少人数の外国文学のクラスに誘われて、一時間ほどのゲスト講義をした。テーマは源氏物語。学生たちは、何点かの世界の古典を英語で、源氏物語の場合はそれもダイジェストバージョンで読んでいる。源氏という聖地にはとても踏み入れる覚悟がないにもかかわらず、学生たちの熱心な勉強ぶりに押されて、講壇に立った。選んだ切り口は、いうまでもなく源氏を描いた画像群だった。
源氏をめぐる絵画表現は、じつに豊かだ。それらを平安から室町と時代を横断し、絵巻から扇面、屏風、絵本、はては合貝や歌札とジャンルを通じて眺めるとすれば、さまざまな興味深いことが見えてくる。分かりやすい例として、「絵合」を描いたものをやや詳しく取り上げた。
描かれたのは、冷泉帝とかれが寵愛を注ぐ前斎宮と弘徽殿女御という二人の女性、それにそれぞれの女性の後ろ盾となる源氏と頭中将という二人の貴人である。一枚の絵に収めいれるには、じつに安定した人間関係であり、ほどよい物語の分量である。二人の貴人を絵合の場の外に押し出して簾をもって視線を遮断したり、冷泉帝の注意を女性ではなくて外の二人に貴人に向かわせたりして、絵師の腕前はいかほどのものであっても、どんな幼稚な描き方をしていても、見ごたえのある画面になる。しかも違う絵を並べておけば、さまざまなバージョンの構図が行われたことに心を惹かれる。五人全員が登場するものをスタンダードな構図だとすれば、女性だけのもの、二人の貴人を描かないもの、はてには二人の貴人と女性で冷泉帝の姿が見られないものと、表現というよりも、絵師の遊び心まで覗かれる。一方では、絵の背後には濃厚なストーリがあった。一人の皇帝と二人の女御とそれぞれの親という、個人名を隠していても、今日の外国人の読者に難なく伝えられる一方、たとえば登場人物の年齢(冷泉帝は13才、弘徽殿女御は14才、前斎宮は22才)、源氏と冷泉帝との血縁関係、さらに画面に登場していない尼宮(藤壺)や朱雀院の存在や思いまで連想すれば、一枚の絵から読み取れる物語の世界は無限に広がる。
これだけ予備知識が必要とされる物語の読解を、若い学生たちはどこまでこなせるのだろうか。そもそも源氏の絵にはどこまで共鳴が覚えられるものだろうか。はなはだ心もとない。これをテーマにしたレポートが提出されたら読ませてほしいと、担当の教授に頼んでおいた。
0 件のコメント:
コメントを投稿