2017年2月25日土曜日

Old Japan Redux 3

先学期、日本の歴史についての講義をし、学生レポートには相変わらず素晴らしい作品が集まった。成績判断の対象である提出物だが、それでも学生個人と教師一人の間だけのやりとりに終わらせないことを心がけ、まずはすべてクラス内部で互いに読めるようにしておいた。それと同時に、さらに読者を広めたいという目的で、今年も優れたフィクション作品などを選んで、小さな一冊とした。「Old Japan Redux 3」として、週末から勤務校の公式サイトで公開した。

日本の歴史上の出来事に興味があり、かつ英語圏の若い学生たちの発想や受け止め方を知りたい方には、ぜひご一読をお勧めしたい。たとえ英語の文章に時間を取られたくなくても、後半の漫画の部なら、確実に惹かれるに違いない。正直、授業を担当し、合わせて37時間の講義を三ヶ月の間にこなしてきた教師本人としても、読んでいてあらためて感嘆するところが多い。歴史事件へのアプローチ、資料の読み方や着眼など、自分が教え込んだり、植え付けたりしたと言う自信は、とても持たない。あくまでも入門のコースなので、とりわけたくさんの資料を読ませたり、調べさせたりしたわけでもない。なのに、これだけ感受性、溢れんばかりの表現欲、的確で楽しい表現力など、はたしてどこから来たのだろうか。講義を続けてきた教師だとは言え、単なる読者として、とにかく若い作者たちに刺激され、励まされていると、今年も記しておこう。

けっして意図的に狙っているわけではないが、振り返ってみれば、同じタイトルのこれまでの一冊目二冊目も、まったく同じ時期に仕上げ、しかもその公開もともに二月第三週だった。このようにささやかな伝統が作られていくものだと、自分に言い聞かせながら、この作業に一段落をつけた。

Introducing Old Japan Redux 3

2017年2月18日土曜日

デジタル画像の継承性

週末に、インターネットを通して一つの研究発表を行った。二年かけての小さなプロジェクトについての報告であるが、時間が止まらずに経過した中、思う通りの成果にはなかなか達成できていない。プロジェクトのタイトルに基礎研究と名乗った通り、あくまでも基礎にかかわるものしか残らなかった。

報告で触れた基礎認識の一つをここに記しておこう。それは、デジタル環境における画像データの継承性である。古典資料における文字も画像も、まずは一通り電子画像として撮影なりスキャンなりの手段を通してデジタルデータに記録する。しかしながら、文字情報に対する電子テキストと、画像情報に対する画像データの間には根本的な違いが存在している。前者の電子テキストには、JIS基準やユニコードなどをもっていち早くスタンダートが樹立されている。しかしながら、画像データには、JPGやPNGなど市民権を獲得した基準が見受けられるようになったにも関わらず、解像度や色彩の記録など、まだまだ発展の余地が残っている。解像度一つをとり上げてみても、利用できれば十分と最高の画質という二つの極端な発想はつねにあった。そして、記録、保存、転送の手段の進歩にともない、数年まえまで最高の画質とされたものでも、いつの間にか利用に十分とさえ考えられるようになり、かなりの機関などでは、じっさいに撮り直しの決断を余儀なくさせられている。とりわけ古典文献の場合、資料の保存などの見地から、とても時間の労力だけでは片付けられない。古典画像の内部に立ち入って追加の情報を作成し、それを対象にデータベースを構築するという該当のプロジェクトは、したがって画像データの継承性というところで最大の難関に直面せざるをえなかった。

ちなみに、発表は質疑応答も含めて、ほぼ秒単位のロスもなくスムーズに進行できた。USTREAM放送で送られてくる会場の様子を、手元の別のパソコンの画面で確認をしながら話を進め、まるで会場に身を置いたような感覚だった。地球半分をまるごと行き帰っているデジタル信号の不思議を噛み締めつつ、とても貴重な経験を得た。

ARC・2016年度成果発表会

2017年2月11日土曜日

Android・変体仮名百語

特設ページとしてスタートした「変体仮名百語」は、アップルのアプリとなってiTunesに登場し、それから三ヶ月近く過ぎて、アンドロイドアプリとしてGoogle Playで公開した。内容にはとくべつに変化を加えたわけではなく、あくまでも携帯というデバイスの可能性に惹かれて、どのような受け止め方があるのだろうかと想像しながらの試みである。アプリ開発担当の専門技術者からの連絡を受けて、即その日のうちにSNSで公開の第一報を行った。

アップルのアプリの時にすでに経験したことだが、アプリ公開をうけて迅速に届いた声には、同じ分野の研究者や学習者に加え、まったく予想していなかった方向からのものがあった。それは、いわゆるマーケティング、すなわち販売促進の立場からのものだった。いずれも丁重でいて真摯、自己紹介に続いて、宣伝に協力する用意や方法がある、これを一種のサービスとして利用することをぜひ検討してほしいという内容が続く。連絡が届いたのは、アプリ公開に用いたメールアカウントではなく、勤務校の公式のものだったことなどから見て、個人のホームページなどを閲覧したことぐらいは察しがつく。いささか意外な反応だった。一方では、日本、ひいては古典、画像資料、学校教育などに具体的な接点があるとも思えない。もともと英語圏からすれば、以上のようなきわめて漠然と無限の広がりをもつものでさえ、かなり独特な存在に映って見えるものだという事実を付け加えなければならないのだろうけど。

現在のところ、このようなサービスに頼る予定はない。SNSで告知をし、それを受けて、Facebookではなんらかの形で交流を持っている方々、そしてツイッターではほとんど個人名が不明だが、あきらかに関連ある分野に興味のある方々からの反響は、いずれも嬉しく拝読している。しかしながら、プロの力を借りて影響を広めるとなれば、やはり小さくはない飛躍があるように思えてならない。伝統的な文化系の価値観に規定される発想なのだろうか。

Classical Kana - 変体仮名百語

2017年2月4日土曜日

恵方か兄方か

今週に迎えた季節の大きな移り変わりは、節分。暦の上では、すでに春も訪れてきたものだ。一方では、いまだ雪に包まれた厳しい寒さの中から遙か眺めた、いかにも異国らしい日本の風景には、鬼や福を連呼する豆マキよりも、恵方マキのほうがさまざまな意味で話題を攫ったらしい。

恵方という言葉には、個人的にまったく馴染みがない。辞書などを調べれば、同じ言葉は古くからさまざまな漢字に当てられた。なかでも、あるいは「兄方」がいちばん理解しやすいものだろう。干支の読み方から派生されたものと思われ、同じ知識体系の一つとしてまずはしっくり来る。対して、言葉の意味に重きを置いた当て字として、「吉方」(よきかた、よきほうと読まれたか)、「得方」、そして「恵方」など、多彩な用例が報告されている。言語史の勉強をしっかりしていない自分には、古辞書、ひいてはさまざまな古記録データベースにアクセス出来ても、意味ある結論にたどり着く自信がない。ただ「日本国語大辞典」によれば、「恵方」はたしかに近世以後一般的な表記となったと明記していることだけ覚えておきたい。

このように、恵方という言葉を反芻している間に、世の中は、しかしながら巻きずし、コンビニ、ノルマと労働条件など、「恵方」というめでたい言葉は、どうも縁起でもない方向へまるで連想ゲームのように慌ただしく移り変わっている。言葉が変容する極端な一様相として特記すべきだろう。