌データも「日本古典籍総合目録データベース(国文学研究資料館作成)による」と記すが、これに対して、新日本古典籍総合データベースの方から今度公開のタイトルを検索すると、大惣本との記述があるが、画像へのリンクがまだ用意されていない。現時点では、デジタル公開されている『京都大学蔵大学蔵目録』(三冊)を頼りに、同デジタルアーカイブの検索機能で狙いのタイトルにたどり着くか、18に及ぶ「書誌一覧」の画面を順に眺めるほかはない。

思えば、「大惣本」という言葉は、たしかに「貸本屋」と同時に覚えたものだった。大学院生のころ、近世を専門とする同級生が興奮した口ぶりでこれを説明し、目録作成に参加するように熱心に誘ってくれたのだった。ただ、新しい分野の勉強を始める余裕がとてもなくて、羨ましい目で作業に取り組む姿を側から眺めていた。あれから四十年近くも時間が経った。いまは世界のどこにいても同じ書物を開くことができるようになったと、感無量だ。