知っている人ぞ知っているという内容のことだが、いまや世の中ではiPadという小さな機械が結構一部の人々の心を掴んでいる。今週のはじめ、出張してきた友人が一部もたらしてくれて、おかげで地域での正式発売前から楽しいオモチャが手に入り、ここ数日、かなりの時間をつぎ込んだ。
振り返ってみれ ば、パソコンとは自分の中でなぜかものを作り出すための道具として使ってきた。それを使ってプログラムを作ったり、サイトを作成したり、はたまた文章を書いたりしてきた。そのため、知らず知らずに、パソコンをただ情報を汲み取るために受身的に使うことには、一種の後ろめたささえ感じた。そしてその分、道具を準備する、道具を揃えるという気持ちで、あれこれと弄ったり、比較したりして費やしたエネルギーは、数え切れない。
そこで、iPadが現われた。これはどうもパソコンでありながら、これまでのそれとはっきりと一線を画すようなものだ。これを用いて「ものづくり」をしようと思えば、まったく不可能でもなかろうが、はっきり言って実用にはほど遠い。一方では、これを受身的な道具と割り切って、それだけの用途に徹しようと思えば、断然ここちよい。ここまで特定の用途に特化したような道具は、まさにこれまでになくて、一つの革命でさえある。おかげでさっそくソファーに腰を沈めて、メモさえ取らずにただじっくり本を読むという時間が一日の中にできあがった。
たしかに巫鴻の著を日本語に訳した中野美代子が、長い「訳者解説」において、絵画の載体に目を配った著者の論に賛同し、同じ論をさっそく唐の「歴代名画記」に遡らせてみせた(『屏風のなかの壷中天』)。それに倣って言えば、目の前にはまさに一つの媒体進化の活劇があった。それがもたらした刺激のある経験をあらためて噛みしめる思いをした。
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