周りとの会話で、いつまで経っても記憶に残るものがある。つぎのはその中の一つである。教育を専門とする同僚が雑談で研究室にやってきて、壁に掛けられた書を指さして、「文字を壁に飾るなんて、東洋的なんだな」と洩らした。いささか俄然とした。
西洋的に見れば、文字と絵との間には越えられない境があって、意味を伝える役目を持つ文字は絵と違うものだとの認識なんだと、とりあえずそう理解した。ならば両者の融合を西洋の伝統から見出せないものかと、気になった。実際、それだけなら実例はいくらでも見つけ出せる。手っ取り早いのは、前回触れた「ケルズの書」だ。
八世紀に作成されたこのアイルランドの国宝(ケルズはアイルランドの東部にある町の地名)は、ラテン語で聖書を写した。今日に伝わる計340丁は、ベラム(皮紙)に記され、まさに文字と絵との競演による美しいものだ。ただし、その文字と絵との関わり方は、たとえば絵巻と比べればまったく異なる様相を呈する。写真はその中のほんの一つの抜き出しだ(309R)。「ヨハネによる福音書」を記すテキストの本文の中に、ところどころに文字が絵と変わり、大きく書かれた文字には、人間の顔、動物、草花などが描かれる。文字そのものの形は、「g」「b」など今日のとぜんぜん違わないからこそ、余計に親しみを感じさせられる。もともとこれは本文からのものだが、章のカバーページになれば、それこそ絵が主体となり、文字を骨組みとした豪華なものになり、文字を見出すのが一苦労なぐらいだ。
文字の領分に絵が入り込む。文字を読み進めながら、気楽に顔を出す絵を楽しむ。対して東洋となれば、このような作りは、きわめて遊び的なもの以外、採用されることが少ない。あえて言えば、絵に文字を併記するが、文字に絵を入り込ませるような余裕を持たせない。
文字と絵に注ぐ人々の視線、それにおける東洋と西洋との違いには厳然としたものがある。ただ、文字と絵との距離といえば、はたしてどちらのほうがより離れたものだと捉えられていたのだろうか。その答えは、どうやらそう簡単ではなさそうだ。
2009年8月8日土曜日
絵と文字の間
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