2022年8月6日土曜日

故人を偲ぶ

朝起きて、北京大学厳紹璗先生の訃報が目に飛び込んできた。日付は6日、時差の関係で同じ日にニュースが地球を駆け回り、伝わったという結果になる。さっそく古い写真を一枚選び、SNSに貼り付けた

写真が撮られたのは、1985年1月、ちょうど修士論文を書くために苦闘していた時期だった。あのころ、テーマをどう選び、アプローチを如何にするかで、真剣に苦労していた。まさに学問の仕方をその基礎から学ぼうとしていた。その中で出会った厳先生は、まさに颯爽として古典の中を自由自在に往来していた。時代、ジャンルなどの拘りなどをまったく気にせず、とにかく中国との関連という一点で斬新な成果をつぎつぎと世に送り出した。まるで眩いような存在だった。同じ京都に、古典に志す中国人の先輩がいる、しかも研究をものにしているということだけで、なぜか大きく励まされた思いだった。

書誌学、比較文学の大家として、厳先生の中国や日本での華やかな業績などは、枚挙に暇ない。一方では、いまから思えば、研究などでじっさいに交わることはなく、研究会などに同席することすら一度もなかったようだ。ただ、共通の親しい友人が多く、おかげで懇親会などのような場で時間を共にすることは妙に多かった。もともと日本や中国に滞在する機会の少ないことにあわせて考えれば、不思議なぐらいだった。いうまでもなく、そこから習った多くのことは、貴重で忘れがたい。

厳先生のご冥福をお祈りする。

2022年7月30日土曜日

音を考える

昨日、四冊の研究書が届いた。いずれも自分の研究分野と違うもので、分かる自信がないまま手に取り、ページを開いた。これだけの発見や思索を凝縮した書物、一通り目を通すことさえ気力の要るものだ。

最初の一冊は、音がテーマだ。かつて「声」関連の論考を集中的に読み漁った時期があり、ずっと関心を持っていた。編者は細川周平氏、『音と耳から考える』(アルテスパブリッシング、2021年)。じつに600頁以上の大著で、10部構成となっている。音というテーマには、こうも多様なアプローチがなされたものだと、目録を眺めて、気づかされることばかりだった。「戦前時昭和の音響メディア」、「音が作る共同体」、「ステレオの時代」、「物語世界論への挑戦」、などなど。「音響テクノロジーの考古学」では、音を記録する装置の発明、利用や普及の流れから、科学技術の発明、とりわけその失敗や進歩を振り返り、広い意味での人間の知恵を認識させた。「デジタル・ミュージッキング」に収めた一篇は、ライブ・コーディングという、プログラミングをパフォーマンスとする実践が紹介され、プログラミングをするアーティストと、コードを対象とするオーディエンスの存在は、まったく知らない世界だった。さきの文脈でいうと、新たな技術とは、存続するかどうかだけをもってその成敗を図り切れないことを一つの具体的な側面を通じて示された。

すでに十年も前のことだが、編者には一度自宅にまで招待された。しかもその翌日、その颯爽とした姿を祇園の山鉾をひっぱる行列の中に探し出し、盛んに鳴り続く祇園囃子の音とともに深く記憶に残ったのだった。(「祇園祭を観る」)

2022年7月23日土曜日

駅の姿

真夏に入り、今日からちょっとした小旅行に出かける。いつものように出発までにあれこれと調べものをする。今度の旅先は、鉄道と関連がある。漫然とクリックしているうちに、右の一枚が目に飛び込んできた。

『頭書増補訓蒙図彙大成』巻三「居処」に入ったものである。ここに描かれたのは、二つの風景。後ろに建つのは「護摩堂」、前に連なるのは「駅」。書き込まれた文字は、「駅、むまやど」、上段に書き込まれた説明は、さらに「駅は道中のはたごや馬つぎをいふ。駅館とも又駅舎とも駅伝ともいふ」と読む。「駅」という存在をあわせて六つの言葉を連ねた。

道路を行き交う人々は、「護摩堂」よりも後者の「駅」にかかわる風景なのだ。駅を彩るさまざまな人間を眺めると、飼料に食いつく馬や、荷下ろしをする宿の男、馬との長旅から解放されて座って一服する旅人を中心に、旅を急ぐ男はさらに三人描きこまれている。笠や頸から肩にかける袋が目を引く。一方では、三人も描きこまれた女性たちのことは、どうだろうか。それぞれの宿から送り出されて、客を引き止めるように務めているに違いない。すぐに思いつく言葉は、「飯もり」なのだ。

それにしても、訓蒙の図は興味深い。物を分解して標本のように示すものだとばかり思っていたら、こういう生き生きとした構図もあるものだ。一枚の絵に向かって、さまざまな言葉を用いて説明することができる。考えてみれば、それだからこそ、勉強のツールとしても最高だと言えるのではなかろうか。

2022年7月17日日曜日

岩崎文庫解題

数日まえ、東洋文庫から恵送してくださった貴重な資料が届いた。『岩崎文庫貴重書書誌解題』、そのVIII、IX、X。今度も、春先の郵便の滞りからの影響をもろに受けて、投函の日付を見ると、三か月半もさきのことだった。

まっさきに開いたのは、「東洋文庫絵本コレクション」と副題がついたVIIIだった。絵のある文献だけで473頁もの解題になるのだと、意外な気持ちを覚えた。だが、カタログのつもりで取り掛かったら、嬉しい誤解だった。期待をはるかに超えて、カラーや白黒の写真による対象作品のハイライトや詳細な書誌解題に加えて、『いは屋』、『いはや』などの十九の作について丁寧な翻刻まで施されたのだった。考えてみれば、関連の研究者がこの一冊までたどり着くには、ちょっとした工夫が必要となるだろう。それはさておくとして、じつに良心的で、上質な研究成果なのだ。

これに引かれて、あらためて東洋文庫の公式サイトを覗いた。同サイトの構成の重要な一部には、「東洋文庫リポジトリ」があって、直前年度の『東洋学報』を含め、かなりの研究成果が公開されている。ただ、すでに十と数えるこの解題シリーズのデジタル公開は、つい見つかっていない。

2022年7月9日土曜日

川沿いのギャラリー

さほど遠くない山の中には、観光地バンフがある。距離は120キロ、運転して一時間ちょっとだ。温泉まであって、息抜きのお出かけには持ってこいの行先だ。先日、ふらっと立ち寄ったら、川沿いの散歩路はいつの間にか野外ギャラリーと変わった。

並べられた作品は、三、四十点だろうか。歩きながらそれらを眺め、カメラを向けた。地元の人々の粋なおもてなしなのだ。作品の規模はさまざま、材料も木、ガラス、鉄とあり、ただ単に木の板に素朴な絵を描いたものも少なくなかった。全体的には手作り感十分、どちらかと言えば学生の習作といった感じだった。文字の説明を読んでみても、凝ったタイトルが付けられるわけでもなく、作者の名前や作品の意図を伝えるような統一したスタイルさえない。代わりに、自然を愛でるような有名人のフレーズだけをプリントして木々の間に多数置いた。いかにもカナダらしい、肩を凝らない自由自在で、表現を楽しむような展示なのだ。

インスタに数枚の写真を載せた。興味あればどうぞあわせて眺めてください。

2022年7月2日土曜日

大惣本デジタル公開

今週伝わってきたニュースの一つには、京都大学貴重資料デジタルアーカイブが同図書館所蔵の大惣本の一部をデジタル公開したというのがある。公開したのは417タイトル、全所蔵の3667部のわずか一割強にすぎないが、纏まりのある公開は、やはりインパクトがある。

公開の方法は、IIIFに基づき、安心してアクセスできる。一方では、中身や分量に対して、いまだ検索などの対応が十分に整っていない。デジタル制作について、「国文学研究資料館が実施する「日本語の歴史的典籍の国際共同研究ネットワーク構築計画」(略称:歴史的典籍NW事業)に拠点大学として参加して実施し」た結果だと明示し、個々の書誌データも「日本古典籍総合目録データベース(国文学研究資料館作成)による」と記すが、これに対して、新日本古典籍総合データベースの方から今度公開のタイトルを検索すると、大惣本との記述があるが、画像へのリンクがまだ用意されていない。現時点では、デジタル公開されている『京都大学蔵大学蔵目録』(三冊)を頼りに、同デジタルアーカイブの検索機能で狙いのタイトルにたどり着くか、18に及ぶ「書誌一覧」の画面を順に眺めるほかはない。

思えば、「大惣本」という言葉は、たしかに「貸本屋」と同時に覚えたものだった。大学院生のころ、近世を専門とする同級生が興奮した口ぶりでこれを説明し、目録作成に参加するように熱心に誘ってくれたのだった。ただ、新しい分野の勉強を始める余裕がとてもなくて、羨ましい目で作業に取り組む姿を側から眺めていた。あれから四十年近くも時間が経った。いまは世界のどこにいても同じ書物を開くことができるようになったと、感無量だ。

2022年6月25日土曜日

文字絵とは

先週とりあげた北斎の「在原業平」の続きとして、noteで同じ北斎の六歌仙シリーズから「僧正遍昭」を解読してみた。(「文字絵「へんぜうそう正」」)このように「文字絵」に惹きつけられる中、江戸の人が残した文字絵についての定義に接して、なるほどという思いだった。

国立国会図書館のサイトには、「本の万華鏡」というシリーズの一篇として「へのへのもじえーー文字で絵を描くーー」がある。そこに記された「遊びの文字絵」において、『嬉遊笑覧』(巻三書画)が述べるところの「文字絵」を紹介している。つぎの文章である。(原文のリンク

「宝暦ころ、童の習いの草子に文字絵とて、武者などの形を文字にてかき、頭と手足をば絵にてかきそへたるものあり。

狙うところの人物などの形を文字で描き、文字だけで十分に表現できないところは絵をもって書き出す、まさに文字絵と呼ばれるユニークなジャンルの作品の作り方である。半年ほど前にとりあげた十返舎一九による『文字の知画』にみる犬という、仮名文字のみで流麗に犬を表わした秀作でさえ、目を表わす点睛の工夫が施されている。(「江戸の犬は怒りっぽい」)

上記の記述をさらに読み直せば、文字絵が登場するのは、「習いの草子」だとされているところが目に止まる。だが、すくなくとも目の前にある北斎の六歌仙は、そのような範疇から大きくはみ出したのだ。なにはともあれ、大人でも真剣に挑戦しないと簡単に読めるものではない。これもあわせて覚えておきたい。

2022年6月18日土曜日

北斎の文字絵

北斎には、六歌仙を題材にした文字絵の浮世絵六枚組がある。複数の所蔵がデジタル公開され、色合いの異なる作品などもあって、見比べて楽しい。その中の「喜撰法師」を解読し(「文字絵「きせんほうし」」)、共感のコメントが寄せられ、嬉しかった。

そこで、ここにさらに一題。大英博物館蔵の「在原業平」。見詰めていて、何回も諦めようとした。まずはどうぞ挑戦してみてください。

ようやく答えが見えてきて、おもわず膝を叩いた。こういうやりかたもあったのか。仮名とばかり睨んだら、漢字、それも崩された形のそれを紛れ込ませたとは、一種の変則だと言わなければならない。ちなみに使われた字形は、上段に書き込まれた文字と同じものだ。絵師の得意そうな顔が絵越しに見た思いだ。この手の絵を眺める醍醐味なのだろうか。

答えをGIF画像に纏めて、ここに置いておく。


2022年6月11日土曜日

長恨歌

新刊『源氏物語と長恨歌』を著者からいただいた。郵送にはじつに三か月半もかかり、これまでにはなかったことである。ずっしりと重い一冊がようやく無事に届き、さっそく開き、読み耽った。

物語の頂点をなす『源氏物語』。これに対して、著者一流の鮮やかなアプローチがいたるところに施され、読ませてくれる力作である。随所にメモを取りたくなる豊富な資料、共感を呼ぶ丁寧な読解、明晰にして説得力ある真摯な解説、教わることは多かった。物語の出典論から始まり、それが物語が古典となる由縁を解き、物語論全般に及ぶ。奥深平安文学の真髄を覗きみることを手引きしてくれた。

著者が語ったところの、はっとさせられる記述をいくつか掲げておきたい。「平安朝において、『長恨歌』は物語であった。絵が添えられ、和歌が読み加えられ、様々の解釈が与えられ、語られた。」(34頁)「『源氏物語』の『長恨歌』への愛着とは、その深層においては、羽衣説話への愛着であった。」(148頁)「男の物語から、女の物語へ。それは、人類文学史上の、一大転回であった。」(261頁)「『源氏物語』が「ロマンティック」ではないとは言わない。しかし、『源氏物語』は、それらを越えて、「現実の生身の人間そのもの」を描くことを志したのである。」(284頁)そして、「「夢の浮橋」の途絶えとともに、『源氏物語』も、途絶えて終わる。」(331頁)

個人的な思い出を一つ添えておこう。触れられた和歌には、「碧落不見」(『道済集』)と題する一首があった。いうまでもなく、あの「上窮碧落下黄泉、两処茫皆不見」を対象としたものだ。遠い学生時代、この一句を筆で書き出し、二段ベッドの壁というわずかな自分一人の空間に飾った。それがなぜか父の目に入り、止めるべきだと言われた。その理由は、その場で聞かなくて、いまだ分からないでいる。ただあの瞬間だけは鮮明に記憶に残っている。

2022年6月4日土曜日

ページから飛び出す

黄表紙の作品を何気なく眺めていたら、絵の構想の楽しいことにたえず唸らされる。ここにそのような一枚。『奇妙頂礼胎錫杖(きみょうちょうらいこだねのしゃくじょう)』、作者はあの十返舎一九、刊行は寛政七年(1795)。一九が黄表紙の作成に取り掛かる最初の年であり、この一年のうちに三作を世に送り、これがその中の一つである。

絵のタイトルは、「三千世界槩之図(さんぜんせかいおほむねのづ)」。見ていてすぐ気づくことだが、一枚の図は複数のパーツに分かれ、それらを切り抜き、立体的に「三千世界」を組み立てるものである。それぞれのパーツには、糊をつける空白が慎重に用意され、そして文字の説明が添えられる。それには、「てんぢくの人」、「からの人」、「からの女」、「日本の人」、「日本のやね」などと、分かりやすい。組み立てられたものには、驚くような世界観も、目新しいビジュアルな表現も特別に込められたわけではないが、それでも二次元の表現から三次元の空間を想像させる工夫は、魅力的だと言わなければならない。

木版印刷によって仕上げた薄い紙の書物から、そのまま見るに耐えうる作品が作れるとはとても思えなくて、無理が多い。ただ、それでも読者にはまったく違うような刺激を与えている。このようなアプローチがいまや学習雑誌や児童読み物の付録などで頻繁に見かけられることとあわせて考えれば、二百年前の出版人の工夫に感嘆せざるをえない。

2022年5月28日土曜日

他大学の蔵書利用

とても読みたい図書六冊、まとめて手元に届いた。勤務校の図書館が提供しているサービスを利用して叶えたものだ。いわゆる「インターライブラリローン」、「図書館同士貸し出し」ぐらいの呼び名だが、大学間図書相互利用というもので、日本の大学や研究機関もかなり広く用いられているシステムである。

今度の依頼は、かなり素早く完成された。日本関連の図書を多くもつトロント大学図書館の蔵書システムで調べて、所定フォームに、図書の具体的な情報を記入する代わりにその所蔵のリンクのみを貼り付ければ依頼の手続きが完了した。あとは到着を待つのみである。依頼をしたのは今月の8日だった。担当者はそのリンクを頼りに図書の情報を特定し、利用する図書館をしかるべき基準で選定する。図書が大学図書館に到着したとの連絡を受けたのは24日、受け取って、付随の書類を読めば、来月の21日までに返却とのことが記されている。貸し出しの手続きが行われたのはきっと今月の21日で、一か月利用できるという決まりになっているらしい。

図書の所蔵を確認すると、トロント大学だった。30数年まえ、一年ほど滞在した。あのころ、図書館はずいぶんと使っていた。その後も度々訪れ、機会あると、時間を噛みしめるように本棚の間を歩きまわった。あんなに気軽に利用することはとてもできないでいるが、それでもこのようにアクセスできて、なんとも嬉しい。

2022年5月21日土曜日

Slidesはお勧め

世の中は、ZOOMが流行ってからもはや三年近くなった。これを毎日数時間も使っている人も大勢いると思う。自分はその中には入らず、そのため最近になって気づいたことも少なくない。備忘に記しておこう。

プレゼントをするには、これまでPPTを使ってきたのだが、ZOOMにはGoogle Slidesのほうが使いやすい。その理由は、おもにつぎの二点があげられる。

シャアスクリーンをもって用意した内容を映し出す。それで、使っているモニターが横長のもの、とりわけスタンダードな16:9のサイズよりはみ出す場合、PPTのスライドショーをすれば、ZOOMはそれをすべて対象とするので、見る側では両方黒の帯に挟まれた形となり、伝えたい部分は真ん中の小さな部分を占めるに止まる。これに対して、Slidesでは、SlideshowとFullscreenという二つの方法が用意され、後者を利用する場合、開けたブラウザのサイズを調整すれば、見せたい部分を有効に伝えることができる。

スライドを見せながら、どれかのインターネットサイトを開きたい時はよくある。その場合、PPTとブラウザとは違うソフトなので、切り替えをしなければならない。これに対して、Slideでサイトを開いたら、同じブラウザの新しいタブなので、ソフトを切り替える必要はなく、実際に使うとほとんどストレスを感じない。

一方では、スライドを作成するには、やはりPPTのほうがは素早くて便利だ。いまは、そのように作成したPPTをGoogle Driveにアップロードして、そこでSlideに変換する方法を使っている。よっぽど凝ったことをしなければ、期待した結果がスムーズに得られる。

2022年5月14日土曜日

動画サイト番外編

数日まえ、朗読動画『徒然草』のサイトに番外編を付け加えた。題して「四コマ漫画と現代語で読む七つの物語」。朗読動画の中から七つの章段を取り上げ、新しい試みを提示してみた。

追加内容のメインは、四コマ漫画だ。これまでGIF動画の形を借りていたが、あらためて紙媒体に用いられるスタイルを用いた。利用した画像は、同じく朗読動画に用いた『なぐさみ草』か『つれつれ艸繪抄』。これにあわせて、努めて読みやすい日本語で物語の内容を書き直し、さらに授業や独学などの場を想定して、読解の質問を用意した。最後に『徒然草』の原文、そして朗読動画へのリンクを添えた。いわば日本語学習者の上級生を対象にささやかな読解の資料を作成したものである。

昨日、ゲスト講義を頼まれ、「古典を楽しむ四つの物語」とテーマを決めて英語で一時間ほどZOOMのカメラに向かった。聴講に集まったのは、大学の春期特別コースの受講生と日本からの熱心な学生たちだった。「劇画・絵師草紙」サイトを話題に取り入れたので、質疑の一つに四コマ漫画への関心が語られ、このようなアプローチはまさにそれへの最適な答えだったと有意義に思った。

2022年5月7日土曜日

塩秀才

此奴和日本(こいつわにっぽん)』という黄表紙の作品がある。物語の主人公は、中国で暮らす塩商という大家の息子塩秀才だ。海の向こうの中国では、海に囲まれた日本と違って、塩がとても貴重なものだと、なかなかもっともらしい設定をして楽しい話を展開した。

その中の圧巻は、右にあげたこの一枚にほかならない。塩秀才は、中国のことに関心がなくて、とにもかくにもすべて日本が最高だと決めつける。テキストには「書籍は明州の地へ頼置て日本記、今川万葉集、源氏平家の物語、新渡の絵草子、顔見世評判記まで封の切らぬを取りよせる」と記し、部屋の真ん中に鎮座するのは、そのような書物を入れた人の背丈よりも高い書籍箱、机に飾ったのは「天の浮橋の鶺鴒の羽根」、「瀬戸物の水入れ」、そして絵のことまで登場し、「壺屋」、土佐の「大津絵」と、「唐絵とちがってまた和絵は特別なものだ」と絶賛される。憧れの唐ものに正面から向こうを張る日本のさまざまな伝統や流行がここまで言葉を惜しまずに持ち上げられて、読む者は思わずウキウキする気持ちになった。

この一冊が刊行されたのは、天明四年(1784)だった。いうまでもなく黄表紙一流の思いっきりの空想を売り物にしたものだった。しかしながら、250年も経った今日になれば、予備知識を持たないでこれを読めば、あるははその笑いどころがすっかり分からなくなったかもしれない。この場面に登場した古典や品物をいまふうのマンガ、アニメ、ゲームに置き換えたら、この状況を地で行く中国の人間が大勢存在する。中国語では、「哈日」という表現まで生まれ、これをもって誇りにしたり、冷たい視線を浴びたりしている。もしこの状況を知っていれば、作者の四方山人はきっと塩秀才の物語を作れないに違いない。

2022年4月30日土曜日

詞書集30作

今週、「絵巻詞書集」を更新した。新たに『源氏物語絵巻』(国宝)、『東征伝絵巻』など15のタイトルを加え、あわせて30作となった。「日本絵巻大成」の翻刻を主に参照し、カメラでの写真、プリンターでのスキャン、GoogleのOCRなどあれこれと補助の方法を駆使し、集中的に時間をかけて完成し、インターネットにアップロードした。

絵巻の一巻はたいてい五つから七つの段から構成される。段ごとに一つのHTMLファイルに仕立て、ファイル数はあわせて132。一段の文字は、多くの場合50行前後、極端に短いものもあれば、『東征伝絵巻』の250行、ひいては『源氏物語絵巻』の800行など突出した場合もある。読み下しを添えたので分量はその倍となり、今度の更新した分は、約4500行と数えられる。

この特設サイトは、勤務校が提供している個人サイトのスペースを利用した。きわめて基本的なものしか用意されていないため、いま風の、いろいろなレイアウトのテンプレートにアクセスできず、すべてゼロからデザインしなければならない。その中で、縦書きを実現できたことは、いささかの自慢なのだ。詞書はやはり縦書きで読むに限る。ほぼすべての閲覧環境に対応しているはずだ。頼りにしたのは、JAVAでの定義ファイル。おかげでHTMLファイルはとても単純な内容に纏めることができた。じつは今度の更新にかかわるすべての作業は、テキストエディタを使って作成したのだ。

詞書だけを対象にした電子テキストのリソースは、いまのところ確認できていない。詞書内容の閲覧、書き物をする場合の引用など、すくなくとも自分個人は便利だと感じている。はたして同じような形で利用する人がいるのだろうか。このような作業は、いくら丁寧にやっているつもりでも、単純なエラーなどは防ぎきれない。これまでの15作について、親切な指摘を数回受けて、その都度訂正した。こんどもそのような熱心な利用者が現われるようにひそかに願っている。

絵巻詞書集(30作)

2022年4月23日土曜日

断簡

今週披いた絵巻は、『狭衣物語絵巻』。手元で読むのは、「日本の絵巻」18に収録されるものである。一方では、東京国立博物館所蔵のこの一点は、「e国宝」でデジタル公開され、画面を眺めるには、印刷されたカラー写真より遥かに高画質で細部まで鑑賞、閲覧ができる。

この作品は、五枚の断簡しか伝わっていない。五枚とも画像が中心で、その中で、建物がテーマで、物語性がきわめて薄い一枚にのみ、数えて十行の文字が添えられている。ただ、「日本の絵巻」の解説によれば、画像の裏にその経緯が記された。江戸後期の住吉派の画家板橋貫雄が、伝二条為氏筆の「源氏物語・澪標」断簡の一葉を選び、ここに貼り付けたのだった。絵には文字、そのような絵巻の体裁に基づき、大昔から伝来した美術の宝物に、鑑賞のための手がかりを提供しようとしたものなのだ。一つの画像の断簡に対して、文字の断簡が新しい命を吹き込み、江戸の文人ならではの、絵巻享受の一端が覗かれた。

思えば、このタイトルは、これまで何回となく読み返した。特設ページ「古典画像にみる生活百景」において、貴族たちのユニークな行動を取り上げ(「目撃」)、「第38回国際日本文学研究集会」での発表(「絵巻にみる男と女の間」)は、直接に引用する余裕がなかったが、男女の構図を議論した。記録を確かめると、後者の場合はすでに十年も近くまえのことだと気づき、自分ながら驚いた。

2022年4月16日土曜日

三つのつづき

今週披いた絵巻は、『信貴山縁起絵巻』。その第二巻、「延喜加持の巻」の詞書を眺めた。はじめて気づくことがいくつもあった。

出だしは、俵を鉢に載せて飛ばせたところを記した。その二行目からの三行において、「つづき」という言葉はじつに三回も現われた。無数の米俵は、「雁などの続きたるやうに」「続き立ち」、「群雀などのやうに続きて」飛び去った。三つとも「津ゝき」と書き、書き方も字の大きさもほとんどまったく同じだ。あえて言えば、「き」の字の縦線が、右下へまっすぐ伸ばす二つに対して、三つ目の場合は、縦線が沈みぎみに波打つ状態になったと見える。ここまで同じ言葉を登場させたら、文章としてどうしても素っ気ない印象だ。もともとその目で読めば、空飛ぶ雁が「続く」にぴったりだとしても、雀となれば一斉に飛び立つもので、両者のイメージにはかなりの隔たりがある。降りてくる俵の群れは絵にも描かれたのだが、はたして「雁」と「雀」のどちらにより近いものだろうか。

このようになんとなく思い返しているうちに、この絵巻をめぐる新聞記事が目に飛び込んできた(「国宝「信貴山縁起絵巻」第1巻公開中」)。国宝として博物館に寄託されているが、それが毎年に一巻だけ所有元の信貴山朝護孫子寺で展示され、そして寅年だけ一年のうちに三巻とも展示されることになっているもようだ。近くにいたら訪ねてみたいものだ。

2022年4月9日土曜日

鑑真和上将来の書

絵巻『東征伝絵巻』を披いた。あの鑑真和上の事績を記したものである。日本語を習った学生時代から、日本と中国との友好の象徴として鑑真の名前をまっさきに覚えたのだが、絵巻の存在を知ったのはたしか長い学生生活が終わったあとだった。仏法を伝えるためにあれだけの苦難を経験し、そしてりっぱに思いを叶えた経緯は、いつ読んでも感動するばかりだ。

あらためて詞書を読むと、その中の短い一行が目に止まった。遣唐使の船に乗り込み、やっとのことで渡航が実現できたところを記す巻四第六段である。成功した結果が分かっただけに、船に持ち込んだ数々の品物の名前が載せられた。それは「如来の肉舎利三千粒」、「華厳経八十巻」といった、今日の目からしても豪華なものだった。それらのすべてが律宗を広めるための書籍や品物だと思ったら、最後の一点として、「王右軍が真跡の行書一帖」があった。あの書聖だと敬われる王羲之(303-361)の書、しかもわずかな文字にも関わらず、それが模写などではなくて真蹟、多くの書体による作品の中でも行書、大事に仕立てられた形を取っていると、豊富な情報が伝えられた。鑑真和上にとって、約四百年まえから伝わった一点の書とははたしてなにを意味していたのだろうか。一人の宗教人としての、決死の覚悟での伝教活動における書への憧憬をどう読み取るべきだろうか、いろいろと思いを巡らさざるをえない。

写真は同じく巻四第六段の前半である。この絵巻は、すでに七年まえにも全巻デジタル化されている。ただ、いま調べたら、オンラインでの閲覧も、なんらかの形での販売も行われていない。じっさいに唐招提寺を訪ねたらなんらかの形で見ることができるだろうか。デジタルの形で利用できるように、一人の読者として切に願う。

2022年4月2日土曜日

電子テキスト

東京大学史料編纂所の「大日本史料総合データベース」が公開されたのはいつごろだったのだろうか。サイトには「©2011」とあるだけで、特別に記録されていない。感覚としてはそれよりもっと早い時期だったはずだ。最初にアクセスして、検索して得たデータが印刷書物の紙面と連動していたことにすっかり驚き、贅沢な作りになっている、電子テキストのあるべき姿だと感じた印象は覚えている。

そもそも古典籍に関する電子テキストは、そのほとんどが紙媒体から内容を受け継ぎ、それを根拠としている。一方では、そのようなテキストは、文字フォント、行間、段落、ページレイアウトなど、紙媒体の情報を多く切り捨てた。電子テキストは、そもそもなんのためにあるのか。あの有名な「青空文庫」は、作品をパソコンで閲覧することから出発したとたしかに制作者たちが振り返る。でも、「大日本史料」などの典籍となると、閲覧のためとはとても思えない。まず考えられるのは、ピンポイントの検索だろう。そんなところに紙媒体の情報まで同時にアクセスできるものなら、利用者としては安心して使えて、なによりも有難い。ちなみに「ジャパンナレッジ」は、収録の全集叢書などについて紙面の情報を掲載し、同じ方向の努力であり、同じ需要への対応だと言えよう。

そのような中で、国立国会図書館の「次世代デジタルライブラリー」が現われた。いまのところ、まだ正確度などにおいて問題が多く、アクセスの方法もけっして親切だとは言えない。ただ、電子テキストの生成やその規模において、まさに次世代的なものなのだ。電子テキストと紙媒体との関連においても、まったく新しい可能性が示されていると強調したい。

2022年3月26日土曜日

存在しない干支

文字絵を楽しむ『文字の知画』。改めて開き、その序文を眺めた。なにげなく最後の一行まで目が進んだら、不可解な文に出会った。出版の時を明記するもので、「文化丁寅孟春」だ。

「丁寅」?干支のことだが、これはありえないものだ。干支は十干と十二支、両者が順に組み合わせて六十年を一回りとする。十番目の干の次には一番目が来て支の十一番目に合わせ、今度は支の十二番の次に一番目が来て干の三番目に合わせる。このような作りになっているので、奇数と偶数の干支がそれぞれ組み合わせるが、奇数の干と偶数の支、あるいは偶数の干と奇数の支とが合わせることはない。したがって「甲乙丙丁」と干の四番と「子丑寅」と支の三番が組み合わせることは存在しない。ちなみに、文化という年号は1804年から1818年までと十五年続き、その間に丁は、文化四年の丁卯(1807)と文化十四年の丁丑(1817)と二回回ってきた。

刊行の時間は孟春、初春あるいはお正月であり、本書のつぎのページの見開きはまさにお正月の風景を集めたもので、刊行はまさに一年の始まりだと理解すべきだろう。作者の十返舎一九がそこまで時間のことを無頓着だろうか、それともなにかを狙ってのかれ一流のヒネリなのか、にわかに分からない。

2022年3月19日土曜日

古典籍サーチ

古典籍の基本情報を調べるには、まず国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録DB館蔵和古書目録DB」を開く。あの『国書総目録』、それに増え続けるデジタル公開に支えられているのだから、心強い。一方では、デジタル公開についてこれがすべてをカバーしていないということをつねに自分に言い聞かせている。なにせ国会図書館のデジタルコレクションが反映されていない。そんな中、先日たまたまアクセスしたら、ちょっとした変化が起こったことに気づいた。

絵巻の模写『絵師草紙』。タイトル情報には国会図書館のデジタル画像閲覧のリンクが載せられた。それをクリックして、馴染みのビュアーが立ち上がり、国会図書館所蔵のデジタル画像が現われた。思わずほっとし、声を上げたくなるぐらいだった。しかしながら、よく見てみると、このタイトルに国会図書館が付与している「永続的識別子」とは番号が違う。どういうことなのだろうか。すぐ思いついたのは、IIIFのことだ。国会図書館は、2018年にデジタル画像がIIIF規格に対応するとアナウンスし、それぞれの図書デジタル閲覧のページに「マニュフェスト」を載せている。あるいはこの情報が利用された新たな展開なのだろうか。

一方では、さらに気になることがある。いまのところ、このデジタル公開に関する情報は、けっして十分ではない。例をあげてみると、似たタイトルの『百鬼夜行絵巻』、『弱竹物語』は、ともに国会所蔵の情報が書誌に明記されるが、デジタル公開についてのリンクがない。新日本古典籍総合データベースの更新記録を読めば、2022年3月10日付けに「国立国会図書館デジタルコレクション8,512作品」が追加されたとある。あるいはこの数がこれから増え続けることだろうか。一人のユーザーとして、謎が多くて、いまだ安心して使えるということには至っていない。


2022年3月12日土曜日

巻物の表と裏

巻物の思わぬ姿に出会った。まったく予備知識を持たず、正直どのように解釈すべきかいまも戸惑っている。正面から取り上げた研究はきっと存在しているだろうから、それにたどり着くまでに、ひとまず気づいた疑問などを記しておこう。

右の絵である。登場したのは、バチカン宮殿内に建てられたシスティーナ礼拝堂の天井画だ。あのミケランジェロ・ブオナローティによって描かれたもので、ルネサンスを代表する画作なのだ。描いたのは、聖書に登場する七人の預言者の一人であるヨエル、そのかれが羊皮紙の巻物を読み入る。それにしても、この巻物はどのような作りになっているのだろうか。一見して、文字が書かれた表の面が巻かれる軸の外側に来る格好になった。しかしながらさらに目を凝らしたら、両手の間において巻物は一度捩じられている。これなら文字の面が軸の裏側にくることになるが、そうであればわざわざ捩じってまで巻物を操作しなければならない理由は分からない。さらに言えば、文字の方向ははたしてどうなっているのか。見詰めるほど疑問の数が増える。材料、体裁、言語、文字、洋の東西においてその距離は思ったほど遠かった。

写真は、「ミケランジェロが描くシスティーナ礼拝堂天井画の複製展示」からである。すでに北米のいくつかの都市で展示され、今月からここカルガリーにやってきた。決して上質とは言えない複製、会場もまったく飾り気のないものだった。それでも訪ねる人は後を絶たない。圧倒的な迫力をもつ原作に思いに馳せらせる意図には敬意を払いたい。インスタグラムに会場内外から数枚の写真を載せた。

Michelangelo’s Sistine Chapel: The Exhibition

2022年3月5日土曜日

写真AI修正

AI技術応用の一つとして、古い写真に色付けをし、画質を修正ソフトは多い。そのような広告を見ると、ついクリックしてみる。だが、宣伝広告は魅力的に見えても、実際に試すとがっかりするのが普通だ。その中で、一つかなり満足できるものに出会った。

どうもどういう写真を対象にするかが肝心なようだ。顔ばかりの写真だと、機械的な修正はやりすぎで、自分の記憶との距離も大きい。一方では、大事なイベントなどになると、顔だけではなく、周りの雰囲気などが加わり、違和感が若干消される。ここでそのような一枚。すでに30数年まえのもので、いまは小さくプリントした写真しか残っていない。いくらスキャンナーなどで丁寧に読み取っても、限界がある。そこでアプリを試してみた。「Pixelup」。ほぼ想像したものに近く、この結果だと保存しておく価値がありそうだ。ただこの手のソフトにありがちなことに、とにかく有料への誘導がしつこい。出来上がったものをダウンロードするには、1分近く広告を見せられた。

ちなみに写真の日にちは1989年11月24日、場所は京大会館、博士学位授与式のあとの懇親会会場だった。笑顔で写真撮影に応じてくれたのは、京都大学第21代総長西島安則氏だった。


2022年2月26日土曜日

トップページは英語

先月終わりの「次世代ライブラリー」において、とんだ勘違いをした。国立国会図書館の「次世代デジタルライブラリー」が英語のページしか用意してくれていないと書いてしまった。さっそく友人に教えてもらい、日本語への切り替えボタンがページの下真ん中にあると分かった。ただ、あえてエントリー内容の修正をせず、SNSで訂正をコメントに入れるのみだった。

いうまでもなく気がかりだ。その後もあれこれと失敗の理由を考えた。そして、自分なりの一つの答えにたどり着いた。

ヒントを示してくれたのは、「人文学オープンデータ共同利用センター」だった。その公式サイトのアドレスは、

http://codh.rois.ac.jp/

これをその通りにブラウザに入れると、英語のトップページが飛び込んでくる。右トップに言語切り替えのボタンがあり、簡単に日本語に変えられる。そこからさらに英語に戻し、両方のページアドレスを見較べた。

http://codh.rois.ac.jp/index.html.ja
http://codh.rois.ac.jp/index.html.en

すなわち日本語、英語のそれぞれのページが用意される一方、言語指定なしでサイトに入れば、英語ページが選択される。もちろんこちらのIPアドレスなどから判断した結果なのだ。

はたして「次世代デジタルライブラリー」のアドレスは、

https://lab.ndl.go.jp/dl/

これに対して、日本語と英語のどちらに切り替えても、アドレスには反映されようになっている。どうやら同じ方針でサーバーが対応してくれているのだ。

たしかに親切だが、ちょっぴりお節介だ。こちらの読みたい言語を先走りに判断し、その上誤解までもたらすのだから、余計だと思った。英語圏以外の国々になるとどう対応するのだろうか。いずれにしても、このような作りが主流にならないように願いたい。

2022年2月19日土曜日

文字絵画像処理

週末にかけてある小さな作業に取り掛かった。『文字の知絵』に収録された文字絵を対象に画像処理し、絵に隠された文字を浮き立たせるようにした。相変わらずPhotoshopを利用し、そのプロセスにおいて覚えたことをメモしておく。

見やすいようにオリジナル画像をグレーに変更することにした。画像の色を変えることは簡単だが、それよりも今度は「マスクレイヤー」を用いた。この方法を導入した利点というのは、レイヤーそのものを複製して加工しようとする画像に取り入れることができるということだ。画像を一つずつ手入れする必要はなく、個別に調整することもない。複数の画像をまとめて作業するには最適だ。

つぎは文字の部分を取り出すことだ。これについてかつてnoteでIllustratorを用いてのやりかたを記した。(「画像処理メモ・文字」)基本的にそれに従ったが、あらためて試して、TraceからUngrouにかけての一連の作業を抜きにしても思う通りの結果が得られることが分かった。おかげでかなりのマウスクリックの回数を減らすことができた。

思えば、似たような作業が必要とする人はそもそもそんなにいない。一方では、たまにしかやらないだけに、時間が経てば意外とあっさりと忘れてしまう。それのためにでもここに書いておく意味があるかもしれない。

2022年2月12日土曜日

縦書き右へ二例

右へ展開する縦書きのレイアウトについて二週間まえに記した。それをうけて、さっそく友人から一例の存在を教えてもらった。同じく十返舎一九作品の『三峯山御狼助劔』、デジタル公開があって簡単に確認できる。文章によって犬の形を象り、犬の口の下の部分がそれである。右への縦書き、単純でいてインパクトがあり、妙に思いに残る。そこで漫然と読んでいるうちにさらに一例を見つけた。

『千代靏百人一首』(デジタル公開)。百人一首の歌を歌仙絵とともに並べ、上段には「百人一首の読み癖」、「三夕の図」から、「盃の次第」、「尼の名尽くし」に至るまで、さまざまな知識を羅列する手習いの一冊である。それの一つとして、三十六歌仙の歌と歌仙絵があった。それらを読んでみると、一番目は柿本人丸、歌は「ほのゝゝと、あかしのうらの、朝霧に、しまかくれゆく、舟おしぞ思ふ」。ただ、左から右への展開である。さらに読み進めてみると、在原業平の「世の中に」、素性法師の「みわたせば」、猿丸大夫の「遠近の」など、数えてみるとじつに十五人の歌仙絵はこのレイアウトを取っている。これら十五人すべては歌仙の名前を歌の左に置いていて、文字の読み順に関しては明瞭な指針を示している。半分は文字、半分は人物の座像という歌仙絵という独立の空間において、このような文章の綴り方はまた一つ意味深いヒントを残してくれた。

滑稽本などの遊び的な要素の強いもの、絵があって、ひいては絵を構成する文字、それらに対して古風で格調ある歌仙絵。考えてみればずいぶんと性格の異なるものだった。ただ、和歌となれば、散らし書きを思い出される。あるいはそのような、いわば由緒正しい伝統がここで隠された大事な役割をは果たしたのだろうか。

2022年2月5日土曜日

個人送信

先週に続き、今週にも国立国会図書館のデジタル資料利用について新しいアナウンスがあった。来る五月ごろから、デジタル化されてインターネット公開できない「絶版等資料」は、個人向けに送信するサービスが始まるとのことである。(プレスリリース

このサービスの実現は、去年に行った関連の著作権法の改正によるものだと記述されている。思えば、国会図書館の所蔵資料のデジタル化は、その最初の一歩からつねに新しい法律の制定や実施に伴い、法律ができて目覚ましいスピードでそれが実現されるという展開の連続だった。それによりかつて存在していなかったデジタル資料群が作り出され、世の中で利用できるようになったインターネットに載せて読者に届けられた。すべてわずかここ十数年来の出来ごとであり、自分もその恩恵を受ける最初の世代に入る。

個人送信のサービスは、日本国内に限定するとのことだ。じつはここ数日、1957年刊行の一点の資料にアクセスするために苦労した。「図書館送信資料」であり、海外からは入手できない。日本国内にいる人に頼むほかはなく、幸い助けの手を伸ばしてくれる友人に恵まれ、希望が叶えられた。日本国外に身をおくと、このようなもどかしい思いをさせられることが多い。それでもこのような進歩は大歓迎だ。

2022年1月29日土曜日

次世代ライブラリー

今週、SNSで盛んに交された話題の一つは、国立国会図書館が「次世代デジタルライブラリー」を公開したことだ。これまでにデジタル化された著作権フリーの書籍を対象に、全文テキスト検索や画像検索の機能を一般のユーザーに提供するものである。専門分野の研究者から一般の読者までみんな興奮してこの知らせに接している。

さっそくあれこれと試してみた。NDL Labサイトから、いまは一番目に上げられている「次世代デジタルライブラリー」を選び、「Next Digital Library」に入る。提供されているのは、キーワードと画像という二つの検索方法なのだ。

言葉による検索は、今度の公開の最大の目玉だ。対象書籍をOCRにかけて電子テキストにし、それを検索対象とするということだ。ただなによりもその分量なのだ。自分にとってのキーワード、あるいは漫然と思いつい言葉をシステムに入れ、ほぼどれもかなりの分量のヒットが戻ってくる。中にはまったく意識しなかった分野の書物も多く、つい夢中になる。個人的にとりわけ感心したのは、ヒット項目をクリックして開く書籍閲覧の画面に、「Full text of this book」が用意されたことだ。これをクリックすると、書籍全体のテキストファイルがまるごとローカルのパソコンに保存される。ページごとに一つずつのファイルになって、じっさいに使用するにはもうすこし加工が必要だが、閲覧画面とあわせて使えば、たいへん貴重なリソースが手に入ったことになる。

一方では、テキスト検索のヒット画面に、「Illustrations in this book」と、同じ書籍に含む画像を提示し、さらにテキスト検索と同列に画像検索の機能が用意されている。だが、この検索は、現時点では稼働はするが、さほど使いものにならない。試しに公開資料である『前九年絵巻物』から馬の画像を一つ切り出して検索に掛けたら、ヒット作は、数こそかなりのものが戻ってきたが、その内容は、美人から古地図、植物などに及んだ。目を凝らして探してようやく同じタイトルが混じっていると確認できたが、検索にかけた場面ではなかった。

このライブラリーは、「国会図書館の実験的なサービス」の一つであり、しかもいまのところ、すべてのページが英語のみとなっていて、日本語に切り替えるボタンが見つからない。まだまだ試運転だということが分かる。一人の利用者としては、この方針がむしろ大歓迎だ。もっと多くの驚きや喜びがきっと待っていると信じてエールを送りたい。

2022年1月22日土曜日

縦書き右へ

『文字の知画』を読んでいて、まるで謎解きの経験をした。十丁オを読み進んだところ、文章は通じるようで通じない。かなり困ったところ、ぱっと答えが現われた。なんと縦書きの文章は、突然のように左から右へと一行また一行と展開されたのだった。

絵によって出来上がった二つの離れた空間を埋める文章である。上の部が左いっぱいまで来たら、下の部でどう続けるのだろうか。この一冊ではこのような状況が何回となくあって、ここまではずっと「▼」「▲」の記号をそれぞれの終わりと始めに置くことによってその繋がりを示してきた。分かりやすい。そんなところへ、ここの文章となって、なんと方向逆転の対応を仕掛けてきたのだ。大胆というか、無茶というか。思い切って肩をもってあげるとすれば、もともと絵も内容も、そしてそもそも文字そのものを対象に遊びや戯れをいっぱい施し与えた書物だから、ここへきて文章のレイアウトにまで手を加え、それを弄ってしまった、といったノリだろうか。

縦書き右へ。このようなレイアウトは、はたしてどのような書籍に姿を見せたのか。そこには著者や版元のどのような気持ちが隠され、読者との間でなんのキャッチボールが行われたのか、知りたいものだ。

2022年1月15日土曜日

画像保存

デジタル公開されている古典籍の画像は、閲覧に対応するように工夫されている。それでも、じっくり、繰り返し読むには、ローカルのパソコンに保存しておきたい。ダウンロード利用の方法はいまでもさまざまで、利用者としてたえず模索を続けなければならないのが現状だ。

一例として「新古典籍総合データベース」収録のタイトルがあげられる。IIIF基準に統一していることは心強い。だが、国文学研究資料館所蔵のものなら、閲覧の画面にダウンロードのボタンが用意してあるが、これがすべてにわたるには至っていない。きっと所蔵者の意図により決められたことだろうと思われるが、簡単に保存できないものもある。一つの解決方法として、閲覧の画像を右クリックし、出てくるメニューから「名前を付けて画像を保存…」を選ぶことだ。小さい枠で閲覧していると、枠の中に出ている画像(したがって時にはページの一部分)が対象で1168x651のサイズで保存される。一方では全画面で閲覧していると、モニター解像度のサイズの画像が得られる。手元のパソコンの解像度は3440x1440、保存の画像は3440x1397という結果となる。ちなみにこれは「プリントスクリーン」によって取得する画像とほぼ同じ結果だ。

ここ数日、時間をかけて読んでいるのは、『文字の知画』。国書目録に収録されていない底本が、所蔵者作成のデジタル画像で新古典籍総合データベースにおいて公開されている。なにはともあれ所蔵者に感謝したい。

2022年1月8日土曜日

将軍時宗

黄表紙の作品を読んでいくと、当世の浮世ものがさかんに描かれるなか、数は多くないが、歴史上の出来事に装っての物語があった。その中には、時々あっとさせられるものが混じり込む。つぎのは、その一例である。

蓬萊山人亀遊の作なる『敵討女鉢木(かたきうちおんなはちのき)』(安永六年刊)。親の敵を討つけな気な二人姉妹の地味な物語だが、その出だしの一行は読む人を怪訝に思わせる。「かまくら六代将軍北条時宗公のおんときに…」(写真は東京都立中央図書館加賀文庫蔵より)。時宗を含め、北条家の面々が幕府の実権を握っていたとは言え、いつ将軍にまでなったのかよと、ツッコミを入れたくなる。あの蒙古襲来に当たって懸命に奮戦した北条時宗、同時期の「宮将軍」宗尊親王はたしかに六代だと数える。妙に現実感があって明らかに大らかな書きぶりは、あるいはまさに黄表紙の不思議な魅力の一つだったかもしれない。ちなみに、この作より遥か影響力があって広く読まれた『敵討義女英』(寛政七年刊)も、似たように「かまくら三代将軍源の実朝公のころかとよ」と語り始める。いうまでもなく、二作とも物語の内容はこのような時間の設定とはまったく関係なく展開された。そもそも「かまくら」と語り出すことの意識そのものが今日になったら図りがたいものとなったと言わざるを得ない。

思いがこのようなところに行き来することは、いうまでもなく大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に惹かれたものだ。いまや「北条」、「義時」、そしてけっして聞きなれない「鎌倉殿」の言葉がテレビ画面に溢れる。はたしてどのようなドラマになるのやら、あと数時間で初回放送となり、楽しみだ。

2022年1月1日土曜日

謹賀新年2022!

明けましておめでとうございます。

年賀状の文字は『先哲像傳』より、絵は「毛益/孤虎図」より取り出し、組み合わせた。画像処理の詳細は、note(「画像処理メモ・文字」、「虎が踊り出る」)に記した。