2009年11月28日土曜日

学生のビジュアル表現

普段の生活を大きく乱してしまう大雪は、年に一度は降る。朝起きて降り積もる雪に嘆くときが多いが、昨日はそれが夕方のラッシュに起きた。10分程度の距離は一時間か二時間以上も掛かってしまって、とんだ週末となった。

雪本番を迎えつつ、大学では学期の終わりに近づき、どの授業も纏めに入った。学期末試験はほぼ作成できて、来週明け早々にも印刷に回し、初級クラスは残るは講義一回だけで、あとは小テスト、それにグループ発表のみだ。書きたての原稿を手にして、せわしく話し合っている学生の姿が目立ち、動画で提出しようと、撮影のロケも「野次馬組」まで交えて行われていたりして、ほほえましい。

今学期の新しい試みの一つに、少人数の作文のクラスにおいて、作業を週一度にオンラインに公開するというやり方を取った。どうも学生たちの波長にかなり合ったらしく、予想以上の手ごたえを感じた。そのクラスも最後の一回のみとなって、写真の使用を制限するというこれまでの方針を外して、今度はビジュアルによる表現、という要求を出した。

英語圏で生活していて余計に感じることだが、ビジュアル手段を生かして表現を豊かにするということに掛けては、日本の文化にかなりのマジックパワーが隠されている。それは、百年千年の伝統を持ち出すまでもなく、毎日の生活の中で目に入ってくる新聞、雑誌の紙面、あるいは街角に充満する広告ポスターなどを眺めれば十分に感じ取れる。ビジュアル表現をするために、異なる手段ひいては絵描きなどの能力が必要だ云々と議論する以前のものである。

いうまでもなく日本語のクラスでビジュアル表現法を教えているわけではない。だが、そこが若い学生たちの驚異的な吸収力だ。絵描きを習っていなくても、日本語の発音やセンテンス構造との格闘とともに、日本ならではのものがいっぱい目に入っていて、それを肌で感じ取り、表現に取り込む。その感性がどのように無理難題な宿題に反映されることだろうか、はなはだ興味深い。

日本語作文ボード

2009年11月21日土曜日

マンガを披いてみれば

0911121 たまたま漫画「陰陽師」数冊が手に入った。これまでならただぱらぱらとページをめくってみて、そのまま閉ってしまうものだが、なぜかページを、会話を飛ばさずに追ってみた。全部読了ということまでにはいかないが、ともかくいまも読み続けている。

この作品をめぐり、映画などのこともさることながら、いまなお記憶に残る会話があった。もうかなり数年前のことになるが、ある集まりのあと、飲み屋で数人の若者と同じテーブルに着いた。いずれも初対面の、それも理科系の大学院生で、共通した話題を見出すために互いに模索しあった。そこでいつの間にかたどり着いたのは、マンガだった。その中の一人は、この「陰陽師」のファンであり、その読書経験を熱く語ってくれた。曰く、つぎの出版までわくわくして待ちきれない、一冊が手に入ると一気に読み通す、数時間の作業であり、読み返すこともよくある、読む順番としては絵と文字とどちらからともなく交替に、などなど。その語り口はなぜかとても知的で、生き生きとして説得力があった。絵の読み方を考えることを自負していながらも、なぜかその時だけはまるで異文化、異国人を眺める思いだった。

同じ作品を手に入れて、それものんびりと構えてはいるが、それでもあの若者が語ったような感覚を体験することなど、とても無理なことだと分かった。しかしながら、漫画の文字の、絵の、そしてストーリの枠組みやそれを伝えるための約束ごと、拠ってかかるベースとリズムといったものさえ受け止められたら、それなりに楽しいものだということは、確かだ。

まんが批判の代表的な論拠の一つには、画像があって、文字が最小限に減らされたから、読者の想像力が限られたものにならざるをえないとのことがあげられる。しかしながら、その画像だってあくまでも断片でいて、作為が満ち溢れるものであり、それを読解するためには、限りなく読者の想像力が必要とされる。これまた見過ごすわけにはいかない事実だろう。

2009年11月14日土曜日

描かれた「絵合」

少人数の外国文学のクラスに誘われて、一時間ほどのゲスト講義をした。テーマは源氏物語。学生たちは、何点かの世界の古典を英語で、源氏物語の場合はそれもダイジェストバージョンで読んでいる。源氏という聖地にはとても踏み入れる覚悟がないにもかかわらず、学生たちの熱心な勉強ぶりに押されて、講壇に立った。選んだ切り口は、いうまでもなく源氏を描いた画像群だった。

源氏をめぐる絵画表現は、じつに豊かだ。それらを平安から室町と時代を横断し、絵巻から扇面、屏風、絵本、はては合貝や歌札とジャンルを通じて眺めるとすれば、さまざまな興味深いことが見えてくる。分かりやすい例として、「絵合」を描いたものをやや詳しく取り上げた。

描かれたのは、冷泉帝とかれが寵愛を注ぐ前斎宮と弘徽殿女御という二人の女性、それにそれぞれの女性の後ろ盾となる源氏と頭中将という二人の貴人である。一枚の絵に収めいれるには、じつに安定した人間関係であり、ほどよい物語の分量である。二人の貴人を絵合の場の外に押し出して簾をもって視線を遮断したり、冷泉帝の注意を女性ではなくて外の二人に貴人に向かわせたりして、絵師の腕前はいかほどのものであっても、どんな幼稚な描き方をしていても、見ごたえのある画面になる。しかも違う絵を並べておけば、さまざまなバージョンの構図が行われたことに心を惹かれる。五人全員が登場するものをスタンダードな構図だとすれば、女性だけのもの、二人の貴人を描かないもの、はてには二人の貴人と女性で冷泉帝の姿が見られないものと、表現というよりも、絵師の遊び心まで覗かれる。0911114一方では、絵の背後には濃厚なストーリがあった。一人の皇帝と二人の女御とそれぞれの親という、個人名を隠していても、今日の外国人の読者に難なく伝えられる一方、たとえば登場人物の年齢(冷泉帝は13才、弘徽殿女御は14才、前斎宮は22才)、源氏と冷泉帝との血縁関係、さらに画面に登場していない尼宮(藤壺)や朱雀院の存在や思いまで連想すれば、一枚の絵から読み取れる物語の世界は無限に広がる。

これだけ予備知識が必要とされる物語の読解を、若い学生たちはどこまでこなせるのだろうか。そもそも源氏の絵にはどこまで共鳴が覚えられるものだろうか。はなはだ心もとない。これをテーマにしたレポートが提出されたら読ませてほしいと、担当の教授に頼んでおいた。

2009年11月7日土曜日

TTSを思い出す

明日の日曜日、勤務大学の教室にて小さな集まりが予定され、一時間ほどおしゃべりの時間を与えられた。集まってくるのは、日本語教育に関心を持ち、あるいはそれに携わっている方々である。思いついたテーマは、「音をめぐって」。自分の関心事をぶっつけてみて、どのような反応が起こるか、内心楽しみにしている。

話の一つに、音をめぐる歴史的な変化を取り上げよう。音・声を記録するために、人間が最初に案出したのは、ほかならぬ文字だったろう。その目で見れば、ほんの最近になって、音声を物理的に記録し、思う通りに再現する方法がようやく実現できた。それが大きなディスクであり、だんだん小さくなっていくテープであり、いまはデジタル信号である。記録するメディアの変化により、記録する分量も飛躍的に増えた。どんなに大きな図書館でも、音声を記録するテープを対象となればついつい所蔵する方針を丁寧に考え直さなければならないが、デジタル信号となれば、たとえばラジオ放送ならとにかくすべてを記録しておこうということは、図書館どころか、個人レベルでもさかんにやられているだろう。そして、インターネットという伝播の手段の登場だ。記録されたものを人に渡すことはほぼゼロコストで実行可能になり、著作権というやっかいなことさえクリアできれば、音声という媒体はどれだけ繁盛するだろうか。

つぎに何が起こるのだろうか。メディアとしての音声は、必然的に再び文字へ戻るのだと見る。すなわち、文字と音声との間に自由に往来することだ。ここに、数年前あれこれと遊んで眺めていたTTSソフトの一群を思い出す。「Text To Speech」と称されている。いまやかなりのレベルまで実用されていて、一例を挙げれば、最近購入したビデオカメラ付きのiPodナノは、ポッドキャストの番組名をかなり聞きやすい語り口で知らせてくれている。新しい技術の応用は、びっくりした視線で迎えられることさえなく、自然と日常の生活の中に溶け込んだものなのだ。

「PC Online」サイトの記事は、この水曜日から慶応大学で開催された「21世紀コンピューティングカンファレンス」をレポートし、「Photo Real Talking Head」という展示を紹介した。口などのパーツを選んで顔を組み立て、それがTTSにあわせて動き出すという、聞くからに初歩的な作り方をしている。しかし、文字、音声になんらかの外装を付けて、それを実用に送り出そうとする苦心が見えて、なぜか微笑ましい。