2019年1月26日土曜日

春日の里

古文クラスは二週の講義を終えたところだ。文法のルールだけではやはり面白くない。ありのままの古典にすこしでも接してもらいたいと思って、短い段落を持ち出してみんなで読んでみた。最初に取り上げたのは、「春日の里」(かすがのみさと)と呼ばれる『伊勢物語』の第一段である。

ならば、絵も併せて見せたくなる。これまで特別に集めているわけではなく、電子公開の多いところから調べて、簡単に手に入るものから使うようにした。早稲田大学図書館も国会図書館もデジタル公開で数点読ませてくれている。右は、月岡丹下画(寳暦六)(早稲田)の挿絵の一部である。それにしても、物語の原文にあわせて読めば、ツッコミ所満載だ。春日といえば鹿、目に入った女性が二人という、物語の構成はたしかに踏まれている。ただ、初冠の主人公、平安時代なら12歳との説まであるが、とてもそのような初々しさが見られない。狩衣の模様はどうやら草だろうけど、歌の読みどころである「しのぶずり」を表現するにはやはり程遠い。もともとほかのバージョンだと、それが紅葉だったり、丸い紋だったりして、いっそう関連性が薄い。そして、そもそも物語に伝えたところでは、「裾を切りて歌を書」いたのだが、そのような簡単に表現できるものでも無視されて、男がそのまま裾に筆を走らそうとしているのだ。

版本の絵柄は創作の到達を成し、このような構図を起点としてさらに屏風や、ひいては新作の絵巻などまで作られたことが多く報告サれている。「吉野の里」に関連すれば、どのような展開が広がったのだろうか、いつかじっくり調べたい。

2019年1月19日土曜日

周りの知人友人との会話の中で、立て続けに目の手術を最近受けた経験談が出てきた。治療の内容も理由もそれぞれ違うのだが、とにかくその体験はかなりインパクトのあるものだったらしい。一人の人間は、瞼を閉じる能力を取り除かれたら、そこから見えてくる世界とはどのようなものだろうか。麻酔という技術あっても、あるいはそれがあったから余計に、恐ろしい。

断っておくが、いまの実例は、どれも自慢や大切な経験であって、同情を期待するようなものではなかった。そのようなところで、これといった話題を提供しなければ、話は進まない。加えて、同年代の人と共通して感じているのは、加齢による目の衰えなのだ。そこで、こちらから持ち出すのは、いつも目の疲れを減らすための工夫と、そのためのノウハウである。終日パソコンのモニターを睨みつける環境の中では、すこしでも目を逸らすための時間を増やしたい。音声入力のことは、すでにかなりのところまで利用できる。手っ取り早いのは、Google Docsからファイルを開いて、ツールのところから音声入力を選べば、そのまま入力を始められる。しかもその精度は、日々向上されている。対して、テキストの機械読み上げは、スマホに入れる定番になっている。パソコンの前に座ったら、同じくTTSの技術が利用できる。ブラウザに追加するアドオンに「Read Aloud」を入れておけば、クリックひとつで画面上のテキストがスピーカーから流れてくる。

音声との付き合いは、古くて新しい。思えば聞いたり話したりすることは、人間の基本的な能力であるだけに、その使い方を調整したり、変えたりすることはけっして簡単ではない。個人的な経験だが、音声入力で文章を書くことは、何回試しても満足できない。教室で大人数を前に喋り続けるのとは、やはりどこか根本的に違う。

2019年1月12日土曜日

古文開講

新学期が始まった。今学期の担当は、二科目、その一つは「日本語古文の基礎」。大学の教室でこれを打ち出すことには、これまでなんとなく躊躇してきた。しかしながら、まったく初めてでもない。いまの勤務校に務めるまえ、一年かけて教えた経験をもっている。あまりにも昔のことになってしまった。

いうまでもなく、古文にはずっと関心を持ってきている。教える機会に恵まれなくても、なんらかの形で関わりを持ちたいという努力は、つねに怠らなかった。その一つは、「インターネット古文講座」と名乗る特設ページの作成である。このブログの右側に、最初から「Kobun On-line」として出している。タイトルは英語でも、内容はすべて日本語だ。ただ、検索をかけてみたら、ブログの本文でけっきょく一度も触れていない。ブログを始めるだいぶ前にすでに公開していたからだろう。いまになっては、公開の確実な日にちも分からない。ただ、共同制作者と二人でドイツでの学会で発表したのが2001年8月との記録が残っている(ICAS 2--International Convention of Asia Scholars)。実際の作業は九十年代の終わりあたりだったに違いない。サイトには、文法の解説に留まらず、すべて項目について、正誤を判断してくれるドリルを用意した。JAVAコードをすこしずつ模索しながら書き出したオリジナルものである。学習者入力を取り入れ、しかもそれを普通のブラウザで実現し、いまだにタブレットでもスマホでも利用できる。古文の教え方としても、技術設計としても、いささか自慢なのだ。

日本語古文というテーマは、はたして普通の学習者からの関心が得られるのか、はなはだ心もとない。だが、実際に教室に行ってみると、受講者人数は、期待を大きく上回った。学習の理由を聞いても、「面白そうだから」、「日本語のレベルをあげたいから」など、教師の心をくすぶる答えがけっこう戻ってきた。どうやら難しいテーマは、熱心な学生を選んだらしい。ちょっと予想できなかった。

Kobun On-line

2019年1月5日土曜日

「住入」のこと

お正月には百人一首。かるたで遊ぶなどの経験は、実際に持ち合わせていないが、それでも思い出して、なにかと絵入りのカードやら絵双六やらを眺めることは、この時ならではの楽しみである。オンラインでアクセスしたのは、ブリティッシュコロンビア大学図書館が制作したデジタルコレクション「百人一首」、百点に近い作品がりっぱに公開されている。

たとえばこれ、「錦絵注入百人一首」に収められた一枚である。阿倍仲麿の歌だが、「古今羇旅」に分類され、「もろこしにて月を見こと」とタイトルが添えられる。絵に描かれたのは、三人の貴紳が筵に対座して酒宴に耽り、机の上には、酒の肴が並ぶ。月を「ふりさけ見」る中麿は、盃を手に握り、過剰に視線を月に向けてはおらず、帽子や服装によって強調される異朝の人が手を伸ばして遠くを指す。それらと関係なく満月は三人の頭上に上る。歌に対して「霊亀の朝、留学生とて唐に在こと五十年、扨日本へ帰らん時、」云々と、二百程度の文字におよぶ注釈が加えられている。それにしても、タイトルの上に出ている「住入」はどうしても解せない。文字として、「注」と「住」とは、文字を書く人、これを読む人にとって、そこまで無頓着で入れ替え可能なものだろうか。

同じタイトルは、かなりの数に及んで制作され、愛読されていたらしい。版や出版形態の違うものは、早稲田大学国文学研究資料館のデジタルコレクションにも収録されている。絵柄もほぼ同じに留まらず、「住入」まで変わらないことを付記しておきたい。

2019年1月1日火曜日

亥歳賀正

謹賀新年。

暦の上で亥の年に入った。去年に引き続き、干支がテーマとなる「十二類絵巻」のことがまず思いに浮かんできた。十二の干支がほぼ平等にビジュアル的に描かれ、猪もしっかりとスポットライトを確保した。そして他の動物に違わず饒舌に語る。そのセリフといえば、「にくしひと、かけゝゝ候はゝや」、「この山のいもは、ほりもとめて候」と、ツッツキや辺りを振り向かないで猛進するものとして、その生態が捉えられている。言葉こそ形に結ばれていないが、まさに「獅子奮迅」である。あるいは、突進する猪のイメージから、ネガティブな要素をいっさい取り払った、思いっきり耳障りの良い表現が「奮迅」に集約されたと言うべきだろうか。

数えてみれば、留学生だったころ、日本で暮らして迎えた最初のお正月はまさに亥の年だった。干支の亥は「ブタ」ではなくて「イノシシ」だと知らされ、中国語の感覚からすれば、ブタの一種に過ぎないイノシシがブタの座に座ったものだと、まったくしっくり来ない感じはかなり長く続いた。ずいぶん昔のことになるが、昨日のことのように思いに残っている。ちなみにブタだと、奮迅というわけには行かず、中国でのそれは、裕福の象徴として富や財産への思いをこの干支に託したのだった。目出たいことである。