2009年8月29日土曜日

絵巻への視線

中原康富の絵巻鑑賞をめぐり、このブログで一度触れた(2008-01-09)。この夏、さらに声という角度からの思索を試み、康富の日記から着想を得た小論を纏めた。先の週末、ある小さな集まりに参加するために隣の都市にある大学を訪ね、研究の近況を交流するという場が持たれて、自分の持ち時間で論文の内容を報告した。あまり討議する時間がなかったが、それでも考えさせられる質問を一つ受けた。

きっと康富の体験があまりにも生き生きとしたものだったからだろう、その質問は、中世の読者として、絵巻に描かれたものをはたしてどのような感覚で読んでいたのだろうか、歴史なのか虚構なのか、というものだった。さっそく頭に浮かんできたのは、例の有名な「絵空事」(『古今著聞集』)だった。ただ、あれは絵師たちが交わした絵についての会話であって、読者への関心には必ずしも答えていない。

そこで康富が残した「後三年絵」の鑑賞記をいま一度読み返した。絵巻を見た記憶をそのまま千文字程度の長い文章を駆使して日記に書き記すということ自体、いろいろな意味で感嘆の対象になる。ここに康富の視線ということを考えるならば、およそつぎのことが言えるだろう。遠い昔に起こった出来事をめぐり、その詳細を知る手掛かりがあまりにも少なく、基本的な情報に飢えていた中、一巻の絵巻の鑑賞はとりもなおさず過ぎ去った歴史との再会という体験だった。ひた走りに走った康富の筆先には、かれが感じ取った知的な興奮と、後日のための情報の整理と索引作り的なものだった。さらに言えば、一つの情報源としての絵巻は、康富にとって文字の部分の役割が圧倒的に重みを持っていたものだった。その日の日記には、一箇所だけ絵の構図についてのわずか十数文字の詮索があって、中国の知識まで引き出しにして、康富の読書記の中でもむしろ特殊な部類に属するものだと言えよう。

いうまでもなく康富の鑑賞記は、絵巻享受のほんの一例に過ぎない。鑑賞や読書ほど個人的なものがなく、読者の数だけ異なる方法が形成されていたのではなかろうか。思えば近年の室町政権の研究の一環としての、権力の象徴としての絵巻の所有、作成などの発見が続き、さまざまな次元の違う模索が試みられている。一層豊富な読書、鑑賞の体験はこれからも次々と私たちの前に現われてくるのだろう。

集まりでの質問者ははたしてこのブログにも目を通すのだろうか。すこしでも答えになれることを内心祈りつつ。

2009年8月22日土曜日

寄せ集めの絵巻

今週、中国の地方新聞を賑わせた一つの小さなニュースがあった。「七君子図」というタイトルをもつ一巻の巻物が地方の美術館である蘇州博物館に所蔵され、報道関係に公開されたということである。

ここでは、君子とは竹のことであり、竹をもって聖人君子の清らかな性格を喩えることからこのような対応関係が生まれた。従って「七君子図」といういかにも文人風のタイトルをもつこの巻物の内容は、七枚の異なる竹の絵の寄せ集めである。巻物を仕立てたのは清の時代まで下るもののようだが、描かれた絵は、元の絵師のものだ。六人の絵師の七枚の作品が納められたこと、中の二人はこれ以外確認できる絵作が伝わっていないこと、現代に入ってからの所蔵者が台湾に渡ったこと、中国の国宝(「一級文物」)に指定されてずっと中央の美術館に保存されてきたことなど、人々の注目を集める要素はいくつもあわせ持つ。そこで、今度は中央に寄託されたものが地方に返されたという形での古美術品の所在が披露され、関連の報道にはいずれも「故郷に戻る」との言葉が踊る。

興味を感じるのは、ここに見られる絵と巻との二つの形態の融合、とりわけその意図と理由である。いわば巻物を作成するために絵を描くのではなく、すでにあった絵のもっとも理想的な保蔵手段としてそれを巻物に仕立てたのだった。一巻のものに纏められていても、共通のテーマをもつ複数の名作であり、鑑賞する人々もそのような気持ちでこの巻物に対面する。日本のものからあえて性格の近いものを求めようとするものなら、古書の手鑑的なものだろうか。中国の伝統における絵巻がもつ一つの見逃しがちな側面である。

ちなみに新聞記事などを見れば、この巻物のことを「画巻」ではなく「長巻」とした。どこまで意図的な使い分けか定かではないが、意味深長な言葉選びではある。

国宝「七君子図」永帰故里(『姑蘇晩報』より)

2009年8月15日土曜日

不具の文字

ニューヨーク・メトロポリタン美術館には、十数年前から寄贈された『孝経図』を所蔵している。北宋の絵師李公麟が描いたものだと伝えられる。このブログにて一度触れたが(2008年12月14日)、ひさしぶりに眺めなおした。今度は、宋の書の代表作として名高い李公麟の文字を見つめた。『孝経』の全文を書き写し、それぞれ対応する章段の絵の後ろに位置するような作りになっている。

右の写真は、第12章より切り取った。なんの気なしに眺めて、自分の目を疑った。どれも現在通用する文字とまったく違わず、書としてのスタイルも思わず真似したくなるようなりっぱなものだ。しかし、「敬」という文字は最後の一画を欠く。素晴らしい文字の中に置かれてそれが余計に目立ち、まるで畸形にして異様だ。しかも繰り返して現われているので、無心の手違いではなくて、明らかに意図的なものだった。

調べてみれば理由がすぐに分かった。李公麟が生活していた宋の時代、その最初の皇帝である宋太宗趙匡胤の父の名前は赵弘殷、祖父の名前は趙敬である。太宗の祖先への敬意を払うために、同じ文字を憚り、それをほかの文字に置き換えるという対応だった。ただしここでは儒学の経を書き写している。その文章を勝手に変えるわけにはいかないから、一歩下がって、文字を不完全な形で書きとめた。時代が下がり、宋の王朝が終わった後になって、この絵巻を模写した作品ではこの制約を受けることがなく、同じ文字が普通のように書くようになる。しかしながら皇帝や皇帝の先祖の名前を文章などで避けるというやり方は、廃れるどころか、日増しにルールが厳しくなり、それを間違えてしまうと、とても不注意などで片付けれられる問題ではなく、時には命を落とすような罪になるものだった。

『孝経』の第1章は、孝行の意味合いを明らかにすることを謳い、孝行とは自分の体を傷付けないことから始まり、先祖に名誉をもたらすことを終着とすると教える。考えてみれば、趙敬という人間は、梁の朝廷で微々たる官職に勤めただけで、大した功績を世に残したわけではない。だが、宋王朝を切り開いた孫を持っただけで、天下の文字を一人占めにしたのだった。親へ名誉をという教えの実行は、これに越したことがなかろう。

「貴人と同じものを用い、同じ名前を名乗ることは僭越だ。」「文字を不完全にしておけば、それでないものだと認識される。」以上のような礼儀や文字感覚は、今日の中国においては、まったく過ぎ去った時代のものとなり、人々の行動はもちろん、感覚や記憶からもほとんど完全に消え去った。それでも、古典を読んで一つの知識として思い出してみれば、やはり歴史の年輪を感じてやまない。

2009年8月8日土曜日

絵と文字の間

周りとの会話で、いつまで経っても記憶に残るものがある。つぎのはその中の一つである。教育を専門とする同僚が雑談で研究室にやってきて、壁に掛けられた書を指さして、「文字を壁に飾るなんて、東洋的なんだな」と洩らした。いささか俄然とした。

西洋的に見れば、文字と絵との間には越えられない境があって、意味を伝える役目を持つ文字は絵と違うものだとの認識なんだと、とりあえずそう理解した。ならば両者の融合を西洋の伝統から見出せないものかと、気になった。実際、それだけなら実例はいくらでも見つけ出せる。手っ取り早いのは、前回触れた「ケルズの書」だ。

八世紀に作成されたこのアイルランドの国宝(ケルズはアイルランドの東部にある町の地名)は、ラテン語で聖書を写した。今日に伝わる計340丁は、ベラム(皮紙)に記され、まさに文字と絵との競演による美しいものだ。ただし、その文字と絵との関わり方は、たとえば絵巻と比べればまったく異なる様相を呈する。写真はその中のほんの一つの抜き出しだ(309R)。「ヨハネによる福音書」を記すテキストの本文の中に、ところどころに文字が絵と変わり、大きく書かれた文字には、人間の顔、動物、草花などが描かれる。文字そのものの形は、「g」「b」など今日のとぜんぜん違わないからこそ、余計に親しみを感じさせられる。もともとこれは本文からのものだが、章のカバーページになれば、それこそ絵が主体となり、文字を骨組みとした豪華なものになり、文字を見出すのが一苦労なぐらいだ。

文字の領分に絵が入り込む。文字を読み進めながら、気楽に顔を出す絵を楽しむ。対して東洋となれば、このような作りは、きわめて遊び的なもの以外、採用されることが少ない。あえて言えば、絵に文字を併記するが、文字に絵を入り込ませるような余裕を持たせない。

文字と絵に注ぐ人々の視線、それにおける東洋と西洋との違いには厳然としたものがある。ただ、文字と絵との距離といえば、はたしてどちらのほうがより離れたものだと捉えられていたのだろうか。その答えは、どうやらそう簡単ではなさそうだ。

2009年8月1日土曜日

図書館という空間

八月に入り、室外の気温が室内を上回る夏らしい日が続いている。週末になって、だいぶ前に話題になった映画「天使と悪魔」を見た。話題作の小説は読み出してはいたが、なぜか期待したものと違い、途中で放り出した。その分、映画ではストーリーと関係なく、贅沢なぐらいの画面があって、それなりに楽しめた。

西洋の古典美に飾られた空間については、ほとんどなんの知識も持ち合わせず、古い年輪を伴う西洋の風景には、簡単に圧倒されてしまう。映画には、これでもかとさまざまな造りの教会、観光客で溢れる広場、修復中の殿堂、鎖で閉ざされる会議ホールを見せてくれて、新鮮なものばかりだった。中では、ストーリーの山場の一つには図書館の書庫(アーカイブ)があった。しかしながら、こちらのほうはなぜか日本のどこかの新しい私立大学の図書館の書庫に迷い込んだような感じだった。空気を入れない真空状態など、予期しなかった要素もあった。ただ、肝心のストーリーのほうと言えば、全知全能な主人公が、ラテン語かイタリア語か分からないが、調査資料を守衛の人に手当たり次第に訳させたり、密封の空間を本棚で破ろうと必死になったりと、トンチンカンなエピソードで構成されているのだから、どこまで信じてよいものやら。

ヨーロッパの図書館は、たくさん訪ねているわけではないが、それでもとりわけ強い印象を残したところがあった。アイルランドのダブリン大学トリニティー・カレッジ・オールドライブラリーである。十九世紀半ばに出来上がったもので、建物の外観は、むしろ平淡なものだ。しかしその中は、すごい。いまやダブリンの観光スポットにまでなっているが、入場料を払ってそこに所蔵されている「ケルズの書」を拝観する。八世紀に制作された聖書の手写本でアイルランドの国宝、さしずめ日本における「源氏物語絵巻」のようなものだ。その展示のオマケ的な感覚で、展示ホールから出て、階段を登って、通称ロング・ルームに入る。予備知識を持たないで入ってしまったら、間違いなく目を疑うような空間だ。なにせ二十万冊の古書を一堂に集まった場所だから、東洋的な感覚から言えば、まさにこの世のものとも思わないような、信じられない風景だ。もともと冷静に考えると、東洋の風土からすれば、建築の様式からにしてすでに制限があり、いくら書籍が山積みになっていても、それをそこまで一面に並べるような空間など、まずは存在しないのだから、驚くのは無理もない。

一方では、そのような西洋の伝統をだれもが誇りに思っているのだろうけど、英語圏で生活してみれば、普通の家にある狭い一室の書斎でも、家の主人は平気に「ライブラリー」と名乗る。一つの言葉に注ぐ人々の感覚、いま一つ掴めきれない。

The Long Room, Trinity College Library