2008年12月27日土曜日

「芸画」と「術画」

年末に差し掛かり、ひさしぶりに目的もなく漫然と読書する時間を持った。今度は中国古代の絵画にまつわるものに目を向けた。いわゆる「画論」というジャンルのもので、たとえば宋の時代に限定していても、優に十点を超えるものがあり、無心に読んでいて、実に楽しい。「画論」と名付けられるものだから、絵画についての論理的な叙述だと襟を正して取り掛かるべきものだが、しかしながら、読んでいて、なぜかもっぱら中国バージョンの説話と見えてならない。あえて言えば、日本の説話よりさらに文字数が少なくて、簡単なものだが、ストーリの輪郭を想像をもって補いながら、豊穣な世界である。

たとえば、あの有名な『図画見聞志』(郭若虚)から一つ取り上げてみよう。

その巻二は五代の画家九十一名の名前とそれぞれの事績を短く書きとどめた。中には、厲帰真という道士のこと、とりわけその「異人」ぶりがあった。酒飲みなどのことに続いて、絵の上手なことに触れる。それは、つぎのようなエピソードに結ばれる。住んでいるところが雀や鳩の糞などに汚され、鳥への退治を工夫せざるをえない。そこは絵師らしい対応が見事だ。雀や鳩の天敵である鷂(はいたか)を壁に描く。それだけで糞害がぴたりと止まった。言うまでもなく絵の出来栄えの並々ならぬことを物語るもので、いかにも中世的な驚異の視線が感じられて、微笑ましい。

そこまではよかったが、しかしながら、同じ『図画見聞志』を終わりまで読み進め、その巻六の最後の一話を目にするに当たり、思わず唖然とした。それのタイトルは、「術画」。やや長い段落となり、いくつかの逸話が採録されたが、その中の一つはこうである。ある評判の高い「術士」が皇帝のために鵲(かささぎ)を描けば、俄かにもろもろの鳥たちが賑やかに集まってきた。続いて黄筌という絵師に同じ鵲を描かせれば、鳥が一羽も飛んでこない。不思議になった皇帝が黄筌に問いただして、つぎのような答えが戻ってきた。「臣所画者芸画也、彼所画者術画也。」すなわち、自分とあの術士との区別は、「芸画」と「術画」の差にあり、しかも自分の芸画こそ、術を何倍も上回ると誇りを持って主張したのである。この答えには、皇帝が共感できただけではなく、同じく絵師たちのことを集め記した作者郭若虚も自ら従うと宣言した。したがって、作者がこの記録をつぎのように結んだ。絵師の出来栄えとして、描かれた人間が実際に壁を越えたり、美女が絵から出てきたり、水の中の色彩が現れたり、あるいは霧の向こうに竜が飛んでいくといった伝説は多いが、いずれも「方術怪誕」であり、その故、書き記さない、とか。

ここまで読んできて、さきの鷂のことが分かったと油断した矢先に、まさに不意を撃たれた。作者にとって、実は数々の突飛な逸話を、超自然だということで切り捨てたのだ。まるで近代の科学的な構えではなかろうか。しかも時が流れ、千年も近い後の現代において、術が濾過され、淘汰されて、消えてしまったせいだろうか、芸と術との対立も忘れられ、それどころか、それが「芸術」というあらなた造語として生まれてきたものだ。まさに不思議な世界である。

郭若虚『図画見聞志』

2008年12月20日土曜日

竹崎季長の上訴

前回の話題の続きを書いてみる。

同じ講義で取り上げる日本の絵巻は、『蒙古襲来絵詞』に決めた。長い作品なので、その全部ではなく、竹崎季長の鎌倉出訴の経緯を記す上巻の五、六、七段のみ取り出し、これを機会にこの絵巻の大作をじっくりと読みたい。

改めて記すまでもなく、『蒙古襲来絵詞』は、竹崎季長が企画し、作成させ、かれ自身を主人公に据えた一種の私的な記録である。十三世紀後半に起こった二回の蒙古来襲の合戦では、季長がそれぞれ二十八歳と三十五歳という年齢であり、絵巻の奥書の日付は、最初の合戦から十九年あとの、季長が四十七歳になる年である。

前回に書いた絵巻の特徴、すなわち絵と文字との成立関係上の距離ということから見れば、『蒙古襲来絵詞』はちょうどそれの反対に位置するものであり、そのような特徴を反論しようとするならば、まっさきに想起されるものである。この作品において、文字によって表された世界がさきに存在し、あるいは語られていたとしても、それが確実に文字の文章に集約されるようになったのは、おそらく絵の成立と同時になるのではなかろうかと思われる。そのような理由もあるのだろうか、絵巻の文章は、丁寧に構想され、洗練されたものではなく、むしろ記録者のいまだ醒めぬ興奮をそのまま伝えようとした、生々しい臨場感にあふれるものだった。

たとえば、必死の思いで鎌倉に出かけて、ようやく肥後の守護・安達泰盛との対面が適えられた季長と安達との会話が、その典型的な実例だろう。二人の会話は、詞書として八十行も超えた長い文章となり、その中では、それぞれのありのままの発言として、十回のやりとりが繰り広げられた。中には、安達のつぎのような質問があった。

「ぶんどりうちじにの候か」(敵を生け捕りにしたり、殺したりしたのか)
「候はではかせんのちうをいたし候ぬ。てんきずをかぶらせ給候とみえ候うへは、なんのふそくか候べき」(それがなければ、合戦でのあたりまえのことをしただけで、恩賞のこと、どうして不満があるのか。)

季長の一図で、前後構わない訴えに対して、鋭くて要領が得て、しかも戦場の武士の気持ちをしっかりと受け止めた会話は、心を訴えるものだった。

いまでこそ『蒙古襲来絵詞』は、過ぎ去った歴史をビジュアルに記録する貴重な資料になる。だが、絵巻の後書きによれば、これが作成された理由は、あくまでも甲佐明神の神恩への感謝だった。そこでつぎのような素朴な質問がどうしても頭を過ぎる。そもそも絵巻というスタイルがここに用いられる必然性がはたしてあったのだろうか。竹崎季長と豪華な絵巻との繋げたのは、いったい何だったのだろうか。さらに言えば、専門の人の手に掛からなければとても作れない、いったん出来たものは簡単に複製できないというメディアの性格がどこまで働いたのだろうか。文字の、そして絵の饒舌さとともに、いつでも考えを誘ってくれる。

2008年12月13日土曜日

孝経・孝経図

十二月の最初の週をもって今学期の講義が終了し、先週の一週間のほとんどの時間は、来学期の講義資料の用意に費やした。一月からは、三年ぶりに「英語で読む中国と日本の古典」を担当する。中国語と日本語の三年生の学生たち約30名を一つの教室に集めての、やや変則なクラスであるが、毎回、違う作品を選んで、学生たちといっしょに読む。作品の選定はようやく終わった(Chinese/Japanese 461, 2009)。英語での翻訳や研究がある程度行われているということが必須条件の一つだったので、今度は、中国の絵巻一点、『孝経図』を選んだ。

『孝経図』は、北宋の宮廷画家李公麟(1041-1106)の作だとされている。いまはニューヨーク・メトロポリタン美術館に所蔵され、中国の古代絵画を代表する至宝の一つである。『孝経図』が描いたのは、いわゆる二十四孝といった孝子説話ではなく、それよりもさらに根源なものとしての『孝経』である。『孝経』の十八の章をそれぞれ一図にし、文章と絵が交互にセットになる。現存は十五図、うち二図が入れ違いの錯簡だと指摘されている。

絵巻の特徴を並べあげるとき、つねに触れられるのは、絵巻の作品、すなわち絵に描くという活動それ自身と、描かれる内容との相互関係だ。言い換えれば、絵巻の作品の多くは、それまですでに存在していたストーリあるいは文献資料を取り上げ、読者たちがすでに熟知しているということを前提にして作品の構築が始まり、絵の参加によって一つの新たな達成が得られるということである。多くの場合、文献資料の存在と絵による作品の成立までには、百年も超えた時間的な経過があり、絵巻の読者たちには、それまでの古典がビジュアルになって現われたということになる。これを絵巻作品の特色の一つだとすれば、『孝経図』は、まさにその極端な作品となる。描かれる対象は、絵巻の成立までには、はるか千三百年以上前のものであり、しかも「経」として、その時代の政治、文学、社会生活の規範になったものだった。文字と絵との距離となれば、気が遠くなるようなものだとしか言いようがない。

メトロポリタン美術館のサイトには、この『孝経図』をめぐる簡潔にして丁寧な解説が載せてある。その中では、絵師李公麟は、かれの時代に一つの革命をもたらしたとして、詩、書、音楽などに並んで、絵を自己表現の方法とたらしめたと述べる。いかにも宋の時代の文人たちの考えを伝えている。一方では、時間にして約千年が経ち、人間の能力としては絵の模写でさえ思うとおりにできない平均的な現代の読者として、今日のわれわれは、絵からどれだけのことを読み取れるのだろうか。

これをじっさいに教室で取り上げるのは、来年の三月後半になる。若い学生たちはどのように取り掛かってくれるのだろうか、いまからワクワクしている。

Classic of Filial Piety (The Metropolitan Museum of Art)

2008年12月6日土曜日

パピルス(papyrus)

前回取り上げた獅子博奕の絵は、パピルスに描かれたものだった。その「パピルス」とは、植物の名であり、そしてそれを用いて作られた古代エジプトの記録媒体のことであった。膨大な数に及ぶエジプトの古文書は、このパピルスに記されて今日に伝わり、無限に思われる時空を超えて遠く失われた文明をわれわれに語り続けている。

ここに、さほど言語の知識がなくてもすぐ気づくことだが、パピルス(papyrus)とは、ほかでもなくペーパー(paper)、すなわち「紙」その言葉だ。古代中国文明の代表格のものである紙は、このパピルスと比べれば、言うまでもなく遥か年輪の新しいもので、記録媒体としては、遠い後輩にあたる。これをめぐり、日本語版のウィキペディアは一つ非常に味わいのある説明を施してある。曰く、「中国で発明された紙を基準に」考えれば、パピルスとは「正確には紙ではない」。言い換えれば、紙というものは、ペーパーとは本質的には異なるが、八世紀前後に西洋に伝えられてからは、やがてペーパーという名前を乗っ取り、ついにはパピルスそのものを廃れさせ、それに勝るものとして西洋の文明に溶け込み、貢献するようになった。

このようにして言葉を対象に取り上げると、中国語の「紙」そのものについて自然に考えが及ぶ。漢和辞書などを調べれば、すぐつぎのようなことが教わる。紙とは、材料(製法)にかかわる糸と、音を表す「氏」からなる。「氏」とは「匙」の象形であり、薄く平らなものを表す。その通りだろう。一方では、この「氏」の音からは、どうしても「祇」を思い出す。『詩経』など古代の文献にすでに用例があったように、「ただ」「単に」など、限定する意味合いを含むのだ。やや突飛な言い方かもしれないが、古代中国語の語彙群の中において、「氏」によって示された言葉の位相は、たとえば日本語における「カミ(上、神、髪)」とは、大いに違う。紙とは、古代日本における外来の、貴重な物品であるものに対して、中国の伝統において、書写の媒体の王座に登りつめるまでには、あまりにも長い道のりがあった。亀甲、竹簡、絹、そういったものの名前を想起するだけで十分だろう。そのような歴史の中において、紙という新出のものが、記録媒体としての確実な地位を獲得ためには、きっと想像を超えた曲折があったに違いなかった。

「紙」という人間の発明を出発点に考えれば、一つの文明の縮図が見えてくる。簡単に破られてしまいそうな、ひ弱な物質だが、それが「神」と同音(同等?)のものに祭られ、それまで千年を単位に存在していたものを最終的に取り替え、言葉の中味まで入れ替えさせたということは、ほかでもなく一つの優れた技術のなせ業ではなかろうか。

友人の家の居間には、エジプトの旅行からのお土産である複製パピルスの絵が飾られている。観光用のものらしく、家族一人ひとりの名前などを古代エジプトの絵文字で書き表している。古代文明へのあこがれと、かつてそのような文明をもった人々の誇りを象徴的に伝える心温まる風景だ。