去る4月の終わりに東京での八ヶ月にわたる研究滞在を終えた。久しぶりに日本でじっくり腰を下ろして暮らしてみて、言葉の表現にもあれこれと見識が得られた。その中で印象深いことを一つあげるとすれば、恐らくやはり「KY式日本語」にほかならないだろう。
カナダで生活していても、気づいた人が多いかと思う。「KY」とは、「空気が読めない」とのこと。言わば、その場の雰囲気や人々の感情には疎く、周りから浮いてしまう変わり者だという、人の性格についてのネガティブなレッテルだ。あえて解説するまでもないが、英語の略語の格好をしていて、英語の言葉とは関係なく、日本語をローマ字に書き換えたうえで、その頭文字を集めたものだ。もともとこのような言葉の作り方は、「KY」という一語から始まったものではなく、たとえば「NHK」だって、「日本放送協会」の頭文字だから、れっきとした「KY」語だ。ただ、そのような言語学的な議論とは関係なく、いまや「KY」を筆頭に膨大な数の言葉の一群が現われ、それも言葉遣いに自由奔放な若者だけではなく、大の大人やマスコミまで巻き込んでしまうのだから、シマツが悪い。
そもそも「KY」にスポットライトを当ててこれを一挙に表現の表舞台に引きずり出したのは、去年の秋ごろに、いまから一つ前の内閣総理大臣についての捉え方としてマスコミがこの言葉を選んだことに始まった。それにより一挙に「KY」、そして「KY」のような言葉の存在が注目された。わたしが実際に出会った二つの実例を記しておこう。前後して会った二人の昔からの友人のことである。その一人は、研究一徹の頑固親父のイメージを地でいくような人で、ビールを飲み交わしたら、しみじみと中学生の息子さんに「KY」と揶揄され、空気に合わせるもんじゃないと諭してやったとのエピソードを披露してくれた。もう一人のほうは、いつでも自己主張をはっきりしていて正論を張り、そのため学生に慕われるタイプの大学教師で、自分の教え子たちから、「KY」でいて、空気が読めないのではなくてそれを「読まない」と言われたんだよとにんまり。生きた言葉、そして機敏に富んだ言葉遣いがありありと伝わってくる会話は、何時まで経っても記憶に残っている。
「KY」語の妙味は、そのもっともらしい格好からは、とても簡単に想像が付かない意味あい、言い換えれば、字面と中味とのギャップだった。たとえば「AM」は「後でまたね」、「WH」は「話題変更」という辺りは、まだ無難で微笑ましい。「JK」(女子高生)、「DD」(誰でも大好き)は、洒落ていて感心してしまう。しかしながら、「MK5」(マジキレる5秒前)、「ATM」(アホな父ちゃんもういらへん)となれば、どう考えても内輪でしか通用できない隠語に過ぎない。このような言葉でまともな交流ができるとは、正常な感覚からすればとても考えられない。
ここに来て、日本の社会でのこのような言葉への対応が、むしろ興味深い。「KY」語が面白そうだと思ったら、もうりっぱな学者から大手の出版社まで一斉に取り掛かり、語学的な議論、文化論的な観察、はては「単語帳」「辞書」まで作りあげ、あっという間にそれを本屋に並べてしまう。けっして新しい潮流に乗り遅れまい、知らないで笑われたら堪らないといったような思惑が見え見えの構えだった。まさに日本風の大人の対応の典型であり、日本的な言語感覚、ひいては社会生活のバランスを覗き見できた思いがしてならない。
「KY」語とは、あくまでも一つの言語風景だ。紙上の空論だけでは始まらない。ならば、自分でも感覚が掴められるものかと、気楽に掛かって作文を思い巡らした。苦労したあげく、つぎのようなものしか思い浮かばなかった。
「世の中はKY語がはやっているが、その使い方となればどれも「CB」(超微妙)でいて、「IW」(意味わかんない)。声掛けられても「HT」(話ついて行けない)、やっと分かったと思ったら、「TK」(とんだ勘違い)。いらいらして「MM」(マジムカつく)。無理するもんじゃない。「TD」(テンションダウン)だ。お手上げだ。」
タイトルには、もっともらしく「日本語」と付けたが、実際は、はなはだ身勝手な「KYな日本語教師」にしかならなかったのかもしれない。
2008年7月1日火曜日
「KY」な日本語
Newsletter No. 36・2008年7月
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