2014年10月26日日曜日

出像

版本に収められた絵に注目すれば、そこにはこれまで自分の知識に入っていなかった新鮮な世界がいっぱい広がった。今週もそのような思いを経験させられた。クラスが終わったら一人の学生が近づいてきて、「出像」という言葉の意味を聞いてきた。虚を突かれてなにも答えられなかった。しかしながらオンラインサーチを掛けてみれば、ずいぶんと常識的な用語だとすぐ気づいた。

20141025学生に聞かれたのは、「出像官板大字西游記」というものである。物語の内容を表わす絵が付いていて、しかも196枚という規模である。「西遊記」の成立や伝来を考える上ではかなり重要な底本の一つで、それまた日本で伝存され、30年代に北京図書館が買い求め、いまは台湾に所蔵されているという、数奇な運命を伴うものである。これだけ一点のものならば、「出像」という言葉の位相についてまだあれこれと推測もできるだろうが、しかしながら「西遊記」から目を離して、似た書物のタイトルを調べてみれば、なんと「隋史」、「水滸伝」、「捜神記」といったポピュラーなものをはじめ、「千家詩」、「楊文広征蛮伝」といった聞きなれないもの、ひいては「天主降生」といったキリスト教ものまで、じつに幅広い作品の数々には「出像」と名乗る版本が印刷され、流行していたものだった。

それにしても、言葉の成り立ちはどうだろうか。内容から考えれば、さしずめ「絵入り」ということに違いはない。ただし、たいていの漢和辞典にはまず入っていない。普通に考えれば、現在でも使われている「出席」、「出場」、「出演」などの言葉と同じ構成となっていると思われる。すなわち「絵に出る」ということで、広く知られていたエピソードが絵となって紙面に踊りでた、といった意味で用いられていたのだろう。

2014年10月18日土曜日

随筆と絵

学生たちと読む古典、今週のテーマは徒然草である。英訳を通してではあるが、中世的な思弁と饒舌を体験してもらおうと、まとめて最初の19段を取り上げた。表現の妙に共感を覚えてもらうのが目的だが、それでもなんらかのビジュアルなものがあればと、絵を探してみた。近年の出版により広く知られるようになった海北友雪の絵巻にはすぐにアクセスできず、代わりに版本の絵に目を向けた。

調べてみれば、デジタル公開で利用できるものだけでもかなりの数にのぼる。「徒然草絵抄」(京都大学附属図書館)、「頭書徒然草絵抄」(国会図書館)、「つれつれ草 : 絵入」(早稲田大学図書館)はいずれも全文収録で、画質もかなり高い。検索を続ければ、きっとあるに違いない。簡単に見比べた限りでは、互いに構図などの直接な関連は認められず、どこまで基礎的な研究がなされているものか、これにも興味をそそるものである。木版の書籍に文字に加えて絵を彫り込むものだが、そもそも絵そのものの意味合いがそれぞれかなり違う。頭注、すなわち本文に対しての一種の図解、あるいは絵による索引という姿勢で臨むものもあれば、たとえば奈良絵本の流れを汲み入れ、挿絵に仕立てるものもある。興味深いことに、前者の絵の頭注の場合、絵と文字との対応にさほど自信がないせいか、あるいは逆に対応の仕方を明らかに表すことに強い責任感からだろうか、絵の中に本文の文句を長々と書き入れている。書籍の中に入った絵のありかたについて、表現者はそれなりに苦労をし、迷走していたことをかいま見た感じがして、なぜか手に汗を握る思いがした。

20141018木版印刷の絵は、媒体の条件によってさまざまな制限を受けていた。一方では、優れた構図は、絵巻を含むそれまでの絵画の伝統と無関係なはずはなく、その一部は、実際にあらたに作られる絵巻にしっかりと影響を与えた。版本の絵と絵巻との交流、これまた魅力的なテーマである。(右は、「つれつれ草 : 絵入」(八オ)より)

2014年10月11日土曜日

古典画像アクセス

古典画像は、かてつ絵巻、屏風などのシリーズものが刊行されて普通の研究者や読者に読まれるようになるのが、ほぼ唯一のアクセスの方法だった。そのようなシリーズものへの期待や、そのような刊行がもたらす影響は、いまだ変わったものではない。一方では、そのような出版は明らかにペースが落ち、対してデジタル画像公開は日増しに広がり、印刷刊行がなければ、古典画像へのアクセスは実物しかないという事情は、すこしずつ変わった。

20141010「平家物語」をテーマにした画像群のことを例にしよう。これまでの印刷出版を通して、絵巻、屏風、それから版本の挿絵などの資料がさまざまな形で紹介されている。一方では、ウェブで公開されているデジタル画像に目を移せば、以上のような資料に加えて、さらに奈良絵本、伝存あるいは流失した絵巻の模写という二つのグループの存在が浮かんでくる。これらのデジタル画像へのアクセスは、古典の電子化を精力的に取り掛かっている国会図書館や早稲田大学図書館、国立や地方の美術館の所蔵を集約する「e国宝」や横断検索の「文化遺産オンライン」、それから電子公開を積極的に行う明星大学などのサイトに入り、「平家」「源平」などのキーワードを用いて、図書館の本棚なででは期待できない画像群に簡単にたどり着くことができる。ちなみに、ウィキペディアは関連の画像を慎重に選んで公開していることを付記したい。単純に画像の見やすさ、とりわけその画質、保存と利用などを考えれば、デジタル画像は紙に印刷されたものには勝っても負けていないことは、いまや共通の認識になっていると言えよう。

いうまでもなく、印刷物として出版された古典画像は、たいてい在来の研究の手法を守り、注釈や解説を周到に加えている。このような研究的な対応は、デジタル画像にも応用しなければならない。言い換えれば、デジタル資料をめぐっての学問的なアプローチーーそれはおそらく自然とデジタル的な方法を取るのだろうーーが、明らかに必要なのだ。

2014年10月4日土曜日

Surface Pro

旅行に出かけたら、ノートパソコンに頼るしかない。先週の旅では、なぜか手持ちのもの反応の遅いことがとても気になり、のんびりした時間の中でいらいらした瞬間を数回覚えた。このパソコン、手に入れてちょうど二年ぐらいになる。ハードとしてはまだまだ現役の資格を十分持っているが、ソフトの環境変化から考えれば、いよいよ替えどきだ言えないこともない。

20141004そう決めてしまうと、さっそく動いた。パソコンは豪華版を使わないという方針は変えたくない。ノートパソコンも、ひと通り基本的なことができて、ある程度軽い、というのを条件にした。しかし、調べてみたら、満足そうなものは、意外と値段が高い。一方では、同じ機能で考えれば、Surface Proは、却って手頃だと分かった。そこで大学内の店で迷わずにゲットした。

パソコンを入手して、二日経った。といっても、かなり雑用の多いこのころなので、まったく思う通りにさわっていない。ただ基本ソフトを入れておいただけで、具体的に何の作業もしていない。ハードとしては、文句はない。ピキピキした動きはじつに快適で、手応えが良い。一方では、タッチスクリーンがハイライトになるのだろうが、あれこれと試してみても、どうにもなじまない。新鮮なのはたしかだが、今ひとつ落ち着かなくて、要領が得ていない。思えば、指でタッチするということは、アップルに教わったようなものだ。わずかなサイズのスクリーンの上を指でさらに邪魔をする代わりに、やっている作業は思い切り洗練されていて、アクションの一つひとつは単純でいて明快だ。そういう意味で、Windowsは機能が豊富で強力な分、作業のアプローチと指の操作との間の隔たりはすぐにはとても埋めきれない。いうまでもなく、これはあくまでも数時間触っただけの印象にすぎず、これまでになかった操作の可能性への対応には、Windowsだって真剣に取り掛かっているのだから、やがて確かな変容が起こることだろう。

パソコンの進化は、止まるところを知らない。デジタルは、よく紙に喩えられるが、はたして何時ごろになって紙のようにある程度の完成形を迎えるのだろうか。