御伽草子を実際に両手で披いてじっくり見つめていれば、おそらく誰もが思わず「美しい」と感慨をもらした経験をもっているだろう。絵巻と比較すれば、装飾や作りにおいて、たしかに豪華さが見劣りをするかもしれない。でも、無心に絵に向けば、その美しさに心を打たれる。はたしてその魅力とはどのような性格のものだろうか。一つのささやかな画面を実例にして考えてみよう。
「内藤記念くすり博物館」の公式サイトでは、「収蔵品デジタルアーカイブ」と名乗って、六点の御伽草子作品の全画像を公開している。その中の一つは「いさよい(いざよひ)」である。明るい十六夜の月に照らされ、中宮とその周りの女房たちの間に展開された優雅な王朝ストーリーが語られる。それの第一の画面は、琴を奏でる中宮と一人の女房を描く。まずは、右の絵をクリックして、画面全体を眺めてみよう。
この絵の魅力とは、一言で言えば、円熟した幼稚さ、といったところだろうか。それまでの王朝貴族の美意識への志向、あるいは安易な傾斜など、指摘しようと思えば、限がないと思われる。画面の内容、霞を靡かせるという構図、人物の配置、俯瞰する角度など、どれも「源氏物語絵巻」といった絵巻の古典を簡単に想起させてしまう。しかしながら、そのような表現の枠組みの踏襲がはっきりしていても、この絵は、明らかに異質でいて、「御伽草子」的なものなのだ。
それはいったいどのようなものだろうか。色使い、とりわけ画面全体の三分の一以上を塗りつぶしたブルーは、とりわけ印象的だ。これとともに、人物や情況の簡潔さにも目を瞠るものがある。それは、抽象的になるぐらい大胆な筆遣いだ。極端なのは、空飛ぶ鳥、寝殿造りの定番である遣り水、そしてこの場面の眼目となる琴、などが挙げられよう。言ってみれば、写実の努力を最初から切り捨て、それの反対側に大きく見得を張っているといったような描き方だ。
一方では、画面を簡潔に仕上げるという努力とは逆に、伝統的な絵巻の画面ではあまり見かけられないものを付け加えるものもあった。たとえば、女房の頭上に棚引く黄金色の霞だ。この黄金の霞はこの画面だけではなく、作品全体の五つの画面すべてに描きこまれている。これがなにか特別なことを意味しているとも考えにくいが、それぞれの画面には豪華な雰囲気を添えたとともに、作品全体にわたって一つの共通した絵画的な記号をなにげなく隠したことになる。
様式化された絵画表現には、絵師の巧みな絵心が託されている。しかも「様式」とはかならずしもネガティブなことを意味しない。突き詰めて言えば、一つの表現手段として、絵巻の絵のありかたとも、本質的に共通しているものだ。
内藤記念くすり博物館・いさよい
2008年7月6日日曜日
十六夜の月
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