来週はすでに今学期の最後の一週間となる。担当の文学授業では、最後の一章に和歌を取り上げた。今度は、百年離れた二人の歌人を並べ、「チョコレート語訳」にスポットライトを当てて、与謝野晶子と俵万智の名前を学生たちに紹介した。
日本語学習者には、ワカとはいささか敷居が高い。音節の数のみをもって構成の要素とし、千年におよぶ長き伝統や変遷の歴史まで触れてみようと思ったら、それこそ理屈っぽい、箇条書きの入門ノートにならざるをえない。ワカはポエム。ただ、高尚な精神や超人的な文学の創作を無意識に期待し、それを探し求めようとする現代的な発想しか持たない学生には、人為的なルールを設けておいて、その上社交的な機能さえ持たせた、例えば連歌などに見られたかつての生活風景など、どこまで想像させることができるのだろうか。
一方では、だからこそ、よいポエム、歴史に残る和歌とは、どのような仕組みによって生まれたのだろうかと考えさせられる。なによりもまずは人々の心を打つ、心に響くことが必須の条件だろう。人々の意識にあって、いまだ誰も口にしていない、それでいながら言われれば即座に共感が湧き上がるような、マジックパワーを持つものだろう。二人の歌人に即して言えば、与謝野においての「乱れ髪」、俵においての「サラダ」、「カンチューハイ」は、その代表格のものではなかろうか。逆に「チョコレート革命」もあったが、人為的で、表現として伝わってこないと思うのは、私だけだろうか。どうしてチョコレートなのか、たとえバレンタインデーまで持ち出していても、体感的には分からない。
与謝野晶子の和歌は、情熱なものもあれば、叙事的でそのまま絵になる傑作もある。一方では、チョコレート語訳だけでは、俵万智の真価を伝えきれない。ささやかな試みとして十数句選んで並べかえ、一つのラブストーリに見立てて読み聞かせてみた。若い学生たちの絶えない明るい笑いや意味深の頷きから、現代和歌のたしかな魅力を感じられる思いをした。
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