2010年12月24日金曜日

歌サロンの再現

大学では、今年最後の一週間に入った。仕事締めくくりの合間に、同じ学科の教授が一席のコンサートを用意した。さほど宣伝もしておらず、集まったのはわずか200人ちょっとの規模にすぎなかった。しかしながら、だからこそ西洋文化伝統の一面を窺いえたような思いをして、短い時間をすっかり堪能できた。

コンサートのテーマは、同教授の最近の研究課題とも関連して、ポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルド(Pauline Viardot)という名の十九世紀フランスの声楽家・作曲家である。ただし、これはあくまでも一つの枠組みである。この設定に沿って、自由自在に音楽の傑作が鏤められた。ステージに上ったのは、個人的な繋がりで迎えた世界レベルの歌手、大学が擁する国レベルのピアノ演奏家であり、加えていまだ在学中の学生四人による朗読が司会の役目を果たした。ステージの設計は、即興でいて、流麗。高い水準の歌や演奏は、言ってみれば観客の拍手の声をはるかに上回るものがあった。ここに奥ゆかしい音楽サロンの再現がコンセプトであるが、それについてほとんどなんの知識も持ち合わせていなくても、しっかりした伝統の力を感じえた。

歌のサロン。日本の伝統に置き換えるならば、さながら能楽あるいは連歌、といったところだろうか。ただ、そうだとすれば、能も俳諧も現代の生活の中で、こうも気軽にステージを構成できるとは、とても思えない。

An Evening in Weimar

2010年12月18日土曜日

プログラミングの躓き

今年度の仕事が一段落して、数日の余裕が出来たので、ひさしぶりにプログラミングにでも挑戦してみようかと、iOSのアプリに目を向けてみた。しかしながら、わずか一日ちょっとで、もののみごとに思いはずれだと分かった。このささやかな躓きを書き留めたい。

ソフトに取り掛かるための初期投資は、なにも要らなかった。アプリを作成するプログラムをダウンロードするのみで事足りた。ただ、やってみたら、そのプログラムのサイズにはびっくりした。3GBのファイルで、パソコンで展開したら10GBものスペースを占めた。ここにすでに良からぬ予感が漂った。そして、関係する説明やオンラインの議論などを読んでみて、ネガティブなコメントがかなり多い。自分の手でいざ試してみようと思ったら、それぞれのタイプのデバイス、同じデバイスのそれぞれのソフトバージョンに個別に対応し、しかも互いにほとんど交換性がないことには驚いた。そもそもスクリーンサイズやアイコンから全部違う。さらに、入門者にとってのてっとり速い手段はサンプルなのだが、公式サイトが提供しているサンプルは、入れたてのプログラムでは、おそらくサンプルのバージョンが一つ遅いせいか、すでに動かない。しかもよく調べてみれば、プログラムはすでにパソコンのシステム認証IDを変えてしまったらしく、そこから対応しないと、かなりの部分が動かないとか。ここに来て、さっさと力負けを認め、お手上げだ。

思えば、ソフト作りをすこしずつ習って実践する人に取ってみれば、作ったものがはたして通用するのかが一番の不安だ。逆に言えば、模索して書いたコードが期待するとおりに動いたときの悦びこそ新参者にとっての醍醐味だ。iOSでは、そのようなことはなぜか期待できそうにない。異なる種類の実機へのテストはまずは現実的ではなく、不特定多数の人に使ってもらうまでには任意性の高い審査が待ち受けている。だれでも使えるというのが謳い文句だが、どうやら自分がその「だれでも」のグループに入らないのがたしかのようだ。

2010年12月11日土曜日

「自炊」その後

数ヶ月前、あるニュースレターに随筆を頼まれて、デジタル書籍に関連する自炊のことを書いてみた。今週、それが発行され、同じ文章を自分のサイトにも載せた。したがって、実際に「自炊」を試みたのではなく、あくまでも一つの議論を書いた「その後」ということである。

こういう性格のものだから、数ヶ月のうちに状況が大きく変わるものだろうと、最初から気になっていた。案の定、昨日のNHKニュースはそのような変化を物語る象徴的なエピソードを取り上げた。いわば電子書籍出版をめぐる出版社の対応である。報道されたのは、とある大手のものだった。担当者の仕事ぶりを見せるもので、それこそ数百冊のタイトル、億単位の売り上げをもつ一人のメジャーな作家に、一紙の契約を促すものだった。なぜかはらはらして目を疑った。スケールが大きいというか、いささか乱暴というか。はたしてカメラ前でその作家は戸惑いを隠さず、自分の作業に影響がないとまずは確認し、「編集者との信頼関係だ」と付け加えた。出版社の意気込みはたしかだ。ただ、そのような努力が、紙媒体が持たない電子メディアならではの特徴をしっかりと見据える未来志向のものにつながることを祈るのみである。

ところで、「自炊」という言葉はどうしても落ち着かない。はたして個人デジタル化という行動が続いているうちに違う表現に取って変わるのか、それとも将来になっても一つの風変わりな行動を記録するための変わった表現として覚えられるか、ちょっぴりしたみものだ。いずれにしても、「自炊」という行動がそう長く続くとはとても思えない。

2010年12月4日土曜日

電子図書館、解決編

先週の出来事のその後を記しておく。まずは、決着があっさりと決まった。週明けにさっそく図書館から電子メールが入り、ダウンロードのソフトを提供する会社からの返答で、対応方法が書いてある。その通りにやって、あっさりと問題クリアができた。その解決方法は、あわせて六つぐらいのiTunes関連のソフトを一つずつ、しかも所定の順番に従ってパソコンから外し、その上ソフトを入れ替えるというものだった。

この経験から、じつにいろいろなことに気づかされた。まずは、Windows上で稼動する第三者のソフトとなれば、それがどんなに優れた会社によって作られたものであっても、予想外の問題には、いまのように暗中模索をしながら対応せざるをえない。アップルのソフトは、かなり汎用なものになったが、それがいくつものユニットに分かれた。この仕組みは、そもそもリソースの節約、重複の回避が理由なはずだが、いまのようなケースでは、それがはたして最善の方法なのか、はなはだ疑問が多い。そもそも一つの小さな外部ソフトへの対応のために、ソフトを外すことからやりなおし、それもエンドユーザーに任せて、マニュアル的に作業をさせるのみというのは、どう考えてもいささか情けない。しかしながら、まさにいまのような規模になってしまったものだから、いまさら簡単に変えられるものではなさそうだ。

ソフトは、すこしずつ積み上げられるものであり、しかも出来上がってしまえば、簡単にリセットできるようなものではない。これも現実の一部なんだ。なにかを始めようとするとき、肝に銘じたい。

Removing and reinstalling...

2010年12月1日水曜日

不思議な「自炊」 (リレー随筆)

前回の「リレー随筆」で、下野香織先生はフランス滞在秘話を交えて、「以言伝心」を興味深く書かれた。リレーのご指名をいただいたので、それに賛同しつつ、あえて逆説の一例を取り上げてみよう。結論から言えば、並大抵の言語知識を持っていても意味を伝え切れず、首を傾げて苦闘せざるをえない、そのような笑うに笑えない一つの言葉の光景である。

「自炊」という言葉、もちろん知っていると高を括ることなかれ。ここでいう「自炊」とは、食事や料理とはいっさい関係ない、さらに言えば今時のデジタル環境の応用の一こまであり、この言葉の使い方そのものには、日本語表現の無規制な増幅と、社会生活における日本人の道徳的な自制が象徴的に現われていると言えば、どなたかすでにピンときただろうか。

まず、「自炊」の内容から説明しよう。「自炊」とは、パソコンなどで読む電子書籍を自分で作成するという、一つの新しいプロセスを指す。具体的には、本屋から書籍を購入してきて、それをページがばらばらになるように裁断し、スキャナーに掛けてPDFなどのフォーマットの電子ファイルに作成する。なおこのような作業の最大の理由は、本の保管と書斎スペースの確保にあるので、「自炊」を終えた書籍のページは廃棄される運びとなる。注目してもらいたいのは、このような「自炊」とは、一部の極端な愛好者しか手を染めない行動ではないことだ。これまで多くのメジャーな新聞が特別に記事を組んで取り上げている(「朝日新聞」8月19日、「産経新聞」9月25日、「読売新聞」9月27日、など)。さらに、巷では「自炊」するためのスキャナー、はたまた専用の書籍裁断機が売られ、インターネットでは「自炊」請負の有料サービス(一冊100円が相場だとか)の広告が打たれている。

ここでは、まず社会生活としての「自炊」の文化的な側面を眺めてみよう。「自炊」という行動が行われる理由は、いうまでもなく日本の電子書籍環境にある。すなわち書籍を電子の形で購入、閲覧、保存といった技術的な手段が確保された今、これに対する需要が確実に存在しているにもかかわらず、出版社などは、さまざまな理由によって、電子出版には頑として取り掛かろうとしない。一方では、読者の人々はなんらかの方法で電子出版や流通を後押しするのではなく、在来の書籍を購入して、電子化を各自の手で仕上げてしまうという形で対応した。この方法は、電子の媒体の根本的な特徴(複製や流通の利便性)を無視し、各自でデジタル化するという途轍もない無駄を厭わない遠回りなものだ。この行動自体は、一つの意思表現である。その裏には、一種の文化的な矜持が伴っていよう。「自炊」を謳う議論は、電子データの流通どころか、その交換や再利用などにはけっして触れない。電子メディアにおける著作権のことに不確定なところがあるかぎり、それとはいっさい関わらないところに立場を持ち、書籍を実際に購入して、それ相応の代償を支払った物理的な証拠を手にしたことで、著作権侵害のような非難はけっしてさせないという潔癖志向が、ここから否応なしに見受けられる。

話を言葉の領分に戻そう。一つの新語として、「自炊」はまさに不思議だ。まずは確認しておくが、電子書籍の手作りを指すこの言葉の構成は、まったくのデタラメでもない。その由来は、書籍から電子データを「自」分で「吸い」あげることにあったとされる。ただ、この場合、それが「自吸」でもなければ、「ジスイ」でもないことが、ミステリアス。考えてみよう。これまで存在しなかったことを言い表すために、それに対応する表現が必要となり、新しい言葉が誕生する。それにはおよそ三つのあり方が考えられる。既存の言葉の流用、言語ルールに沿った活用、そしていっさい存在しなかった言葉の創出である。それぞれ実例を挙げてみよう。既存の言葉の流用は一番多く、たとえば携帯電話を指して「電話」が用いられ、やがてこれが普通になって、在来の電話が「固定電話」と修飾的な工夫を施さざるをえない。これに対して、二番目のものは言語ルールに沿った活用があり、言葉の活用が魅力的で知的な要素が多い。最近気づいた例で言えば、「就職活動」が短縮して「就活」となり、これに習って「婚活」が語られ、やがて今時の若者の気質を表わすものとして「恋活」が造られる。三番目は一切存在しなかったものを編み出すもので、「KY」などがまさにその典型だ。以上の形で新語のありかたを捉えるものならば、「自炊」はそのどれにも当てはまらない、まさに特殊なものだ。一つの新しい出来事を指しながら、すでに存在していて、頻繁に使われ、かつ意味の関連がまったくない言葉を用いる。しかも、これをもって電子書籍の自作を意味させても、食事を自分で作るという言葉になんらかの影響を与えようとするわけではなく、それと区別を持たせようともしない。一種の言葉の乱暴な応用だとされてもやむをえない、言葉のありかたとして、はなはだ異様なものだと言えよう。

裁断され、スキャナーに掛けられ終わったページの集合は、書籍の変わり果てたもので、もはや書籍とは言えない。だが、それがちり紙として捨てられるのではなく、束ねられて古本屋に流されるとウワサに聞く。つねに電子書籍に惹き付けられている筆者ではあるが、「自炊」という名の、本を裁断することから始まる、本とは言いようのないこの極端な付き合いには、どうしても拒絶感を禁じえない。これなど、ただの愚痴にしか聞こえないのだろうか。

つぎの「リレー随筆」は、ヨーク大学の矢吹ソウ典子先生が快くバトンを引き受けてくださった。いつも学会で刺激の多い発表を聞かせてくれるが、どのようなことを書かれるのか、いまから楽しみにしている。

CAJLE Newsletter No. 41・2010年12月

2010年11月27日土曜日

電子図書館使用の一日

市民図書館小説朗読コレクションとの付き合いは、数ヶ月まえからすっかりオンラインに切り替った。そのような快適な使用の中で、昨日はじめてちょっぴりした苦労を経験をした。電子ならではの典型例なので、メモしておこう。

問題は、なんの前触れもなくやってきた。気に入ったタイトルを貸し出して、パソコンに落としたまでは普段のままだが、いざこれをiPodに移そうとすれば、プログラムが運転停止してしまった。使用しているのは、図書館が提供しているダウンロードや転送のソフト(OverDrive)と、iTunesだ。ソフトやパソコンをリセットしても変わりがない。かなりの新刊なので、音声ファイルのプロテクトが更新したからではないかと想像したが、この判断の間違いが苦労の始まりだった。あれこれと試行錯誤の連続。その過程で新たな事実がつぎからつぎへと飛び込んでくる。すっかり汎用なものになったと思い込んだ音声ファイルはマックのパソコンには一切対応していない、プロテクトを外すなめの方法はさまざまと工夫され、それこそDOSのコマンドを用いたり、音声をすべて流してその過程を録音しなおす辛抱強い対応があったりと、感心するぐらいだった。しかも電子図書館貸し出し管理の仕組みにも発見が少なくなかった。

一通り苦労をして、ようやく音声ファイルではなくて、iTunesに問題があるのではないかと始めて気づき、そして数日前にこれが10.0から10.1にアップグレードされたことを思い出す。これでようやく問題の核心に辿り着いた。ただしそこから見出した答えは、まさに興味深い。

サイト検索してみたら、たしかに同じ問題が報告されている。しかもそれへの対処は、iTunesの一ページを占めている。それは、iTunes開発者と三人のユーザーとの交信記録だった。三人ともさほど予備知識を持たなく、開発者の対応ははっきりしていて、丁寧だ。簡単にまとめればつぎのような流れだ。一人目は問題を報告する。開発者の指示は、iTunes、Safari、さらにもう一つの付属ユニットを削除し、新しいパッケージを入手してインストール、その上一つの特定のファイルを入れ替えるという手の込んだものだった。二人目は同じ質問をするが、ファイルの特定などについて関連の情報を読めと突き放す。三人目はまた同じ質問をしたが、こんどは、開発者はiTunesのパッケージをすでに更新したので、新しいものを用いたらよしとのことだった。三人のユーザーとも満足した結果が得られて、感謝の声で締めくくった。しかしながら、わたしの場合、三人の経験をすべて読んでから試すのではなく、一人ずつのところでその答えを実行したのだから、余計なむだをさせられた。しかもバツの悪いことに、三番目の対応を実行しても、問題はまったく解決できていない。

しかしながらこれでとにかく問題の理由が分かった。解決に固執せず、iTunesが10.0のままのべつのパソコンを見つけ出して、それを使ったらタイトルをiPodに移すことにあっさり成功した。

苦労した。しかしながら、iTunes開発者宛に四人目のユーザーとしてコメントを送る気がなかなか起こらない。手元のパソコンの設定をプログラマーに正確に説明する気力がまず持たない。とりあえず市民図書館にはメモを送った。あとはiTunesの更なる更新を待つのみ。電子図書館が直面する多岐にわたる課題を思い返しつつ。

2010年11月20日土曜日

中・日の古典を並べて読む

二年に一度講義するクラスを担当している。いまから十年近くまえ、半分気の向くままに企画したもので、それがそのまま定着してきた。クラスの定員は30名(来年度から32名に)、中国と日本と二つのコースを修得する学生を一つの教室に集めて、英語の翻訳による中国と日本の古典を並べて読む。来年の冬学期には、このクラスの5回目の講義となる。

毎回は違う作品、あるいは「今昔物語集」のような大部の作品からは違うストーリを選び、読む内容をすべて入れ替える。したがって、学生たちと新鮮な気持ちで古典を英語で読んでみるという、自分にとっても少なからぬの悦びが伴われるものだ。作品選びには漠然としたテーマを持たせ、三年前は「武士」、去年は「男女や家族」、そして来年は「神と鬼と霊魂」。作品を決めるためには、それがすでに英訳され、出版されていることが一つの前提になる。古典の一級作品がすべて英訳されるにはほど遠いが、それでも抜粋なども含めて、学術的、あるいは趣味本位な訳が数多く、選択の余裕も十分に大きい。今年は、これまでと比べて枚数の多い作品を選んだ。約二週間の読書を経て、そのリストをようやく決め、しかも学生たちが使いやすいように一冊の教材ノートに仕立てるという作業までほぼ完成できた。

この講義では、毎回は一点の新しい中国の画巻を取り上げることを心がけてきた。今度は、あの屈原の詩「九歌」を描いたものだ。詩とあわせてじっくりと読む、若い学生たちの初々しい感性を注意深く観察し、吸収する。楽しみだ。

2010年11月13日土曜日

「TED」を観る

最近、興味深いサイトに出会った。そのタイトルは「TED」。「Technology Entertainment Design」という三つの言葉の頭文字を取り、「Ideas Worth Spreading」との副題が添えられている。「広めるだけの価値がある英知」とでも訳すべきだろうか。知る人ぞ知っているサイトで、熱狂的なファンが世界中に大勢いるとすぐ気づいた。一言で言えば、英語によるスピーチを録画で見るものである。一流のスピーチのオンパレード。音声を聞き入り、丁寧に作り上げたプレゼンに目を凝らし、表現の妙に唸りをあげる。これぞ印刷された本では味わえない、ネットならではの醍醐味だ。

サイトの作りは、いたって単純だ。大人数の観客をまえにして、一人で大きな舞台に立って、三十分か一時間しゃべりまくる。それをいくつかの形で分類し、クリックしたらそのスピーチの動画が再生される。だが、それはけっして手抜きを感じさせない。その理由は、講演者のだれもが一家の言をなしている有名人だということから始まる。場合によっては、非常に訛りのある英語が操られて、聞き取りにくいものもあるが、それでもスピーチ内容で勝負していて、言葉の限界が易々と超えられてしまう。講演の内容は、放送時間からして再編集が加えられたと想像するが、しかしながら、一部有料とかのような小細工がいっさい施されていなくて、安心して観ていられる。まさにこのようなオープンな方針が広く賛同されたと見受けられ、多くのスピーチには有志による外国語訳の字幕が付けられている。

思わず聞き入ったスピーチの一つには、電子図書館を作るというものがあった。講演者は、ブルースター・ケール(Brewster Kahle)氏。人類がこれまで書き残したすべての書物を対象にするという雄大な構想には、覇気を感じて、なんとも気持ち良い。そのインパクトはなかなか忘れられない。

TED日本語TED

2010年11月6日土曜日

ブルガリア語の始まり

先週、一週間の仕事の最後の一時間は、月一度の職場の同僚が研究を語り合う時間だった。ロシア語担当の教授が、東ヨーロッパの言語を対象にしたフィールドワークを非常に興味深く話してくれた。その内容は、今年の五月、ブルガリアの小さな地方図書館で恵まれた中世古写本の発見であった。これまでカタログにも正しく記録されず、いっさい研究の対象とならなかったその一冊は、キリスト教の教えを記した教典だった。発表者によれば、それは十七世紀に遡り、それがもつ学術な価値とは、ブルガリア語の書写言語の起源をこれまでの通説より百年も早められたことになったとのことだった。

一つの言語の、それの書写されたものに限られたものだとはいえ、その起源を中世に求めることなど、東アジアの文明を視野にする人々の常識には、かなりのインパクトをもつものだと言わざるをえない。話を聞きながら思わずウィキペディアにアクセスしてみたが、たしかにブルガリア語の現代語の起源を十八世紀の後半だと記されている。それまでには、ギリシア語の使用が強いられていたとのことで、宗教的な要素も含めて、発達された文明に押されて、後進の文明がそれに付随するという実例がここにあったかもしれない。これを知りつつ、研究者が用いる言葉の完成を計るプロセスが興味深い。それは常用の語彙を決めておいて、そのゆれを一つのマーカーとし、言葉の変化、交流、分類の指標にしたものだった。なぜかあの平家物語諸本論の方法を思い出させてしまった。一つの文学作品ではなく、一つの言語が、わずか数百年の間にゆるやかに、かつ確実にうねりを立てて進化したことを思い描いて、なぜか少なからぬの感動ものだった。

ほぼ聴講者全員が基礎知識さえ共有できないような発表の場だったので、発表者は話の後半を教典の内容に持っていって、いわば説話集さながらの宗教教えの内容の紹介を試みた。しかもそれを分かりやすくするために、同時代の教会などに見られる地獄絵の様子を見せてくれた。こちらのほうは絵巻などにみる地獄とかなり発想を同じくしたものばかりで、東も西も地獄となれば通じ合っていたのだと、妙に気持ちがほっとした。

Afterlife

2010年10月30日土曜日

Macの海に漕ぎ出す

macbookair_hero20101020 新しいガジェットがまたまた生活に飛び込んできた。新発売のMacbook Air。店を覗いたら、商品展示さえ行われていない間に、半分の店員まで商品到着に気づかないまま、購入できた。ひさしぶりの自分専用のノートブックを手にして、思い描いているイメージにぴったりだと大いに満足している。

新製品に手を出したのは、そもそもiPadが理由している。使い始めて半年経ったが、いまでも愛用している。二三日の出張などは、折り畳み式のキーボートさえ忘れないで持っていけば、学会などの必要でさえ過不足なく間に合える。そのおかげで、Macへの距離が一気に縮まった。

そうだ、ことはまさにMacとの距離という一言につきる。思い出してみれば、あの変体仮名のCD-ROMを作ったころから、Macへの対応ができないかと、何回聞かれたことだろうか。あのころ、ソフト作りの環境が大きなネックとなって、もう一つのパソコンの世界に一歩を踏み出すことはどうしても出来ず、あれこれと理由を付けて手を染めなかった。それがいまごろになってようやく自分用のものが持てた。触ってみて、アイコンの配置、ソフトインストールの流れ、メニューバーの作り、どれも大昔の枠組みを踏襲していて、かつて苦労したことを思い出させてくれて、いささか感激まで覚えた。

言ってみれば、MacだってWindowsとの接近を完全に拒否することがなかったのだろう。まず基本ソフトの共有がそれを端的に物語っている。そのせいもあってか、予想した壁がなく、日常的に机の上のPCを使用して対応している事柄などは、さっそく一通りこなせるようになった。その分、素早く起動し、直感的な操作が出来て、ソファーでリラックスして使える以外は、いまだに驚きと意外感を与え続けているiPadがもつ魅力をまだ見いだしていない。もともとキーショットを覚えたばかりだから、Macの探検は、まさにこれからだ。

2010年10月23日土曜日

ロールとコデックスの違い

大学の同僚がとても興味深い本を教えてくれた。「The Archimedes Codex」というタイトルで、アルキメデス著作の古写本の発見と、デジタルによる復元を記述するじつにスリリングな一冊だ。その中で、西洋文明史における記録媒体の変遷を述べて、巻物と冊子本との違いをつぎのように捉えた。

冊子(codex)の普及には時間がかかった。それは紀元一世紀から始まり、一応の完成を四世紀の終わりまで待たなければならなかった。筆者にとって、このプロセスがこれだけ長い時間を掛けたことが一番の驚きだった。冊子の非凡なところは、知識の記録を巻物(roll)のように二次元ではなく、三次元で行うことだ。巻物には、丈と幅を持ち、冊子には、丈と幅と背丈を持つ。背丈を持ちえたおかげで、幅のことはおよそ重要ではない。200葉(folio)(400頁)、幅15センチの冊子は、巻物なら同じ丈で幅60メートルのものとほぼ同じ記録のスペースを持つ。冊子のページがきわめて薄いので、冊子の厚さをわずかに増やすだけで幅を驚くほど短くすることができる。さらに、巻物で特定のデータにたどり着くために全体の幅を対象としなければならないが、冊子の場合、厚さを対象にするのみで、それもたいてい2、3センチにすぎない。(71頁)

このような記録媒体のありかたを踏まえて、「古い文献の内容(の存続)にとって、情報技術の進歩ほど危険なものがない。大量のデータの移転が必要とされ、だれかがそれをやらなけれならないからだ。」と言い切った。日本の文明において、この一側面がなかったかどうか、質問の一つとして心に留めておきたい。

2010年10月16日土曜日

サーモンの秋

先週の週末のことである。月に一度はめぐってくる連休に、思い立って遠出の旅に出かけた。サーモン回流を見物するという、一度はこの目で見てみたいことをついに実行したのである。目指したのは「サーモン・アーム」という名前の町。「アーム」とは、ここで「腕」ではなくて、「わき枝」とでも取るべきだろうか。たどり着いた見物の場所は、山間の大きな湖であるShuswap湖の出水口に当たる狭い川である。水が浅くても、流れが冷たくて速い。そして言葉通りの、水の中で犇めくサーモンの群れ。まさに想像を超える光景だった。

101016もともとサーモンの生態は、はなはだ伝説的なものだ。ここで生まれた幼魚たちは、流れに乗って大洋に出かけ、延々四年にわたる生涯の旅を続ける。そしてその命が尽きようとしたころ、数千、数万キロの旅を終えて、再び生まれの地に戻ってくる。かれらは、体が全身真っ赤になり、産卵して、まもなくここで息を止めてしまう。したがってサーモンの見物も、年に一度のではなく、四年に一度の出来事だ。静かな川辺に立って、果てしない大洋の向こうから回遊し、激流を逆らってここまで戻ってきた生きものだと想像して、気が遠くなる思いだ。目の前にあるのは、ただただの浅瀬の川を戯れる大群の赤い魚たちだ。知らないでみれば、まるで池のなかの金魚、二匹ごとに連れ合って、のんびりとしていて長閑そのものだ。しかしながら、空中にみなぎるのは、鮮魚市場あるいはレストランの裏に隠された台所の匂いだ。目を凝らしてみれば、水辺や足元には巨大な魚の死体が散乱している。目に見えて、鼻で嗅ぎ取る死、そして目には見えないが、知識によって理解できる新たな生、この二つの極端が異様なぐらい一つの空間に凝縮された大自然の中に立って、まさに感慨深い。

週末の旅は、片道560キロだった。ホテルに一泊して、余裕のある時間だったが、帰りはあいにくの雨。散歩もままならず、雨中の露天温泉を楽しんで帰宅した。意外と疲れを感じない、リラックスした週末だった。

2010年10月10日日曜日

JSAC・2010

先週の週末、バンクーバーに出かけて、JSAC年次大会に参加してきた。飛行機のウェブチェックインを使うこともあって、搭乗待ち時間が短縮され、感覚的にはすぐ隣の町に行ってくるようなもので、新学年早々のこの時期、むしろ息抜きする楽しいひと時だった。

この集まりは、例年なら文学関連の発表がさほど多くなかったが、今年は主催校の充実な大学院コースの理由もあって、古典文学関係の発表まであった。それも、平安物語や中世の和歌を取り上げて、ビジュアル資料まで交えて、なかなか示唆を示す複数の報告だった。もともと和歌を論じて、木版の底本を持ち出して、はたしてどれくらいの意味があるのか疑問を挟む余地もあるが、馴染まない文字で書かれたものを見せて、聞く人に視覚的なインパクトを与えて再考を促す一面はたしかにあった。あとは、新日本画や漫画などをテーマに取り上げたものもあって、こちらのほうはビジュアルそのものが対象となって、聞いてとても親しみを感じた。

わたしは、数日前トロントの学生たちを相手に話した内容を中心にささやかな発表をしてきた。席上に学生から受けた質問の一つには、このようなテーマを取り扱った研究がこれまであったかどうかというものだった。なぜか初々しくて、若いエネルギーが伝わって、はっとした思いだった。

JSAC 2010 Annual Conference

2010年9月28日火曜日

学生と絵巻を語る

教鞭を執られる友人の好意により、インターネット・ビデオを用いて、はるばる離れたトロントにある大学の学生たちを相手に、絵巻を語って聞かせる機会を与えられた。一方的なしゃべりは20分程度にし、あとは30分以上も質問に答えて議論を進める形を取った。久しぶりに日本語を使っての絵巻談義にささやかな高揚を覚えてオフィスに戻ったのは、時差のために、ちょうど普段の仕事が始まるころだった。

日本語学習者の学生たちは、絵巻についての予備知識がほとんど皆無だった。しかしながら、それでも矢継ぎ早に繰り出された質問のかずかずからは、日本の古典や絵に対する関心、それに直感的な理解が感じられて、心強い。質問の多くは、期せずして絵巻の成立に集中した。絵巻とはだれが、なんのために作ったのか、絵師と言われる人間グループの性別、社会的な地位、作画に所要する時間、受け取る報酬、などなど、本質ににかかわる質問がほぼ漏れることなく一通り聞かれてしまった。さらに絵巻という体裁の由来、作品の独創性、ひいては絵の構図やテーマについての関心の持ちようなど、かなりハイレベルな問いまで飛び交った。いうまでもなくそのすべてに満足に答えられるはずがなく、しかもときに英語の併用まで強いられて、答え方そのものがどこまで伝わったのか、はなはだ心もとない。

短い一席の話は、当面関心をもっている「首斬り」を手がかりにしたものだった。ただ、このテーマは、やはり若い学生たちには衝撃が強すぎたのだろうか、直接な質問は一つも上がらなかった。こればかりは反省しなくてはならない。

2010年9月25日土曜日

絵師の職場

古代における絵師の仕事風景が知りたい。とりわけ中国の場合、それがどのようなものだったのだろうか。手近なものとして、楽しい一例がある。十六世紀の初頭、明の絵師仇英が描いた「漢宮春暁図」にみられるハイライトの場面である。

100925この巻物は、なにかのストーリを伝えるのではなく、「漢」の名前を模った宮廷の中での華やかな生活様子を、いわば代表場面を集成するという趣向で構成したものである。その中では、読書、盤上ゲーム、刺繍、楽器の習練といった場面に続いて、絵師を招いて肖像を描かせる場面がクローズアップされた。大勢の着飾った女性たちに囲まれて、正装した絵師が襟を正して女主人公に向かった座り、数点のポータブルの道具や絵の具を傍に広げておいて、一心不乱に肖像の作成に取り掛かる。周りに集まった見物の女性たちは、あるいは屏風の後ろから顔を出したりして、驚異のまなざしを絵師の手元に注いでいる。堂上を支配した緊張した雰囲気が見る人にたしかに伝わる。

大きな画像を片手で持ち上げるなど、絵師の姿勢にはかなり不自然なところもあって、この職場の様子には想像、あるいは創意が隠されていたに間違いない。ただ、中国の伝統に照らし合わせて眺めてみれば、聊か不慎重ではあるが、なぜか漢方医者の姿を連想してしまう。あくまでも低姿勢で、注文主の期待に応えようとすることが、仕事の基本になっていたのではなかろうか。

2010年9月18日土曜日

武藤太折檻の図

馬琴の読本「椿説弓張月」は、さながら「平治物語」外伝である。語彙、表現からプロットの組み立てまで、中国小説「水滸伝」を手本に見立てることを隠さず、読んでいてなぜかかつて「水滸伝」にまつわる小説群を読み漁ったころの経験を思い出す。

100918読本のハイライトの一つには、白縫の仇討ちがある。数々の苦労のすえについに為朝裏切りの武藤太を捕まえ、伝説の美女軍団全員により、かれを折檻し、斬殺する。「懐剣を抜出し十の指をひとつ々切落し」たり、「五寸あまりの竹釘を数十本もて来り、大やかなる鎚をもて、右手のかたさきへ打こ」んだりと、はなはだ嗜虐趣味に走ったものだった。しかもこのような様子が読者の想像に任せるのではなく、絵師北斎がきっちりとビジュアルに見せてしまう。興味深いことに、その絵というのは、文章の再現に拘らない。文字に絵が描かれた「懐剣」が無視され、「椽の柱へ麻索もて楚と括著」との様子もただの座り込みの姿勢に化けてしまった。そもそもすっかり様式化された美女たちの服装とこの状況とはミスマッチングし、両者の落差が一つの視覚的なトリックを提示している。

ちなみに絵を楽しむには、木版印刷した読本を手にすることが叶えられなければ、デジタル化されたものを大きなパソコンのスクリーンでアクセスして眺めることを薦めたい。

椿説弓張月 (椙山女学園大学デジタルライブラリー)

2010年9月11日土曜日

合戦屏風の一風景

「平治物語」のハイライトには、藤原信頼の処刑がある。合戦の勝敗が決まり、捕まえられた信頼は六波羅に連れられ、重盛の助けも空しく、清盛の命により六条河原にて斬首される運びとなった。執行の役(切り手)には松浦の太郎重俊が指名された。だが、信頼はこの悲惨な末路を潔く受け止めることが出来ず、死に切れなかった。

100911この様子を描いた屏風が伝わっている。いまはニューヨーク・メトロポリタン美術館の所蔵になる「保元平治合戦図」で、同美術館のカタログは十七世紀のものだと記す。ことの経緯を伝えて、「平治物語」は、信頼の振る舞いを「おきぬふしぬなげき給(ふ)」と語り、対して重俊のことを「太刀のあてどもおぼえねば、をさへてかきくびにぞしてんげる」と述べる。思えば、俄かの合戦や首切りという極端な行動が当時の武士たちにはまったくなじまなかったことへの丁寧な表現だったろう。これを描いて、合戦図は力強い構図を見せてくれた。大勢の武士たちに見守られて、暴れる信頼の上を、重俊が全身をもってそれを押さえつけ、果敢に首を掻き取った。ただ、重俊が手にしたのは、物語が言う「太刀」ではなくて、動きやすい短刀になったのは、絵の描写に集中しすぎたほほえましい失敗だと見てよかろう。

古典の絵は、様式や伝統を重んじ、状況を写実的に描くことにはほど遠いとしばしば指摘される。ならばこの絵の場合は、まさにその反対側の、リアリティを追求した好例だと言えよう。しかしながら、黄金色に輝き、いたって装飾性の高い立派な屏風を前にして、このような血なまぐさい迫真な画面は、はたしてどのような鑑賞が期待されていたのだろうか。きわめて興味深い。

The Battles of the Hōgen and Heiji Eras

2010年9月4日土曜日

「譱」

100904 ソウルの国立中央図書館を訪ねたときのことである。広いロビーには、一枚の古地図が掛けられている。きっと昔のソウルだと推測できるが、そのタイトルはまったく読めなかった。二番目の文字は、「羊」に「言」二つ(写真)、読みやすくて判らない。周りの韓国の友人も、そして漢字の知識には自信のある友達も、同じように首を捻った。

ややあとになって、携帯の電子辞書で調べたら、なんとさっそく答えが出た。辞書に入っているだけではなく、それもパソコンの通用の文字の一つで、拡大したりして確かめることまで可能だ。なんのことはなかった、「善」の異体字なのである。しかも「首善」という言葉は、れっきとした出典をもち、用例は「漢書」に遡る。「天下の模範を立てる」「京師を首善之地と称す」などとあった。韓国の歴史にはまったく疎いものだったが、どうやらソウルという韓国の首都のことを歴史上のかなりの時期にわたって「首善」という名前で呼ばれていたものだった。

いまは、ソウルの中国語訳が変わり、その公式表記が「漢城」から「首爾」と変身した。中国の新聞などでこの訳語を読んで、いつでも違和感を禁じえない。聞くところによると、中国の色合いからの脱却との意図が働いていて、首都の名前の変化はまさにそのような文化人、知識人たちの苦慮の象徴だとか。そのような事情だったら、「首善」という名前も、まさに歴史的な理由で継続の使用が拒絶されたに違いない。

「譱」(ウィクショナリー)

2010年8月28日土曜日

夢の種

100828 久しぶりに映画館に入り、評判の映画を見た。「Inception」、日本での公式タイトルはそのまま「インセプション」。一般の観衆に分かるような言葉だとはともて思えない。字面の意味は「発端」だが、ここの場合、さしずめ「夢の種」。人間の頭脳に夢を人為的に植えつけるという内容のSF映画だ。ストーリは入りこんでいて、かなり難渋なものに仕上げられているが、コアの骨組みとなったのは、夫婦愛や会社戦争といったありふれたもので、それなりに分かりやすい。一部の映画としてのハイライトは、あくまでも夢と、これにまつわるいろいろなエピソードやからくりで、とにかくビジュアル的に見応えがあった。

夢のとりこになったはてに、それを本物の生活と対立させ、やがてこの世のものか幻の夢かその境が疑われるとは、まさに古代中国哲学の結晶の一つだった。ただ、映画の見所もまさにそこに焦点を定めた。現実世界と交差するものだからこそ、突拍子もない想像が生まれてくる。夢を作り上げるために実際の建物まで作ってそれをデザインする、ちっぽけな電線を使って他人と夢を共有する、倍増する時間軸をもとに冷静に展開を予想する、などなど、まさに奇想天外でいて、西洋的な発想の見本市的なものだ。一方では、風景が並外れたものであっても、そこを暮らすのはあくまでも普通の人間のみで、生き物についての虚像がいっさい入らなかったのも、なぜか拍子抜けな思いが拭えなかった。

典型的なハリウッド映画であっても、主演渡辺謙の役者ぶりはまごとにりっぱだ。そのしゃべり方と言えば、日本という生活の匂いをきれいに消し去り、話し方を操る能力、その極致な可能性を見せ付けてくれた。ただ、老人になったあとの、あのお化けのような滑稽な顔メークはまったくいただけなくて、思わず笑ってしまった。

2010年8月21日土曜日

塗師の悲哀

狂言には、「塗師」という一作がある。狂言の典型的な構成をもっていて、三人の役柄は、師匠、弟子、弟子の妻と振り分けられ、巧みな人間模様を凝縮された時間や空間の中で展開してみせた。都で職人としての生き方に落胆し、生計を立てるために都落ちをした塗師の師匠が弟子を訪ねるが、弟子の妻に妨げられて、一こまの喜劇が広げられる。

塗師を都から追い出した理由とは、いかにも切実なものだった。その本人がいわく、いまの世の中は「何事も当世様(とうせいよう)当世様と申して」、かれ自身のような昔ながらの職人は、自慢の腕前を振るう機会がとことん減ってしまって、ついにその日の暮らしにも対応しきれなくなった。いわば時の流れには追いつけられなくて、流行から脱落した言いようのない悲哀が込められるものだった。もともとその「当世様」とははたしてどのようなものだったのか、詳しくは語られていない。推測するには、塗師の本業にかかわる絵柄、材料や工法、あるいは商品の流通、評判などもろもろの方面にわたるものではなかろうか。

中世の塗師のような職人たちが、なにを理想にし、どのような出来栄えに憧れ、まわりの環境にいかに順応したのか、今日になれば、残された記録はあまりにも少ない。その中にあって、狂言とは、いうまでもなくそれを述べるためのものではない。ただ、舞台上で大勢の観衆に伝えることを前提にしたのだから、かなり常識なことを述べていて、見る者になんの苦労もなく理解してもらわなければならない。その意味では、「当世様」に打ちのめられた一人の塗師の存在は、参考の意味が大きい。

2010年8月17日火曜日

英訳と俳画

週末にかけて一つの学会に出かけてきた。そのテーマは日本語教育。日本語の現状や教え方をめぐって参加者たちが大いに語り合った。その中で、期せずして絵に関わる議論にも出会って、あれこれと考えさせられる瞬間があった。

基調講演で述べられたつぎの一件は、とりわけ印象に残った。日本語の英訳というテーマで、そこに挙げられた実例の一つは、あの「古池や」という俳句をめぐるものだった。蛙はFROG。ただし、あの句において、それが一匹の蛙なのか、それとも複数のものなのか、言葉のレベルで表現されていない。いわば作者と読者との間の共通の理解に任せられ、あるいはたとえその理解が共通しなくても、許容される範囲に属するもので、無言のうちに処理されるべきものだった。しかしながら、一旦英語に置き換えてみれば、これがとたんに問題となってしまう。訳者はともかくどれか一方に決め付けなければならない。厄介な問題だ。そこへ講演者は、俳画を持ち出した。芭蕉本人もかかわった作品を紹介して、いわば作者においてはそれが単数だったことをスマートに立証した形になった。

それにしても、おびただしい英訳の存在は興味深い。いま問題にしている蛙の訳をめぐって言えば、訳者の解釈をもとに、それを単数としたり、あるいは複数のものだと捉えたりしたとの結果は、簡単に想像できる。だが、思いも寄らないものもあった。なんと「FOG」のみで、前置詞も、複数もつけないような訳だった。英語でありながら、英語の基本ルールを無視した。こんな翻訳、はたして読者に伝わるのか、いや、翻訳者のきわめて個人的な遊びに流されるものではないかと、疑問を感じてならなかった。

読んで得する翻訳情報マガジン

2010年8月7日土曜日

書き人知らず

書き手の名前が記されていない匿名メールは、そもそも削除して読まないと相場が決まっている。しかしながら、時にはまったく違う文脈でそのようなものに出会う。今週も一度そのような経験をした。

なにげなく入ってきたのは、二年半ほどまえに公開した「義経地獄破り」サイトに関連するものだった。一点の間違ったリンクの存在を指摘してくれた。完全にサイト作業の手落ちで、これまで気づかなかったのが不思議なぐらいだ。メールの内容は、とても親切。間違い指摘という用件とともに、青森のまつりに出かけてこの作品のことを知り、インターネットであれこれと調べて音読の試みにたどり着き、さらにファンタジックな古典をもっと読みたいなど、朗らかな内容だった。このような読者に役立てるとは、うれしいかぎりだ。いうまでもなくさっそく間違いを訂正し、お礼の返事を送った。

和歌では、無数の「詠み人知らず」の作品が存在する。それにならっていえば、匿名のメールは、まさしく「書き人知らず」と言えよう。返事を期待する、関わりを明記させるなどと思われなくない、という遠慮の表われだろう。きっとそれに違いないと思う。

2010年7月31日土曜日

「脱獄」が合法になった

「脱獄(jailbreaking)」という言葉がある。いまや膨大なユーザー群を獲得したアップルの製品シリーズに対する特殊処置のことで、特定のソフトをインストールすることをもって、アップル社が公式認定する以外のソフトの使用が可能になるというものである。今週、これをめぐるニュースがさまざまな波紋を呼び起こした。アメリカ著作権庁がデジタルミレニアム著作権法の解釈を行い、アップル製品に対する「脱獄」が合法なものだと認定した。

そもそもこの用語の由来は、あの一世風靡のドラマシリーズ「プリズン・ブレイク(Prison Break)」を連想して拵えた造語だろう。この言葉に託したのは、言ってみれば、製造者の意思を無視する後ろめたさというより、不可能を可能にする一種の確信犯、愉快犯に近い思いがあって、法律のグレーゾーンへの挑戦を正面から試みるものだった。それに対して、アメリカ著作権庁の決定は、言葉いじりなどの小細工をいっさいせず、ただ堂々とこれが合法だと認定した。ただし、いうまでもないが、「脱獄」合法といっても、これを認めないことを非法とは意味しない。アップル社が「脱獄」した機械を保証修理の対象としないなどの対応を取るものだろう。合法になった「脱獄」は、あくまでユーザーの判断による、リスクや覚悟を伴う行動に過ぎない。

法律とは、社会の発展にしたがって、社会のためにあるものであって、法のためではない。また、とりわけ成功した会社に対して、すべてその会社の言いなりになるのではなくて、むしろ余計に目を光らせてその独断の行動を制限をかける。いまの法解釈を通じて、この二点において現代の法精神の一端を見た思いがしてならない。

2010年7月24日土曜日

聖人斬首の図

群衆のまえでの斬首刑は、絵巻においてくりかえし描かれるテーマの一つである。それらの画面を眺めつつ、西洋絵画になるとそれがどう違ってくるのかと、思わず想像してしまう。いうまでもなく数多くの実例をもつ画題だ。右にあるのはその中の一つ、構図はじつに興味深い。

100724これは、イタリアの画家ジョバンニ(Benvenuto di Giovanni)が1483年に描いたものである。タイトルは、「聖ファビエンの受難(Le Martyre de saint Fabien)」 。宗教のために死をぎ然と受け入れることが、絵のテーマだろう。絵巻における斬首刑の構図とかなり似ている。処刑の場、その独特の空間における典型的な人間像の配置、処刑の仕方や絵の切り取る瞬間など、どれも説明する必要もなく、とにかく分かりやすい。ただし、この絵の場合、特出なのは、おそらく人々の視線だろう。聖人と処刑実行人、この二人を見つめる馬上の将軍、民衆と遠巻きの軍人、それらの人々が互いに投げ出した視線は、画面上でいく層も交差する。「突き刺さる」という言葉がようやく分かったような、あるいは絵の上でつい自分で線を引いてみたくなるような衝動を呼び起こしそうなもので、力強い。

ちなみに、斬首というテーマにつきまとうグロテスクという要素が忘れられない。それとなれば、写実を求める西洋の絵画だけに、衝撃的な画例が少なくない。そのほとんどは、映画やテレビなどビジュアル表現のありかたがクリーンなものに徹した今日において、もう公に出すことさえ憚り多くて敬遠されてしまう。

2010年7月17日土曜日

天災だ

今年はなぜか気候不順が世界的な話題になった様相だ。関連のニュースをあれこれと聞いているうちに、たいへんな一時が住んでいるこの町にまで及んだ。思わぬ損害に見舞われ、今週一週間は日常生活をかなり空回りをさせられ、来週も引き続き対応せざるをえない。

100717一言で言えば、まさに天災。人間の世ではいまも昔もさして変わりがない。ならば、このようなことを、古典の世界ではどのように受け止めていたのだろうか。絵に描かれたものですぐに思いに浮かんだのは、黒雲の中を走る赤鬼。周囲を囲む太鼓や手足を乱した走りは、まさに雷と稲妻をイメージに置き換えたものなのだ。これと対照になるのは、火災や地震の最中から品々の懸命な救出である。しかもそのたいていの結果は、焼き残ったものの中の一点の経典などを驚異をもって見つめ、そのような経験をあらたな伝説として語り継ぐ。

普段の生活からすれば、この上ない苦い体験のはずだが、それをまさに一大事だと、天罰の顕現、あるいは霊験の実現に変えてしまう。この二つの極端からは、なぜか古典が伝えようとする大いなるヒントが隠されたように思えてならない。

CBCNEWS

2010年7月10日土曜日

仏典英訳

詞書に書かれた仏典の偈を英訳しようと思ったら、とたんに困惑した。

偈の内容はたいてい分かりやすい。しかしながら、そうであっても、即自分の言葉で英語に変えるとは、いかにも無謀だ。仏典レベルのものだから、これまでだれかが取り扱っていたに違いない。それぐらの薀蓄があってしかるべきだ。そう思いながら、とりあえず検索エンジンに掛けてみる。あるある、簡単にクリックをいくつか試みたら、もののみごとに狙ったところの英訳に出会った。しかも翻訳作業は19世紀終わりのものだから、いまやグーグルブックスにて書籍の全点を読むことさえ出来る。

しかし、一方では英訳の内容を読んでみて、正直、どうしても落ち着かない。大乗、観音などの言葉は、英語の知識にはまったく属さないサンスクリット語がそのまま応用され、対して経文の中身は、噛み砕いた英語に変身してしまう。その落差はじつに大きい。とりわけ日本語原文の、「念彼観音力(ねびかんのんりき)」と並べれば、いく層もの段差が見えてならない。思えば歴史的な沈殿を持たないとは、このことだろう。ただし、ここではたとえ中世の英語のまねごとをして訳したとしても、その出来栄えは所詮知的な遊びであって、それ以上のなんの意味も持たない。やむをえず分かる英語に止まる、それしかないことだろう。

Buddhist Scriptures in Multiple Languages

2010年7月3日土曜日

パレード見物

100703 地元の祝日に、離れた観光地に出かけて、のんびりと時間を過ごした。午後の行事はパレード。馬の行列や派手やかなバンドはもちろんのこと、結婚式場のリムジン、山間レスキューカーや公共バスまで登場して、パレードはそのままプロモーションの役目まで担った。その中に交じって、日系人の行列があった。参加者の主体は幼稚園の園児で、ワイショの掛け声に合わせて、子供たちは御みこしを担いだ。その御みこしとは造花で作られ、いかにも子供たちのタッチで、ささやかな感動を覚えた。

夕暮れの大路を練り歩く、御みこしを囲み、しかもその中心は人為の花。この繋がりからの連想は、なぜかあの「酒呑童子」絵に走った。それも数ある伝本の中の一点で、オックスフォード大学ボドリアン図書館所蔵のものだった。このストーリがハイライトとして持ちあわせたグロテスクな要素を一切排除して、人間の死体は花、鬼の生首は根っこという、いかにも晴れやかな祝賀に似合うものに描いた珍しい伝本だった。

祝日の締めくくりは、短い花火だった。規模こそこじんまりとしたものだが、山や川に囲まれた花火は、これまたなんとも言えない風情を感じさせた。すべて終了して、百キロ以上走って戻ってきたのは、すでに日付も変わった翌日となった。

2010年7月1日木曜日

留学の東と西

このコラムの名は「天南地北」。特集のテーマである留学をめぐり投稿させていただく運びとなり、自然にこのタイトルにたどり着いた。いうまでもなく日本と中国という東アジアにおける東・西であり、大洋を隔てる東洋と西洋である。


まず、一つのささやかな個人の経験を書かせてもらいたい。

いまからちょうど二十年前、さほどまともな準備もせずに英語圏での生活を始めた。未知の外国での生活にありがちなことだが、まずは言葉という壁にぶつかり、失語の苦痛をさまざまな局面やレベルにおいて味わわされた。会話あるいは交流をいかにして身に付けるべきかと、外国語教育においては優雅に構えて論じることもできようが、イントネーションのらしさやしゃべり方のリズムなど構う余裕などまったくなくて、表現の完遂はあくまでも語彙にあるということをまざまざと知らされた。単語選びの的確さ、似通った語彙の区別、その背後にある社会的常識への理解など、言葉との格闘である。その中で、かなり長い時期にわたって悩まされたのは、「留学」という一語だった。英語において、これに当たる言葉はどうしても見つからなかいのである。

これほど単純明快にして、ゆたかな思いや多様な行動パターンが詰められるコンセプトに対応する言葉が英語にないとは、どうしても信じられなかった。思いついたら辞書を調べ、答えが出てこなくてその辞書を疑い、友人に訊ねまわって、満足な説明が戻ってこなければ質問する自分の表現の限界を嘆く。そのような模索の末、得られたのは言いようのないもどかしさばかりだった。

そもそも「留学」とは、日本語の造語に違いない。外国に留まって学ぶというのがその字面の意味だろうが、もちろん外国に渡る事も留まることも思うとおりに叶えられない時代に用いられた言葉だった。したがって留学とは、つねに空間的にも時間的にも普段の生活からかけ離れたものだった。約三十年前に日本に渡って勉学した筆者も、わずかながらそのような留学ということの重みを肌で感じていた。あのころ、旅費など、個人の力ではとても賄えないという意味でまったく問題ではなかった。たとえ留学生として数年生活していて、その間の生活費を切り詰めて帰省の旅費をなんとか工面できたとしても、里帰りするためにはさまざまな考慮や許可が必要とされていた。そのため、国の外に出るということは、一種の言いようのない覚悟が伴ったもので、それこそ大昔の「取経」「遣唐」と照らし合わせて語られるべきものであった。

もちろんそこまでの感覚をもつ言葉を英語に求めようとしたら、あまりにも無謀だ。そうではなくて、ただ純粋に学習制度における留学でさえどうも英語表現に存在していない。普通の辞書などに示されるのは、「study abroad」である。たしかに「外国での学習」だ。しかしながらこれが指すのは、既存の教育仕組みの中の一部であり、日本語に言う「短期留学」「交換留学」のようなものだ。自国の大学あるいは大学院に通わないで外国で勉強し、そこの学位を取得するといった経歴は、英語ではどうしても長い文章を駆使して説明せざるをえず、一言で言い表すような単純なものではない。留学に対する考えの違いは、東洋と西洋の言葉においてその位相がすでに極端に現れている。

そのような留学だから、それを経験した一人の人間へのインパクトは計り知れない。筆者の場合も、いろいろな側面においてそれを経験した。留学生として日本に渡ったのは一九八二年のことだった。大学での専攻は日本語だったため、留学といえば日本だという認識をずっと持っていた。しかしながら同じグループの中では日本について勉強した者はほんの少数派であり、自然科学系の学生が圧倒的だった。「ヨーロッパやアメリカを目指していたんだ」と何回も語ろうとする同級生の顔は、記憶に新しい。一方では、最初の留学生活から十年近く経ったあと、西洋とは知識も縁もないままカナダで仕事を始めるようになった。北米の地を踏んで、同じ年齢や経歴の人々と交流をしてみて、留学した国が異なるだけで、人間がこうも違う性格や考え方を持つものかと驚いたことは一度や二度ではなかった。

特定の知識を習得する傍ら、まったく異なる社会生活の中に入り、それまで身に付けられなかった、ひいては持っていたものと丸きり逆の価値観を体験することが、つねに留学の最大の収穫である。それと共に、異なる考え方に接することが出来たおかげで、自身が捨てずに持ち続けるものに対しても距離を取りやすくなり、客観視できるようになる。加えるに、留学が適えられるのは、学問のエリートと呼ぼうと、裕福な家族に生まれた幸運児だろうと、はたまた個人の弛まない努力の結果だろうと、結果的には少数の人間にすぎない。この事実も、社会や文化の差異について観察、感知することを大きく促し、役に立った。

筆者には、一つのささやかな仮説がある。同じ留学生でも、学部生と大学院生と分けて考えるならば、後者より前者のほうがより全面的に留学先の国の生活に符合し、その価値観を身を持って実践する。しかもそれは大学の評判、専攻の内容、恩師の人間性などにさほど関連がない。その理由は、二十歳前後の四年、あるいは二十歳後半にかけての三年から六年という歳の差にあるのだろう。すなわち言葉の壁を乗り越えるための苦闘も含めて、留学による緊張とその達成が、どこまでも一人の人間の成長に鮮明に刻まれる。留学という経歴は、多感な青春の記憶に集約し、その人の人生に大きな烙印を残す。

留学は、とりもなおさず教育の一環である。教育はその国の政策、施策の大事な構成である以上、時代の進歩、政治の姿勢、人材の育成など多様な立場から取り上げられ、論じられるのも当然だろう。ここにも東洋と西洋との異同が明らかで、興味深い。

まず留学生を送り出すことから考えてみよう。一国の将来を担う若者を育てることにかかわるものなので、西洋も東洋も、程度の差こそあれ、ともに援助する方針を取る。カナダの場合、たとえば筆者の勤務する大学のことを実例にしてやや具体的に紹介してみよう。約三万人の学部生を抱える大学では、少人数の交換留学以外、年間約三十の短期留学を設けている。典型的な構成は、定員二十名、滞在期間一ヶ月、習得単位六単位(学部卒には百二十単位必要)、費用五千ドル、という内容である。外国語勉強のプログラムもあるが、ほとんどは言語学習と無関係なものである。このように年間わずか数百人規模の短期留学のプログラムしか設けず、参加者には、ほぼ全員五百ないし千ドルの奨学金を与える。さらに学生ローンを提供したり、追加的な優遇策を設けたりして、留学をサポートする措置を数々用意してより多くの参加者を募る。

一方、留学生を受け入れるということになれば、西洋と東洋では俄然と大きな違いが見えてくる。カナダの場合、学費の金額を知って、中国や日本からやってきた学生が思わず唖然としたことはしばしば耳にする。それは金額自体のことではない。留学生だということだけで、地方の学生の倍かそれ以上が請求されるからだ。学費は履修する科目ごとに支払うものなので、この金額の差は繰り返し表面化され、余計に立場による待遇の差を思い知らされる。このような対応は、教育に対する社会的な認識に由来する。すなわち教育を賄うのは、税金である。納税者は、国の未来を背負う若い世代に投資しても、外国のために学生を育てる義務を持たない、というのがこのシステムを支えるシビアな発想だ。ここに思わず日本のことを振り返る。現行の外国人留学生の優遇政策は、教育を通じて国をアピールする、あるいは遠方からやってくるお客様を歓待するという発想に寄りかかっているのではなかろうか。因みに、この考え方は日本だけのものではなく、中国や韓国の留学生受け入れ政策にも認められ、まさに東洋的なものである。

終わりに再び言葉の話題に戻りたい。

今の中国語には、留学に関連する新しい表現の一群が加わった。日本風に言えば、年間流行語大賞的なものである。その筆頭には「海亀」「海帯(昆布)」が挙げられる。中国語では亀と帰、帯と待とそれぞれ発音が同じなので、大洋の向こうに行って帰ってきた者、あるいはそのような経歴を持ちながらいまだ仕事がなくて職を待っている人々を指す。さらに、二〇〇九年には「被留学」が喧伝された。本人の意思に関わらず、親あるいは社会の圧力により留学を強いられたとのことを意味する。いずれも留学ということへのこの上ない希望と期待が失望に変わったときの言いようのない気持ちの表われだと思う。ただ海外生活が長い筆者のような人間には、理屈として理解できるにしても、これを体感的には受け入れることは難しい。中国における留学にまつわる社会の視線の変化は、このような言葉において、もう一方の極端な様相を見せてくれる。

時代の移り変わりにおいて、留学、そしてそれが人々にもたらす影響は激しく変容を続けてきた。個々人への関わり方が如何なものにせよ、留学はつねに社会の進歩に寄与し、教育の大事な一部を成すものだと信じる。
『中国21』Vol.33
東方書店
2010年7月、297-300頁

2010年6月26日土曜日

日文研・妖怪データベース

先週週末の新聞記事によると、日文研は長年の研究プロジェクトの一つである「怪異・妖怪画像データベース」を公開した。さっそくサイトにアクセスしてみた。

同研究所は、これまでも所蔵している古典画像資料を精力的にデジタル化し、それを惜しみなく公開してきた。その多くは、新たな購入、あるいは学術的な発見を伴うもので、他の研究機関への刺激が大きい。今度のデータベースは、まさにそのような公開の成果に基づいたもので、個別作品の閲覧に留まらず、横断に検索できる道具を与えてくれた。計百のタイトル、延べ二千に近い画像データを対象にし、専門の作業チームによる文字描写などのオリジナルデータを付加し、画像データの価値を大きく増やした。怪異、妖怪という興味深い分野にスポットライトを当てて、それへの新たなアクセスを用意してくれた。あれこれとキーワードを試してみて、あの「日本常民生活絵引」を連想して感慨深い。

一方では、デジタルという環境におかれたものだから、製作者へのさらなる注文も自然と湧いてくる。データ検索は、いまだ文字から絵へという限られたものしか用意されていない。デジタルデータならではの双方向の検索が可能なはずで、絵から文字へ、そして絵から絵へ、というような検索システムが開発され、使用に提供されることを望む。

データベースの公開がいまだ二ヶ月にもならないが、アクセスの数はすでに6万回近くなった。普通の出版物と単純に比較するわけにはいかないが、一般ユーザーからの関心の度合いが覗かれる。デジタルコンテンツ開発のためによい励みだと言えよう。同時に、学術研究にどのように生かさせるかは、つぎの課題の一つになるはずだ。研究方法の模索もかねて、これを応用するプロジェクトチームの発足も予想されるのではなかろうか。研究におけるあらたな地平が開かれてくることを期待したい。

毎日JP

2010年6月19日土曜日

バックパックに巻物

短い中国旅行は、じっくり周りを見て回る時間さえ持たないまま、あっという間に終わってしまった。旅行の終着地はいつでも空港だ。ただ今度は飛行機トラブルに巻き込まれて、二日も同じ空港ロビーをうろうろするはめとなった。おかげでそこの風景だけが印象に残るようになった。

100619 空港には観光帰りの外国人の姿が多い。それも元気のよい若者が目立つ。そのような人々の装いから、ここが中国であってほかの国ではないという要素を一つ見出そうとすれば、間違いなく巻物を手にするということが挙げられよう。それも意外なほどに頻繁に目撃するものだった。中国からのお土産に部屋を飾る掛け軸、といったところだろうか。若い人になれば、それがバックパックの中に半分差込んだり、あるいはバックパックの外に繋ぎ止めたりするスタイルだ。どうしてもあのオリンピックの閉幕式に登場した西洋人のキャラクターを思い出す。もともとあれは開幕式のショーと対応させたもので、巻物は画巻、しかも両方の軸に半分ずつ巻き上げたままバックに突っ込ませるという乱暴なやりかただった。あれをテレビで見たとき、突拍子もない作為的なものだとかなりの違和感を感じたのだが、空港でそれと瓜二つの若者たちを見て、かれらを止めて、あの閉幕式を見たかどうか確かめてみたい衝動にまで打たれた。

搭乗までの待ち時間に、三人連れの若者と会話を交わした。仲良しのカップルは漢字の掛け軸を手に入れたことを自慢にして、「愛」ともう一つの「女」がつく文字だったと説明し、三人目の人は虎の干支を刺青にした腕を披露してくれた。文字を知っていないだけの神秘と憧れを感じさせて微笑ましい。

古本市にて

短い帰省のなかで、のんびりと繁華街を歩き回る時間を努めて作ってみた。いうまでもなく町の様子はすっかり変わった。とりわけここ五、六年の間に、20階以上の高層ビルが突然のように群をなして現れてきて、眺めていて驚きの連続である。昔の面影などあるはずもなく、残されたのは、同じ地名のみという、非常に奇妙な経験を繰り返し味わされた。

町の中心地は、古い城壁や門を再現して、昔時や伝統への憧憬を形にした。その一角は、観光客を相手の店が軒を連ね、さながら典型的な観光スポットになっている。だが、平日ともなれば、観光客の姿がまばらで、これまた違う意味で奇妙だった。さまざまな品を商う店の中には、古本を取り扱うものもある。しかしあがらどうやら値段でしか勝負する気がなく、その結果、安物だけ集まって、まったく魅力を感じさせない。なにげなく覗いた露天の棚には、なんと画巻が数点おいてあるのではなかろうか。タイトルを見れば、「九歌」「詩経」といった超一流のものばかり。思わず手に取って触ってみたが、その印刷や作りがあまりにも無造作で安っぽく、内容とのギャップが大きい。素晴らしい伝統がぞんざいな取り扱いを受けて、もともと持つべき価値まで失ったのだと、なぜか言いようのない義憤まで感じてしまった。

中国はすべてのことにおいて凄まじい勢いで変わっている。街角の様子だけではなく、古典を愉しみ気持ちの余裕も自然と生まれてくることを強く信じたい。(6月12日記)

北京空港

二年ぶりに中国にやってきた。今度は前回より長めに時間を取り、あわせて十日ぐらいの滞在となる。

100605北京の国際空港は、オリンピックの開催に合わせて新たなビルが出来上がり、使 われるようになった。うわさではあれこれと聞いてはいるが、実際にその中に入ってみれば、新しい空港の兆候をあれこれと探してみても、意外に目に止まるものは多くなかった。飛行機が降りたところから荷物や税関などの建物に辿るまでには、今度はモノレールの電車に乗らなければならないという、実用としてはむしろ不便を感じたぐらいで、建物そのものも、大きくて新しいということ以外は、印象に残るものが少ない。しかしながら、その中では、特筆すべきなのは、やはり絵巻ならぬ画巻だった。どうやらいまや中国文明の視覚的な代表となれば、画巻がもう迷いもなく第一位のものとなった。ただし絵巻といっても、それを巨大なモニュメントのように作り変えたのだった。しかも取り上げるものは宋の作品一点のみ対象にすぎない。古典を大事にするというよりも、古典に新たな生命力を吹き込んで、今日の環境のために貢献してもらう、という発想のほうがより鮮明に動いたものだった。

今度は、北京もひさしぶりに歩いてみるつもりでいる。はたしてどのような時代の風景が目に入ってくるものか、ワクワクしている。(6月5日記)

2010年5月29日土曜日

小松茂美氏死去

今週になって、小松茂美氏死去のニュースが伝えられた。小松氏の生き方をテーマにした新刊などが出たばかりということもあって、朝日新聞などの主要なメディアはいずれも大きく取り上げた。

絵巻の研究を志すには、小松氏の名前がおよそ避けて通れない。個人的にはつい一度も拝顔したことがないが、八十年代のあの「日本の絵巻」シリーズは、やはり絵巻に魅せられる決定的な理由だった。カラー印刷はいまだ高価なものだったなか、一巻の絵巻を空白の料紙の部分まですべて納めたことなどには、なぜか非常に大きなインパクトを感じ、おかげでたとえ原典を見ることが叶えられなくても、じっくり一点の作品に立ち向かう可能性が手に入ったと、そのときのわくわく感はいつまで経っても忘れられない。絵巻研究の基礎を用意してくれた小松氏には、つねに感謝の念を抱いている。

しかしながら、じつに不思議なことに、この小松氏を語るものは、なぜかつねにかれと「学界」との距離を強調する。しかもそれをまるで彼が非凡だとの証拠にと持ち上げる。ちょっぴり不可解だ。そもそも博物館職を全うし、研究などの実績をもって日本学士院賞を受賞された人物だった。その小松氏の編集にかかるシリーズものなどには第一陣の学者たちが競って投稿している。学会の集まりにあまりお出にならない、あるいは研究の不備を指摘する声がある、といったことは、この距離論の根拠にならないはずだ。そのような論調は、あるいは学界へ無理解、ひいては偏見によるものではないかと思えてならない。

古筆学者・小松茂美さん死去

2010年5月23日日曜日

慶応・中古文学会

短い東京滞在の間に、学術活動に参加することができた。昨日のそれは、慶応大学で開催される中古文学会への聴講だった。しかも同学会としては非常にめずらしく近世初期のものにスポットライトを当て、絵本絵巻の研究が初日のシンポジウムのテーマになった。じつに運がよかったと言わざるを得ない。

午後の時間をいっぱいに使った講演や討議からは、多くのことを習った。その中の一つは、在来の研究が示すデジタル環境への寄与と、それへの参加である。パネル発表者はまさにいくつかの典型的な立場を示した。主催校の慶応大学は新たなプロジェクトを立ち上げ、すでに公開したもの以上のアプローチを目指す。対してデジタルライブラリーの内容を大きく充実し、新たなタイトルをいくつも加えた国学院大学は、資料の公開と研究の発表を一セットのものとして捉えて、意図的にそれを行う。一方では、オリジナルものの公開に関連しない研究者は、すでに公開された資料全体を相手にし、そこから証拠を見出し、論を展開する。伝統的な出版物ではない電子の資料を論拠とし、俎上に載せるということは、どれだけ研究の環境が変化したものかと物語った。

いつものことながら、学会はまた友人、知人と再会する場でもあった。この学会のためにほぼ日常活動的な感覚で集まったきた学者や大勢の若い学生たちを目にして、日本での研究と交流のありかたをあらためて認識した。カナダなどでは、研究費などの制限もあって、実質年に一回か二回しか集まりに出られない実情を再び思い出すされる。

2010年5月16日日曜日

鎌倉の大イチョウ

学生たちの観光ツアーに加わり、土曜日は鎌倉を一日かけて歩き回った。若いものたちのエネルギーに盛り立てられて、食事も延ばし延ばしにして一日中とにかく歩き続けた。わたしが目指したのはなによりも鶴岡八幡宮。そこには夕暮れが差し掛かったころにようやくたど り着いた。

100515八幡宮の大イチョウが倒れたことをテレビで知った。すでに二ヶ月もまえのことにはなる。早朝5時まえの出来事で、しかもさほど風が強かったわけでもなかったと報じられたのだから、いわば樹木の寿命ということだろうか。千年も生き続ける木もあるが、あくまでもすべての環境が揃ってはじめて出来たものであり、どれもそこまでの幸運があるはずはない。ましてや大勢の人間に囲まれたものとなれば、こういう危険につねに直面してきたのではなかろうか。それにしても、根元から丸ごと倒れた巨樹の姿はあまりにも痛々しい。あらわになった根っこを目にして、なぜか言いようのない空しさに打たれた。ただ、わずか数日あとのテレビニュースには、樹身が切断されたが、りっぱに立ち上がった光景があった。突飛な形でおなじ場所に鎮座した。こんどはなぜか違う意味で励まされた思いがした。

大イチョウの前の広い広場には、薪火の用意が設けられ、まわりには着飾った巫女たちが忙しく動き回る。なにかの行事が予定されていたと見る。すでに新芽が吹き出した大イチョウの姿をカメラに収めて、学生たちとともに八幡宮を後にした。

2010年5月8日土曜日

画巻ふたたび

上海で開催されている世界博覧会は、最初の一週間を無事に過ごした。いまだ実際に訪ねた人がごく少数派だが、宣伝の役目を担うメディア関係が賑やかな会場、それにそれを取り囲む上海の現在にスポットライトを当て、多くの人々のために訪ねてみる理由を見つけ出してくれたようだ。

博覧会の中国館も豊富な話題を提供している。中でも少なからぬ驚きを感じさせてくれたのは、展示の目玉にこんどもまた画巻を選んだことだ。二年前のオリンピックに続くもので、関係者の説明では、実際に発掘され、保存されている景観があまりにも少ないこともあって、代わりに画巻の魅力を再認識したとか。興味深いのはその表現の方法だ。今度も途方もない大きなサイズに引き伸ばしたものに仕立て、しかも現代映画の手法よろしくと、描かれている人物を全員動かせたという、発案者が得意に思うだろうが、いかにも唐突で新味が乏しいと評価せざるをえない工夫を披露してくれた。

時を同じくして、去年の夏に提出した原稿が活字になって手元に送られてきた。唐の画家李公麟とかれの代表作「孝経図」を取り上げた。画面内容の解明を試みながら、画家にかぎらない中国文人の発想と価値観を覗いてみたものだった。ご批判をお願いしたい。

『漢文文化圏の説話世界』

2010年5月1日土曜日

遊び道具の双六

このブログにも寄稿してくださった吉田修氏は、先月初めにNHK(BShi)の新番組「熱中スタジアム」に出演し、江戸生活の一つを紹介して、ご自慢の双六コレクションを披露なさった。時計、枕、旅道具などさまざまな江戸の実物が番組に取り上げられたが、しかしながら、それらの時代ものの宝に並んで、時間の流れに負けないで、いまでも本来の遊び道具としての役目を存分に発揮する双六の魅力を垣間見ることができた。

スタジオの中で、吉田氏の指導で、司会やゲストたちは一席の双六競技を展開した。優雅な「根付」を持ち駒にし、賽を回しながらそれぞれに駒を進めさせた。そこは双六特有のスタイル。進めた先の枡には二個や三個ほどの100501数字と別の枡の名前が書かれ、それ以外の賽なら空回り、そのうちのどれかならその通りに次の枡に移すというルールである。枡の名を読み上げ、その内容によって互いに揶揄したり、語り合ったりして、見ていても、じつに楽しいひと時だった。数百年まえの遊びは、まったく同じ道具を使って体験できるものだと、あらためて驚嘆を覚えた。

話が変わるが、今週より語学研修を引率して短く東京に滞在する。それに合わせて、英語のブログを始めた。さっそくこのテレビ番組のこともテーマにしてみたので、興味のある方はぜひそちらにも立ち寄ってください。

お江戸

2010年4月24日土曜日

国それぞれの著作権

数日前、あるオンラインの集まりにおいて、著作権をめぐる興味深い議論が交わされた。インターネットでのデジタル学習リソースの開発に携わるある方が、一つの対処法を提示したのである。いうまでもなくいわゆる違法の使用ではなくて、あくまでも著作権所有者が希望しても対応しきれない分野での、著作資料の二次的な応用である。

この方はヨーロッパの国からの学者である。テレビコマーシャルを語学教材に利用するにあたり、日本ではなくてヨーロッパの国にあるサーバーを利用し、ヨーロッパの法律に従うことで許可なしの使用を提案している。その理由としては、ヨーロッパの国は学術使用のための引用(フェアユーズ)を認めること、そしてその使用方法が原物と異なる形であれば、原物とは競争しないとの認識に立脚するものである。つまりこの場合は、オンラインでのコマーシャルは、テレビ放送という原物と異なるとの解釈になる。

思えば、著作権への認識や対応をめぐり、言葉通りの国それぞれのやり方が取られている。以上のようなヨーロッパ的な解釈は、現存の法律の枠組みに基づいての修正と言えよう。対して、アメリカ的なアプローチと言えば、おそらくその一番先端を走っているのはグーグルではなかろうか。いま流行りの「ストリートビュー」でも、はたまた日々増長している「ブックス」でも、いずれも反発を予想しても、明らかな違法でなければ、とにかくやってしまう。その上、反対の意見が現われば、それに対応する。いわば新たな行動をもって、法律の成立をリードするという構図である。こう捉えてみれば、日本はまたもう一つの光景をなす。言って見れば、問題が起こらないようようにボーダーラインまではるか離れたところで踏みとどまって行動を自粛するとでも言えようか。行動を起こさなかったがためにどんなに時機を失ったとしてもそれには甘んじる。

ちなみにこの分野では中国のあり方はこれまた異色だ。先日たまたま開いたサイトなどは、新刊図書の原文を画像、テキスト、はたまた電子書籍(EPUB)とさまざまな形でダウンロードする機能を提示しながら、そのすぐ傍にオンライン販売のリンクを貼り付けた。まさに常識を覆し、想像を超える規則を作り出そうとしているもんだと目を見張った。

2010年4月17日土曜日

人それぞれのiPad

知っている人ぞ知っているという内容のことだが、100417いまや世の中ではiPadという小さな機械が結構一部の人々の心を掴んでいる。今週のはじめ、出張してきた友人が一部もたらしてくれて、おかげで地域での正式発売前から楽しいオモチャが手に入り、ここ数日、かなりの時間をつぎ込んだ。

振り返ってみれ ば、パソコンとは自分の中でなぜかものを作り出すための道具として使ってきた。それを使ってプログラムを作ったり、サイトを作成したり、はたまた文章を書いたりしてきた。そのため、知らず知らずに、パソコンをただ情報を汲み取るために受身的に使うことには、一種の後ろめたささえ感じた。そしてその分、道具を準備する、道具を揃えるという気持ちで、あれこれと弄ったり、比較したりして費やしたエネルギーは、数え切れない。

そこで、iPadが現われた。これはどうもパソコンでありながら、これまでのそれとはっきりと一線を画すようなものだ。これを用いて「ものづくり」をしようと思えば、まったく不可能でもなかろうが、はっきり言って実用にはほど遠い。一方では、これを受身的な道具と割り切って、それだけの用途に徹しようと思えば、断然ここちよい。ここまで特定の用途に特化したような道具は、まさにこれまでになくて、一つの革命でさえある。おかげでさっそくソファーに腰を沈めて、メモさえ取らずにただじっくり本を読むという時間が一日の中にできあがった。

たしかに巫鴻の著を日本語に訳した中野美代子が、長い「訳者解説」において、絵画の載体に目を配った著者の論に賛同し、同じ論をさっそく唐の「歴代名画記」に遡らせてみせた(『屏風のなかの壷中天』)。それに倣って言えば、目の前にはまさに一つの媒体進化の活劇があった。それがもたらした刺激のある経験をあらためて噛みしめる思いをした。

2010年4月10日土曜日

和歌百年

来週はすでに今学期の最後の一週間となる。担当の文学授業では、最後の一章に和歌を取り上げた。今度は、百年離れた二人の歌人を並べ、「チョコレート語訳」にスポットライトを当てて、与謝野晶子と俵万智の名前を学生たちに紹介した。

日本語学習者には、ワカとはいささか敷居が高い。音節の数のみをもって構成の要素とし、千年におよぶ長き伝統や変遷の歴史まで触れてみようと思ったら、それこそ理屈っぽい、箇条書きの入門ノートにならざるをえない。ワカはポエム。ただ、高尚な精神や超人的な文学の創作を無意識に期待し、それを探し求めようとする現代的な発想しか持たない学生には、人為的なルールを設けておいて、その上社交的な機能さえ持たせた、例えば連歌などに見られたかつての生活風景など、どこまで想像させることができるのだろうか。

一方では、だからこそ、よいポエム、歴史に残る和歌とは、どのような仕組みによって生まれたのだろうかと考えさせられる。なによりもまずは人々の心を打つ、心に響くことが必須の条件だろう。人々の意識にあって、いまだ誰も口にしていない、それでいながら言われれば即座に共感が湧き上がるような、マジックパワーを持つものだろう。二人の歌人に即して言えば、与謝野においての「乱れ髪」、俵においての「サラダ」、「カンチューハイ」は、その代表格のものではなかろうか。逆に「チョコレート革命」もあったが、人為的で、表現として伝わってこないと思うのは、私だけだろうか。どうしてチョコレートなのか、たとえバレンタインデーまで持ち出していても、体感的には分からない。

与謝野晶子の和歌は、情熱なものもあれば、叙事的でそのまま絵になる傑作もある。一方では、チョコレート語訳だけでは、俵万智の真価を伝えきれない。ささやかな試みとして十数句選んで並べかえ、一つのラブストーリに見立てて読み聞かせてみた。若い学生たちの絶えない明るい笑いや意味深の頷きから、現代和歌のたしかな魅力を感じられる思いをした。

2010年4月3日土曜日

「言ひたてたる」絵物語

鎌倉時代初期の私家集に、『建礼門院右京大夫集』がある。歌に添えられる詞書が長文で、一種の日記的なスタイルをもつのが特徴である。その詞書の一つに、「絵物語」が登場した。

話の内容は、いたって平安的なものだった。西園寺実宗(近衛府中将、蔵人頭)と平維盛(右少将中宮権亮)という二人の誉れ高い男性の会話を聞き取り、歌人はそれを歌に詠みあげた。一人は当世一の琵琶の名手、一人は一世風靡の美男子。賀茂祭のために普段よりいっそう艶やかな出で立ちで身を固めた維盛の姿を、まさに「絵物がたりいひたてたるやうにうつくし」いと、歌人は言葉通りにうっとりと見とれた。

ここに、絵物語とは、「言いたてる」ものとだと歌人の言葉選びが興味深い。絵は色彩で描き、物語は仮名で書き留めるものだと、今日のわれわれはまずそう断定するものではなかろうか。そのような前提に立ってこれを理解しようとすれば、表現の揺れ、言葉の流動、ひいては文章の不確定や許容範囲の交差と、無理承知の解釈をしようと無意識にしてしまう。現に旧古典大系の頭注はこのよな方向を取り、「いひたてたる」とは「書きたててある」とこともなげに決め付けた。

あるいは事情がまったく違っていたのかもしれない。絵物語とは描かれ、書かれて目をもって鑑賞するものとは限らない。物語であれば、語られて聞いていたことも鑑賞の基本形態の一つだったに違いない。だからこそ「言いたてる」ものだった。そのような体験を繰り返し身をもって積んできた歌人からすれば、目からの記憶を呼び起こすのではなく、耳によって感じ取った文学の世界を総動員して、実生活の中の感動を伝えようとしたのではなかろうか。

2010年3月27日土曜日

毛髪の美術品

大学美術学科の年度行事として、世界の有名芸術家を招いての公開講演が週末に行われた。登壇されたのは、谷文達というニューヨーク在住の現代芸術家である。違う学科からも関心が寄せられたこともあって、似たような行事としてはかなり大人数の聴講者があつまった。

100327この芸術家の仕事は、まったくユニークなものだ。いくつか同時進行で進められているプロジェクトの一つには、人間の毛髪を材料に用いて作った世界文明のモニュメント群というものがある。代表的な文明を選び、擬製の文字を使って巨大な幕を作りあげ、それによって囲まれた空間に洗練された象徴的なアイテムを配置して、立体的な展示空間を演出する。どこにも存在しない文字は、本物まがいでそれによって記録された文明をきわめて抽象的に提示し、一見して圧倒されて、りっぱというほかはない。

作品のスケールは、とにかく大きい。たとえば中国をテーマにしたものは、実寸大のレンガを作り、それを用いて長城の一角を再現したが、その材料もすべて髪。これだけで四トンの髪の毛を使ったという。そして、文字の幕を作り上げるために、四人がかりで二年半もの時間を費やしたとか。聴講者の中からはさっそく作成の方法についての質問が上がったが、ビニールに髪の毛を敷いて粘着剤を施し、固まったらビニールを剥がしたら完成だよとこともなげに答えが戻ってきた。単純なほどに、辛抱強い作業を想像させられて、感動さえ覚えた。

芸術家が述べたコメントの一つはとても印象的だった。髪の毛とは、丈夫で時間の流れに勝つものだと、その実例としてエジプトの、ヨーロッパの装身具や飾り宝石が挙げられた。一種の人間の排泄物でありながら、人間の体の他の構成とはまったく異なる持久性をもつ物質だと認識させられて、はっと思わされた。

一方では、講演の前夜、極小規模の夕食に招待されて、芸術家とゆっくり会話する機会があった。その中で、日本の尼寺で伝わる毛髪の絵のことを紹介したが、長い旅からの疲れもあったせいか、まったく反応がなくて、ちょっぴり残念だった。

2010年3月20日土曜日

絵巻の裏に糊あり

たまにする趣味の一つには、書の表装がある。宣紙に書かれた書の裏にさらに一枚同じ宣紙を裏打ちすると、見えはびっくりするぐらいに変わってしまう。だが、あくまでも一種の遊びなので、それに用いる糊を専門店で探しもとめるようなことはなく、料理用の片栗粉を使って手軽に作ってしまう。

専門の世界ではどういうものになるのだろうか。きっとしっかりした伝統に支えられて、百年も千年もの歴史に沈殿されたものが伝わり続いてものに違いないと想像していた。そのような漠然とした関心に応えて、数日前のNHKのニュース番組は、まさにこのテーマを取り上げてくれた。それも絵巻修復を手掛かりとし、江戸初期の「平家物語絵巻」が大きく画面にクローズアップされた。特製の糊というのは、なんと長年の黴によって作り出されたものだと始めて知った。テレビカメラは修復の工場の裏側に回り、黒ずんだ水の下に隠された真っ白の糊を捉えて見せてくれた。そして、そのような歴史の年輪を一身に受けた糊の制作に科学のメスが入り、いま流行りのバイオテクノロジーが運用されて、同等の糊が化学製品のように作り出すことに成功し、洋画の修復の分野も含めて世界的に注目されたと報道された。

短いニュースは、時間にかかる一連の数字を立て続けに並べて、想像をそそる。曰く、絵巻の最善の状態を保てるためには、100年に一度は裏の紙を取替える。伝統の糊は、製造の周期が10年に上る。ハイテクを用いて製造に成功した糊は、わずか2週間で作り上げられる。そして製品としてのそれを確認するためには、伝統の糊と比較するために、同じ材料の書を表装したものを同じ環境に置いて観察を続け、これまですでに3年10月の時間が経ったが、いまだ表装された作品に差が見出せない。とか。

複数の時間軸の中で、あらたな人間の創造が、無限の広がりを呼び起こしていて、ささやかな壮大さを感じ取った。

2010年3月13日土曜日

iPadで絵巻を?

100313 世を賑わせるアップルの新製品「iPad」の発売がいよいよ近づき、商品予約の受付も去る週末に正式に始まった。好事者たちの強い期待が否応なしに高くなり、さまざまな予想、予測、予定が盛んに飛び交う。その中で、上質なブログの文章もあった。英語で書かれたもので、書物とiPadとの交差において日本の絵巻が大きくクローズアップされたのである。意外な思いをもって興味津々に読んだ。

思い切って新商品の肩を持つ立場で予測を試みるとすれば、この新しいタイプの機械は、かつて音楽や音声メディアに斬新な可能性をもたらしたiPodと同じように、人々の読書の経験、ひいては書籍生産のありかたに大きなインパクトを与えるのではないかと想像する。そうであることを期待したい。書籍で読む情報や知識には電子メディアの形で接したい、在来の出版などの枠組みに捕らわれることから新たなありかたを経験したいというのが、一読書人としての切な思いである。このような話題になると、すぐ書物の感触、匂い、気持ちの持ち方などの反論が戻ってくる。個人の感情を述べるものならば、それまでのことだが、新しい技術の変化を考えるためにこれを語るとなれば、不思議な気がしてならない。書物から電子メディアへの転換は、まさに大きな革命だ。たとえて言えば竹簡から巻物に、巻物から冊子本に転換するものであり、そのようなメディアとしての本質的な違いを認めなければ、大事なことを見落としてしまうことにほかならない。

ところで、技術の進歩や可能性を大いなる興奮をもって議論するのはよろしいことだが、だからといってiPadと絵巻とを繋げるのは、いささか的外れだったと言うべきだろう。いくら画面をクルーズアップして、それを滑らかに、綺麗に見られたからと言って、絵巻というメディアのあるべき鑑賞に対応できたとはほど遠い。新しいメディアの真骨頂は、あくまでもその特徴を生かした情報の提供、伝達にあることだろう。過去にあったメディアの再現は、どう考えても付加的なものであって本質に関わるものではない。

それにしても、絵巻とiPadとを交差させた文章は、なぜか大目に見てあげたくなるような、微笑ましい思いで読了した。

2010年3月6日土曜日

政治批判の絵

『古今著聞集』には、絵師をまつわる数々の興味深い逸話が収録されている。その中で活躍した絵師の一人は、鳥羽僧正という名を持つ。語り種に残ったかれの伝説には、真正面から一つの政治活動に絵を生かしたエピソードがあった(第395話)。

まず、この鳥羽僧正の絵描きの腕前が一流だった。法勝寺金堂の扉絵を描いたとの実績をもつ。今日の事情に置き換えれば、さしずめどこかの都市シンボル建築に署名で壁画を創作したといったところだろうか。そこで、そのかれがつぎのような出来事に関わった。朝廷に貢ぐ供米が集められたところ、不意に辻風が吹き通った。その瞬間、なんと積み上げられた供米が俵ごとに舞い上がった。これを運び込んできた人々が慌てふためいて走り回り、これを押さえようと必死だった。これを目撃した鳥羽僧正はその様子をさっそく絵に納めた。評判の絵師の作品ゆえに、それがさっそく権力の中心者である白河法皇の御覧に持ち出された。しかしながら、その白河法皇が構図や人物の生き生きとしたことに共感したのみで、絵の意味することを読み解くことができなかった。鳥羽僧正本人に問いただしてようやく理解ができた。俵が舞い上がったということは、その中に米ではなくて、誤魔化しの糟糠しか入っていなかったからにほかならない。事情が分かった法皇はそれなりの対応を取り、それからは似たような不正が根絶されたと説話が結論した。

中世における絵の創作とその享受のありかたをめぐる一幕として、はなはだユニークなものだった。絵師の腕前よりも、なにを画く、なにを伝えるのかということがはっきりしていたものだった。しかも説話が伝えていることを信じるとすれば、鳥羽僧正の行動は、一つの政治批判として、単なる言論表現に留まらず、政策の実施、政治運営の結果にまでつながったのだから、大したものだと敬服せざるをえない。

2010年2月27日土曜日

グーグルブックスの立ち読み

世に言う「グーグルモデル」というものがあるらしい。さまざまな形、アプローチで取り沙汰されていて、強い関心、ときには隠せない驚異をもって議論されるそのスタイルの一つには、新製品の発表があげられる。いわばアップルのまったく逆の方向を行くもので、新しいものをほとんどぜんぜん宣伝しないで、あるいはいつまでもベター(試用)という名のもとで世に送り出す。問題などへの対応がより身軽にこなせるとの思惑もあるのかもしれない。ただ、どの製品もスケールが大きいだけに、使用者はどうしても目をみはり、思わず追い続けるようになる。

そのような代表的なものを一つあげるとすれば、迷いなくグーグルブックスだと言いたい。

立ち読みは、本屋と相場に決まっている。ただし日本で生活しない人間としては、偶にしかできない日本滞在での立ち読みは、大学図書館を選ぶときが多い。本屋の店頭に並べられてかなり時間が経ったにもかかわらず、新刊としての魅力を十分に感じられる。そのような日常の中にいて、グーグルブックスの存在が大きい。おそらくたとえ日本で生活していても、普通の地方の本屋よりは何倍も充実な内容が提供されていると、ただ有り難く思うばかりだ。

現在のところ、グーグルブックスで読める本は、およそ五分の一程度のページが公開されている。それが飛ばし飛ばしになっていて、あくまでも立ち読みに似合う。ただし言葉レベルの検索が掛けられるなど、普通の立ち読みでは味わえない体験も用意されている。図書を大きなサイズでスキャンして、OCRで文字テキストに変えて索引を作成し、その上スクリーンで読める程度に画質を落として公開されていると推測できる。言い換えれば、いまの状態より何倍も楽に読める可能性を確実に確保されていながらも、最小限の形でしか提供されていない。一方では、どのような基準で書籍が選ばれたのかは見当がつかない。図書館、本屋、出版時期、出版社の意向と、さまざま考えられ、あるいはそのような要素がすべて絡んでいるに違いない。公開された書籍については、分類などの処置はいっさい取られておらず、図書館あるいは本屋とは性格の異なる立場にあることをつねに強調しているように感じてならない。

グーグルブックスをめぐっては、著作権などの見地から問題視にする声が圧倒的に多い。それも一部の作者や出版社の立場からの発言が中心を占める。つきつめて言えば、書籍、あるいはそれを代わる品質のある読み物の継続生産を保証することが議論の主眼だろう。一方では、新しいメディア環境の中での読者の喜びをいかに作り出すか、グーグルブックスは一つの魅力あるありかたを力強く提示していることを忘れてはならない。

2010年2月20日土曜日

イギリス中世劇が蘇る

読書週と名乗る一週間の大学講義の休講で静まり返ったキャンパスで、去る火曜日、いたって文化的な夜を過ごした。三百年以上も前のイギリス劇作家の作品がステージの上で再現され、蘇ってきたものだった。

100219劇の名前は「Humorous Magistrate」。日本風に言えば、さしずめ「可笑しな大名」といったところだろうか。十七世紀のイギリスが背景となり、権力を握る傲慢な官吏、かれを囲むさまざまな人間、家族や富をかけてのやり取りと取り引き、若者の愛や年寄りの欲望といったさまざまな魅力あるテーマをコミカルに、ところどころ色気たっぷりにステージの上に展開されて、三時間近くにわたって、大勢集まってきた現代の観衆を楽しませた。

演劇の実現は、じつは一つの学術研究プロジェクトの結果だった。劇の脚本は、数十年前に大学図書館がまとまって購入した古書籍の中の一点で、長く書庫に眠ったまま、英文学の教授によって発見された。それからは五年間以上の時間にわたって、大学院生への授業に取り上げられたり、違う分野の教授、世界の学者と協力して調査が行われたりして、研究が重ねられてきた。その間には、同じ劇のより早い時期の草稿が発見され、二つの原稿を、それぞれ1632年以後と1640年以後と作成時期が特定され、作者不明のままだが、シェークスピア劇を愛好者で、その影響を深く受けていたと、作者像の追求にも手掛かりを現われた。シェークスピア劇の研究と同時代への認識において大きく寄与するものだと特筆すべきものだろう。

中世文学研究の成果報告を学術の論文やらシンポジウムやらに止まらず、さっそく実際の舞台に持ち出し、形のあるものに変えて一般観客の目に触れさせるようにする。いかにもヨーロッパの正統な伝統を踏まえての英文学研究のスタイルだ。異なる文化的な大事な側面を覗けたような気がしてなぜかわくわくした思いに打たれた。

Humorous Magistrate
Humorous Magistrate (research)

2010年2月13日土曜日

冬オリンピックがカナダにやってきた

暦の上では、寅年が今日から始まった。旧暦のお正月であり、今日をもって春の始まりを祝い、幸多い新しい一年を慶ぶ。一方では、ちょうど同じ日に、冬オリンピックがカナダで始まった。中国にいる人々は、大晦日の昼にオリンピックの開会式を鑑賞し、同じ日の夜に待ちに待った、一年を締めくくるテレビのショーを楽しむという、いたって得がたい経験をすることになる。

カナダということで、オリンピックの開会式をしみじみと見入った。数万人の現場の観客、テレビの前に座るおそらく億で数える世界の人々のために、言葉通りの豪華絢爛なステージが用意された。冬オリンピック史上はじめての室内開会式と謳い上げることで、室外の要素をふんだんに盛り込んで、素晴らしい演出が繰り広げられた。花火、五輪から飛び出したスノーボード、巨大な聖火台、さすがにあっと感じさせるような瞬間が数多くあった。印象に残ったのは、やはり変幻自在のスクリーンだった。鮮やかな光に照らされて、横のそれは空や雲となり、縦のそれは木になり、氷山となる。吊り上げられ、下ろされ、散り落ちて、スタジアムの空間がまさに生きたようなものとなった。それを飾りつけるかのように、人間は上を見上げ、頂上から飛び降り、あるいはそのまわりを見えない翼を羽ばたいて飛び交う。

画面を見つめていて、柔らかい布がこうにも豊かな表情を見せてくれるものかと、何回となく心を打たれた。いうまでもなく計算しつくされた視覚の効果だった。光、色、それは人間の目を喜ばせ、だれもが持ち合わせている常識や知識と相まって、想像の世界を組み立てていくものだった。ちなみに、そのような巧妙なスクリーンの演出でも、建物や柱などに変身することがなかった。自然を一番に自慢にしているカナダならではの発想がそこにも隠されていたのではないかと勝手に想像した。

カナダらしいといえば、開会式の最後の最後になってだれもが予想できなかったハプニングが起こった。これまで最高の秘密とかなんとかもったいぶっていた聖火の点火には、なんとクレーンが上がらなかった。市の中心部にすでにおなじ格好の聖火台が立てられているから、いっそうバツが悪い。ただ、こんな失敗でも、みんなはのんきに笑って済ましてしまう。そういうところに、いや、むしろそういうところにこそ、カナダの人々の能天気な性格が一番はっきりと覗けた気がしてならない。

2010年2月6日土曜日

詞書の品格

世の中は、品格への関心が集まっている。女性、国家、国技、これらもろもろの大きな言葉とペアを組んで、心をそそる表現が新聞やテレビを踊る。学生たちにも伝えなくてはと、録画を編集してクラスに持ち込み、品格と大きく黒板に書いてこれを解説する。いうまでもなくそう簡単に伝えられるものではない。

思いは自然に絵巻のことに馳せる。都合よく手元に格好の実例がある。先週とりあげた芥川の、絵巻と名乗る短編は、明らかに絵巻の詞書のスタイルを意識していた。読者もそのようなことを心に留めて読むべきだ。具体的な作品まで辿りつくことがあってもなくても、約百年まえに書かれた芥川のあの作品は、いまはもちろんのこと、発表当時において非常に格調高い、品格のある書き方をしていたと感嘆されたに間違いない。

一方では、実際の絵巻の世界においては、事情はおそらくまったく異なる。例えば『福富草紙』の詞書(画中詞)は、つぎの数行で締めくくる。
「あな、をかしや」
「なにわらふぞ」
「なにみるぞ、おれら」
分かりやすいと言えばその通りだが、これはどう考えてみても、品格で上位に位置づけできる文章ではなかった。数々の絵巻、綿々と続く詞書を披いて、文章の品位で眺めるならば、その時代の人々が認めるような基準というのが存在していた。詞書の書き出しを見てみよう。

「朝家に文武の二道あり、互に政理を扶く」(『後三年合戦絵詞』)
「夫春日大明神は満月円明の如来、久遠成道のひかりをやはらげ」(『春日権現験記絵』)
「醍醐天皇之御宇、延長六年八月之比」(『道成寺縁起』)

似たようなものはまさに枚挙に遑ない。ただし、これが名文だとの思いそのものも、その時代の一部だった。時の移り変わりとともにそのような価値判断の基準が薄れ、やがて崩れてしまう。今日になれば、ただの常套句だと捉えられてしまう。しかもさほど意味を持たないものとして、研究者でさえついつい目を飛ばしてしまう。文章の品格って、そういうものだろうか。

因みに、品格を説明するためのガッツポーズ云々の件は、日本語のクラスではナットクというよりも、明るい笑いを誘った。時や場が変われば、常識も、判断基準もそこまで変わったとしみじみに思い、ついその説明の言葉に力を入れるようになった。

2010年1月30日土曜日

芥川龍之介の思う絵巻

芥川龍之介には『往生絵巻』という短編がある。阿弥陀仏と唱えながら街を行く五位の入道を見物する人々の会話をもって構築された秀逸な一篇である。

作品は、童、そして鮨売の女の騒がしい掛け声から始まる。絵巻を知っている読者なら、さっそく「福富草紙」の会話、「長谷雄草紙」の街角の光景を思い出すに違いない。とりわけこの二つの絵巻をどこまで見ていても飽きない読者なら、うきうき、わくわくした思いを押さえながら、一気に終わりまで読み進むものだろう。

街角の人々の会話には、いたるところに芥川らしい機知やユーモアが見られる。世を捨てて出家する勇気を感嘆する声があれば、捨てられた家族が不憫だとさっそく反論があがり、それも「弥陀仏でも女でも」家族を奪われたら恨みが生まれるものだと論破される。仏と女と並べるものかと、思わずツッコミを入れたくなる。荒っぽい武士の行いとなれば、仏の在り処を法師に尋ねようと、なんと刀を引き抜いて法師の胸に突きつけて聞き出そうとするものだから、分かるわけがないと、くすくす笑ってしまう。人間百様のさまざまな思い、行いを俯瞰的に眺め、洗練された短い会話をもって縦横無断に表現してみせるのは、まさに芥川ならではの腕前だ。

道行く五位の入道に投げかけられた視線をゆっくりと移動して捉えて行き、それが一つまた一つ、消えたと思ったらさらに魅力的なものが現われたという形で連綿と続いて、まさに一巻の絵巻だ。さらに言えば、絵にするものならば、背景も細部の描写もなにも施さないで、余白をいっぱい残したままのスタイルが相応しい。闊達な筆捌きと無造作な会話、それだけで十分だ。

しかしながら、さきの二つの絵巻を見る経験を持ち合わせない読者には、この作品の世界ははたしてどう映るものだろうか。ちょっぴり敷居が高いかもしれない。少なくとも、何回も読み返す私には、今昔物語の虜になった芥川龍之介がますます普通の読者のことを省みる余裕を失いはじめた書き方をしているもんだと勝手に想像しながら、難解な語彙や表現を追い続けていたことを書き留めておきたい。

2010年1月23日土曜日

聖火トーチがやってきた

バンクーバーで開催される冬オリンピックは、日に日に近づいてきた。その中で、生活するこの町の名前も日本のマスコミに連日登場するようになり、日本のトップアスリートたちが最後の訓練地を目指してここに集まってくる。実際のところ、その場所とは、勤務する大学に所属するリンクであり、普段は本大学の学生だけではなく、普通の市民にも開放されて、日常生活の一部として親しまれているところだ。

数日まえ、そのリンクの上で聖火トーチリレーのセレモニーがあった。30分ちょっとの行事には、6000を超える人々が集まったと新聞などが報じている。早朝に行われたもので、学生や同僚たちとともに参加し、心より応援を送った。リンクはいっぱいのライトに照らされて、普段とは一味違う晴れ晴れしい姿を見せてくれている。観客席には観衆が溢れ、旗を手にした人々がリンクのすぐ側まで詰め寄った。歓声と拍手の中、聖火トーチは四回ほどリンクを走りまわった。それを手にしたのは、これまで二回も受賞に輝いたオリンピックのメダリストであり、そしてこれからカナダチームの選手代表である。因みに、その選手代表の名前は「ヨシダ」だとプログラムで見て分かった。若くて輝くような笑顔はとても印象的だった。

100123リンクの側に立って、カメラを構えて連続撮影を試みた 。カメラって、やはり不思議。シャッターを押し続けて、出来上がった写真を見て、目に入っていたはずだが、記憶にはまったくないものが残される。たとえば右の一枚。トーチには火が見えず、スケーターは視線は足に落とし、全身の筋肉は不自然な姿勢を保てる以外、どこにも力が入っていない。ここまで鮮明に撮れていて、まったく気づいたことのなかった瞬間が、ここにはあった。

動画もいいが、静止画は時にはもっと味わいがあって、しみじみと繰り返して眺める。そして、絵の構図、その虚構と真実まで思いを巡らせてくれてやまないと気づかされる。

2010年1月16日土曜日

学生たちと漱石の夢を読む

大学で新学期が始まった。今学期の担当は、英訳で読む日本の現代文学。計38時間の授業で、予備知識ほとんどなしの日本語学習者に150年近くの激動を伴う日本の作家や作品を紹介する。かなりの挑戦であり、楽しみである。最小限の背景知識の講義を経て、さっそく夏目漱石に入った。取り上げるのは、自分が学生時代に愉快で苦い経験を味わった『夢十夜』である。

夢とは奇異なものだ。儚いもの、適えられないものの異名を持つが、「黄梁の夢」もあれば、冷や汗ばかり残る悪夢もある。漱石が語ったのは、あきらかに後者のものに属する。絶世の感性が成せるわざで、どこか今様のホラー話に通じる。漱石ワールドにおいて、いわば洒落な諧謔ではなく、じっくり読めば読むほどぞっとするような、一つのセンテンスですべてをぶち壊してしまう嗜虐な色合いが強い。そしてどれも精巧に組み立てられて、一枚の絵になる。細かくて、魅力的でいながら、論理がなく軽快に飛び跳ね、希望と失望、時間と空間、男と女、親と子、個人と家族が織り交ぜる。それも想念ではなく、奇想、妄想、狂想のオンパレードで、その中のどこかに、はなはだ個人的な記憶がぴったりと嵌め込めるから、不思議なものだ。

100116学生たちの一人ひとりの読みは、口頭発表や掲示板への書き込みなどをもって展開する。はたして漱石の思いを受け止められるのだろうか。思えば三年ほど前にあらたに制作された映画だって、漱石の姿を思い切ってデフォルメしたものだから、学生たちのどんな自由な受け止め方でも咎められないだろう。

漱石の夢という鏡において、どのような顔が映し出せるのだろうか、わくわくしている。

2010年1月9日土曜日

茶臼山古墳の銅鏡

ここ数日、新聞やテレビを賑わせる話題の一つには、奈良桜井茶臼山古墳における発掘成果があった。一つの古墳からこれまで最多の銅鏡が発見され、その数はなんと八十一枚に上ると報じられている。

いつごろからだろうか、銅鏡が映し出した卑弥呼が生活していた三世紀という、文字記録のなかった時代のことをロマンと定義して語られている。あまりにも情報がなくて、すべて想像に任せるという歴史事実への気持ちの現われだろうか。もちろんこれを研究の対象とすれば、想像や推測で対応するわけには行かず、たしかな物証が第一義的に要求される。そこで、今度の発掘では、中国の魏の年号(正始元、240年)の銘文が入った鏡まで確認できた。研究者、関係者の興奮は、想像に難くない。

100109テレビの報道を通じて、銅鏡特定のプロセスを初めて覗き、これまでまったく考えていなかっただけに、はっと思わされるものが多かった。この古墳の発掘は、これが初めてではなく、新たに見つかったのは、形を留まった鏡ではなく、サイズさまざまな破片だった。その数は三百点を超えた。墓に入れられて千年経とうと、銅の鏡がぼろぼろの砕片になることはなかろうが、長い歴史の中で盗掘などの災難に晒され、人為的な破壊がこの結果をもたらした。そこで、無数の破片をどのように復元するものかと、ついにおもちゃのレゴを連想し、余計なロマンが紛れ込まないかとつい心配してしまう。しかしながら、銅鏡は想像をもって組み立てるのではなく、これまで出土などで知られた実物に照らし合わせてゆくものだった。いわばないものを作り出すのではなく、存在してある実物のどの部分に当たるかを模作するという、逆の方向の確認だった。いうまでもなく最初から同じものが複数に作られ、しかも完璧に保存された実物が存在するということが前提なのだ。

模様が描かれた紙の上に置かれた銅鏡の欠片を眺めて、ついに絵巻のことを思い出す。原則的には一部しか作らない、たとえ複数に作ってもまったく同じものが望めない、作品そのものを繰り返し披いたり鑑賞したりすることだけで消耗されて形がすこしずつ変わってしまう。同じ復元といってもまったく違うことを意味する。媒体の違いがどこまでも大きいと改めて思い知らされた。

2010年1月2日土曜日

百虎図

明けましておめでとうございます。

新しい一年が始まった。今年の干支は、寅年。日本で交わされた年賀には、寅という文字と虎の絵柄が横に並んで巷を賑わせていると想像する。一方では、中国では同じ干支を表現しても寅という文字を用いず、もっぱら虎年と称して、勇猛な虎の図案を配する。虎を含む目出度い言葉も膨大な数で思い出され、祝賀の口上に述べられている。

虎にまつわる絵と言えば、「百虎図」がまず思い出される。これを名乗る作品は無数にあって、いわば一つの作品のジャンル名の観を呈する。もともと「百」と言っても、百鳥、百牛、百花、ひいては百家、百科、百貨という言葉から察せられるように、必ずしも数字の百を意味するものではなく、百だと錯覚させてしまうぐらい大勢の、といったぐらいの意味合いである。虎の場合で言えば、それは百八頭の虎を描くものあれば、一頭しかないものあり、もちろん百頭と丁寧に描いたものもある。さらに、さかんに喜ばれる画題のわりには、権威をもつ基準作のようなものが存在せず、無数の絵師たちによって熱烈な愛好者の期待に応えつつ描かれ、伝われてきたが、一つの作品が無数の模作を生み出すといった中国絵画の常套がさほど認められない。

100102「百虎図」の作品群には、巻物の形態を取るものもある。ここには、日本の絵巻にまったくと言っていいほど見られない一つのスタイルがある。巻物のタイトルを巻頭に飾るものだ。日本の絵巻で言えば、最初の一段の詞書のスペースを丸ごと占拠するものだ。しかも文字を大きく書くということで、三つの文字を巻物の展開する方向に沿って右から左へ展開する。一部の古態の額などに見られるような文字の配列となる。

百の虎が一ヶ所に集まってしまうのは、実際的なものとしてちょっぴり想像しにくい。だが、絵に描かれたそれは、虚構的な風情が加わわり、なぜか目出度いものだ。