2009年8月15日土曜日

不具の文字

ニューヨーク・メトロポリタン美術館には、十数年前から寄贈された『孝経図』を所蔵している。北宋の絵師李公麟が描いたものだと伝えられる。このブログにて一度触れたが(2008年12月14日)、ひさしぶりに眺めなおした。今度は、宋の書の代表作として名高い李公麟の文字を見つめた。『孝経』の全文を書き写し、それぞれ対応する章段の絵の後ろに位置するような作りになっている。

右の写真は、第12章より切り取った。なんの気なしに眺めて、自分の目を疑った。どれも現在通用する文字とまったく違わず、書としてのスタイルも思わず真似したくなるようなりっぱなものだ。しかし、「敬」という文字は最後の一画を欠く。素晴らしい文字の中に置かれてそれが余計に目立ち、まるで畸形にして異様だ。しかも繰り返して現われているので、無心の手違いではなくて、明らかに意図的なものだった。

調べてみれば理由がすぐに分かった。李公麟が生活していた宋の時代、その最初の皇帝である宋太宗趙匡胤の父の名前は赵弘殷、祖父の名前は趙敬である。太宗の祖先への敬意を払うために、同じ文字を憚り、それをほかの文字に置き換えるという対応だった。ただしここでは儒学の経を書き写している。その文章を勝手に変えるわけにはいかないから、一歩下がって、文字を不完全な形で書きとめた。時代が下がり、宋の王朝が終わった後になって、この絵巻を模写した作品ではこの制約を受けることがなく、同じ文字が普通のように書くようになる。しかしながら皇帝や皇帝の先祖の名前を文章などで避けるというやり方は、廃れるどころか、日増しにルールが厳しくなり、それを間違えてしまうと、とても不注意などで片付けれられる問題ではなく、時には命を落とすような罪になるものだった。

『孝経』の第1章は、孝行の意味合いを明らかにすることを謳い、孝行とは自分の体を傷付けないことから始まり、先祖に名誉をもたらすことを終着とすると教える。考えてみれば、趙敬という人間は、梁の朝廷で微々たる官職に勤めただけで、大した功績を世に残したわけではない。だが、宋王朝を切り開いた孫を持っただけで、天下の文字を一人占めにしたのだった。親へ名誉をという教えの実行は、これに越したことがなかろう。

「貴人と同じものを用い、同じ名前を名乗ることは僭越だ。」「文字を不完全にしておけば、それでないものだと認識される。」以上のような礼儀や文字感覚は、今日の中国においては、まったく過ぎ去った時代のものとなり、人々の行動はもちろん、感覚や記憶からもほとんど完全に消え去った。それでも、古典を読んで一つの知識として思い出してみれば、やはり歴史の年輪を感じてやまない。

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