2008年7月27日日曜日

猿には馬

友人宅には一つの小さな飾りがあって、いつもみんなの話題になっている。中国からもたらされた木彫の置物で、活発な猿が馬の上に乗って戯れるというものだ。そこの子ども二人は干支で言えば午と申の生まれなので、まるでそのために特別に設えたものではないかと、感心する声が聞かれる。

しかしながら、実のところ、猿には馬、これは中国の民間絵画や工芸品で好んで取り上げられるテーマの一つであり、すこし前の時代まで、いわゆる縁起の良い吉祥物の定番の一つだった。これの裏には、楽しい言葉遊びが仕込まれている。猿に馬、これの組み合わせを言葉にして「馬上瘋猴」と言う。「瘋」とは怒り狂うとの意味だが、時には善意を込めて、自分の子どものことなど、親しみやすく指し示す。したがって、一応は「馬に乗った有頂天の猿」とでも訳せよう。そこに言葉遊びが入る。「猴」とは官吏を意味する「侯」、「瘋」とは官位を授けることを意味する「封」とそれぞれ同じ発音をする。さらに「馬上」とは、馬の上に居ながらと意味すると同時に、「直ちに」との口語表現となる。すなわち「馬に乗ったまま、ただちに官位を授けられ、出世する」との表現を、いわば絵画的に形にしたとのことである。まさに目出度いことではなかろうか。もともと、いまになったら、「封」も「侯」も、封建時代の政治形態を代表する語彙として日常会話から遠ざかり、そのため、このようなテーマの絵画や工芸品が新しく作られることはさほどなく、先の置物も、いかにも古風、あるいは擬古的なもの、ということで味わいを感じさせる。

そこで、実は猿と、馬ではないが、明らかに馬を連想させるような組み合わせは、絵巻の画面にも登場していた。たとえば『鳥獣人物戯画』からの一例が報告できる。馬の頭をした動物は、体は鹿のものになるが、丁寧に描かれた轡(くつわ)は、明らかに馬のそれだ。同じような構図は、前回触れた『藤袋の草子』の、猿たちの婚礼の行列から確認することもできる。そこでの乗り物は、鹿、それに狐だ。

遊び心がいっぱい詰められた構図には、どれだけ失った文化的な常識が隠れているのだろうか。

2008年7月20日日曜日

美女と野獣

「NHKラジオセミナー・古典講読」は、『藤袋の草子』を取り上げた。ストーリーの内容を紹介して、佐竹昭広先生は「美女と野獣型の物語」とさらりと語られた。聞きなおして、思わずあれこれと考えを巡らした。

ストーリーの内容は、猿が人間の女性を無理やりに奪い取り、自分の嫁にするというものである。その間柄は、言葉通りに有無を言わせぬ略奪婚であり、その間に大群の猿たちによって祝いの酒宴など嫁入りの行事が派手やかに繰り広げられる。ストーリーの結末は、一転して人間の立場に立ち戻り、藤袋に閉じ込められた女性を救い出し、しかも同じところに猟犬を隠し、それが猿を噛み散らすという、痛快な猿退治のハッピーエンドになった。

考えてみれば、話の主人公は、たしかに美女と野獣、その通りのものだ。しかしながら、ディズニーの名画や劇団四季の看板ステージともなった、あまりにも有名なあの西洋の童話の枠組みと重なっても、これはまったく別個のものだ。この東洋と西洋とのギャップとは、はたしてどこに由来するのだろうか。ここにあえて西洋童話の名前を持ち出したのは、佐竹先生の優雅な洒落だった。ならば、洒落となる所以の一番の理由、言い換えれば、西洋童話の最大の差は、はたしてどこにあったのだろうか。

いうまでもなく、あの「美女と野獣/La Belle et la Bête」との違いは、数多くある。人間と動物とのラブストーリか、それとも対立する両者の戦いか、一匹の超人的な野獣か、はたまたただ群集することにより人間に迷惑をかけてしまう獣か、話の展開はあまりにも対照的だ。しかしながら、このようなことを挙げ始めると、いかにも理屈っぽくなって、大事なものを見失う。

あるいは、一番大きな違いは、美女が最初からいなかったということではなかろうか。もちろんストーリーの中心にいるのは、一人の娘だ。しかも美人だとの評判も一通り受けている。だが、いくら目を凝らしてこの美女の姿を見つけ出そうと思っても、なぜか徒労に終わる。中心になるはずの女性は、まるでその存在が掴めなくて、一人の人間としての生身の温もりが伝わってこない。ヒーローインのはずの彼女は、不運を嘆く年寄りの夫婦、ひいては嫁入りを喜びあう猿たちと比較しても影が薄い。まったく同じことは、絵の表現にも明らかに現われている。生き生きとした猿たちに囲まれて、画面の中心となる美女は、場違いの十二単といった、王朝貴婦人の格好しか見せてくれなかった。まるで描写を拒もうとする絵師が、どこからか切り紙してもってきて、ここに無造作に貼りつけたような感じだった。

ここに読み出したのは、当時の人々の持つ美女への一つの心像だろうか。それとも読者の目に映し出された民衆的なエネルギーだったのだろうか。

『藤袋の草子』は、サントリー美術館に所蔵されている。しかも同美術館の公式サイトは、その全容を公開している。画像サイズはきわめて小さいが、それでも白黒写真で収録された『御伽草子絵巻』(角川書店、1982年)よりやや見やすいことを付け加えておこう。

サントリー美術館コレクションデータベース

2008年7月13日日曜日

20年前のラジオ講座

手元には、大事に取ってある一セットの録音テープがある。ここ数日、ずいぶんとひさしぶりにこれを取り出して、聞き入った。

テープの内容は、八十年代の半ばごろに放送された「NHKラジオセミナー・古典講読」の録音で、大学院の指導教授である佐竹昭広先生が講義した「御伽草子」である。全十三回に亘り、取り上げられた作品は、『文正草子』『一寸法師』『浦島太郎』といった御伽草子の代表作に加わり、いわゆる狭い意味の御伽草子ではない『藤袋の草子』『福富草子』があった。『文正草子』だけは四回、あとの作品はそれぞれ二回という構成で、一つの作品は一時間半あるいは三時間というゆったりとした放送講座であった。

佐竹先生の御伽草子の講座は、正攻法で、ずばり作品の文章を読み、その絵を説明することを通じて、昔から伝わってきた文学をしんみりと楽しむというスタイルだった。御伽草子の長い文章を、佐竹先生は原文その通りに朗々と読み上げ、そしてその表現の一つひとつについて、丁寧な現代語訳を加え、豊富な言葉を操って解説なさった。このような講義のスタイルを先生本人も「音読」だと捉えられている。そして、御伽草子そのものは黙読の文章ではない、当時の人々には非常に分かりやすいものだったと繰り返し触れられた。思えば、録音だって十分に普及されていなかった当時、おそらく大勢の熱心な聴講者たちが時間を守ってラジオの前に集まり、興味津々に聞いていたに違いない。いっさいの視覚的な要素を排除し、それを伴わせないことを前提とするラジオの向こうで、どれだけの人々が佐竹先生の講義に魅了され、その声に心を打たれたことだろうか。

このラジオセミナーは、はたしていつごろ放送されたのだろうか、確かな記録をもっていない。ただテープをもらい、そして最初から順番に聴き終えたのは、たしか1987年夏ごろのことだと覚えている。テープは、親しい先輩の一人が大事に取っておいて、題箋まで書き添えたうえでプレゼントしてくれたものだ。先輩の好意への感謝の意味も込めて、これをすべて聞いていたことだけは覚えている。ただ当時どこまで理解できたのか、あるいはなにも理解していなかったといまは思う。だが、いま、これを聞きなおして、大学院時代の学生生活のことがここに集約したような気がしてならない。あの時、大学院生のクラスでは指導教官の先生はどなたも多くは話されなかった。その分、先生が口になさった予期しない質問、短いコメントの一つひとつを、クラスから戻ってきた院生たちは、「なぜだ」「どうして」と真剣に反芻し、あるいは自分の失敗を悔しく認め、たまには辛らつにからかいあった。クラスではずっと黙っていた人も、まるで別人になった。かと言って、そのような議論をもっても分からないことが残っていても、それを先生本人に聞きただすような人は、だれ一人いなかった。指導教官と実際に交わされた言葉は数えられるほどしかなくて、指導に仰ぐことも、このように公の場での先生の発言を注意深く集め、それを分かち合うこから始めたものだった。いわば先生の背中を見て成長し、先生とはつねに緊張感、距離感を保っていた。同じようなことはいまは自分の教え子に向けるようなことはとても出来ないが、その分、自分にあのような経験があったことをひそかに自慢している。

佐竹昭広先生は、去る七月一日に逝去された。ご冥福を祈ります。

朝日新聞の記事

2008年7月6日日曜日

十六夜の月

御伽草子を実際に両手で披いてじっくり見つめていれば、おそらく誰もが思わず「美しい」と感慨をもらした経験をもっているだろう。絵巻と比較すれば、装飾や作りにおいて、たしかに豪華さが見劣りをするかもしれない。でも、無心に絵に向けば、その美しさに心を打たれる。はたしてその魅力とはどのような性格のものだろうか。一つのささやかな画面を実例にして考えてみよう。

「内藤記念くすり博物館」の公式サイトでは、「収蔵品デジタルアーカイブ」と名乗って、六点の御伽草子作品の全画像を公開している。その中の一つは「いさよい(いざよひ)」である。明るい十六夜の月に照らされ、中宮とその周りの女房たちの間に展開された優雅な王朝ストーリーが語られる。それの第一の画面は、琴を奏でる中宮と一人の女房を描く。まずは、右の絵をクリックして、画面全体を眺めてみよう。

この絵の魅力とは、一言で言えば、円熟した幼稚さ、といったところだろうか。それまでの王朝貴族の美意識への志向、あるいは安易な傾斜など、指摘しようと思えば、限がないと思われる。画面の内容、霞を靡かせるという構図、人物の配置、俯瞰する角度など、どれも「源氏物語絵巻」といった絵巻の古典を簡単に想起させてしまう。しかしながら、そのような表現の枠組みの踏襲がはっきりしていても、この絵は、明らかに異質でいて、「御伽草子」的なものなのだ。

それはいったいどのようなものだろうか。色使い、とりわけ画面全体の三分の一以上を塗りつぶしたブルーは、とりわけ印象的だ。これとともに、人物や情況の簡潔さにも目を瞠るものがある。それは、抽象的になるぐらい大胆な筆遣いだ。極端なのは、空飛ぶ鳥、寝殿造りの定番である遣り水、そしてこの場面の眼目となる琴、などが挙げられよう。言ってみれば、写実の努力を最初から切り捨て、それの反対側に大きく見得を張っているといったような描き方だ。

一方では、画面を簡潔に仕上げるという努力とは逆に、伝統的な絵巻の画面ではあまり見かけられないものを付け加えるものもあった。たとえば、女房の頭上に棚引く黄金色の霞だ。この黄金の霞はこの画面だけではなく、作品全体の五つの画面すべてに描きこまれている。これがなにか特別なことを意味しているとも考えにくいが、それぞれの画面には豪華な雰囲気を添えたとともに、作品全体にわたって一つの共通した絵画的な記号をなにげなく隠したことになる。

様式化された絵画表現には、絵師の巧みな絵心が託されている。しかも「様式」とはかならずしもネガティブなことを意味しない。突き詰めて言えば、一つの表現手段として、絵巻の絵のありかたとも、本質的に共通しているものだ。

内藤記念くすり博物館・いさよい

2008年7月1日火曜日

「KY」な日本語

去る4月の終わりに東京での八ヶ月にわたる研究滞在を終えた。久しぶりに日本でじっくり腰を下ろして暮らしてみて、言葉の表現にもあれこれと見識が得られた。その中で印象深いことを一つあげるとすれば、恐らくやはり「KY式日本語」にほかならないだろう。

カナダで生活していても、気づいた人が多いかと思う。「KY」とは、「空気が読めない」とのこと。言わば、その場の雰囲気や人々の感情には疎く、周りから浮いてしまう変わり者だという、人の性格についてのネガティブなレッテルだ。あえて解説するまでもないが、英語の略語の格好をしていて、英語の言葉とは関係なく、日本語をローマ字に書き換えたうえで、その頭文字を集めたものだ。もともとこのような言葉の作り方は、「KY」という一語から始まったものではなく、たとえば「NHK」だって、「日本放送協会」の頭文字だから、れっきとした「KY」語だ。ただ、そのような言語学的な議論とは関係なく、いまや「KY」を筆頭に膨大な数の言葉の一群が現われ、それも言葉遣いに自由奔放な若者だけではなく、大の大人やマスコミまで巻き込んでしまうのだから、シマツが悪い。

そもそも「KY」にスポットライトを当ててこれを一挙に表現の表舞台に引きずり出したのは、去年の秋ごろに、いまから一つ前の内閣総理大臣についての捉え方としてマスコミがこの言葉を選んだことに始まった。それにより一挙に「KY」、そして「KY」のような言葉の存在が注目された。わたしが実際に出会った二つの実例を記しておこう。前後して会った二人の昔からの友人のことである。その一人は、研究一徹の頑固親父のイメージを地でいくような人で、ビールを飲み交わしたら、しみじみと中学生の息子さんに「KY」と揶揄され、空気に合わせるもんじゃないと諭してやったとのエピソードを披露してくれた。もう一人のほうは、いつでも自己主張をはっきりしていて正論を張り、そのため学生に慕われるタイプの大学教師で、自分の教え子たちから、「KY」でいて、空気が読めないのではなくてそれを「読まない」と言われたんだよとにんまり。生きた言葉、そして機敏に富んだ言葉遣いがありありと伝わってくる会話は、何時まで経っても記憶に残っている。

「KY」語の妙味は、そのもっともらしい格好からは、とても簡単に想像が付かない意味あい、言い換えれば、字面と中味とのギャップだった。たとえば「AM」は「後でまたね」、「WH」は「話題変更」という辺りは、まだ無難で微笑ましい。「JK」(女子高生)、「DD」(誰でも大好き)は、洒落ていて感心してしまう。しかしながら、「MK5」(マジキレる5秒前)、「ATM」(アホな父ちゃんもういらへん)となれば、どう考えても内輪でしか通用できない隠語に過ぎない。このような言葉でまともな交流ができるとは、正常な感覚からすればとても考えられない。

ここに来て、日本の社会でのこのような言葉への対応が、むしろ興味深い。「KY」語が面白そうだと思ったら、もうりっぱな学者から大手の出版社まで一斉に取り掛かり、語学的な議論、文化論的な観察、はては「単語帳」「辞書」まで作りあげ、あっという間にそれを本屋に並べてしまう。けっして新しい潮流に乗り遅れまい、知らないで笑われたら堪らないといったような思惑が見え見えの構えだった。まさに日本風の大人の対応の典型であり、日本的な言語感覚、ひいては社会生活のバランスを覗き見できた思いがしてならない。

「KY」語とは、あくまでも一つの言語風景だ。紙上の空論だけでは始まらない。ならば、自分でも感覚が掴められるものかと、気楽に掛かって作文を思い巡らした。苦労したあげく、つぎのようなものしか思い浮かばなかった。

「世の中はKY語がはやっているが、その使い方となればどれも「CB」(超微妙)でいて、「IW」(意味わかんない)。声掛けられても「HT」(話ついて行けない)、やっと分かったと思ったら、「TK」(とんだ勘違い)。いらいらして「MM」(マジムカつく)。無理するもんじゃない。「TD」(テンションダウン)だ。お手上げだ。」

タイトルには、もっともらしく「日本語」と付けたが、実際は、はなはだ身勝手な「KYな日本語教師」にしかならなかったのかもしれない。

Newsletter No. 36・2008年7月