2009年11月21日土曜日

マンガを披いてみれば

0911121 たまたま漫画「陰陽師」数冊が手に入った。これまでならただぱらぱらとページをめくってみて、そのまま閉ってしまうものだが、なぜかページを、会話を飛ばさずに追ってみた。全部読了ということまでにはいかないが、ともかくいまも読み続けている。

この作品をめぐり、映画などのこともさることながら、いまなお記憶に残る会話があった。もうかなり数年前のことになるが、ある集まりのあと、飲み屋で数人の若者と同じテーブルに着いた。いずれも初対面の、それも理科系の大学院生で、共通した話題を見出すために互いに模索しあった。そこでいつの間にかたどり着いたのは、マンガだった。その中の一人は、この「陰陽師」のファンであり、その読書経験を熱く語ってくれた。曰く、つぎの出版までわくわくして待ちきれない、一冊が手に入ると一気に読み通す、数時間の作業であり、読み返すこともよくある、読む順番としては絵と文字とどちらからともなく交替に、などなど。その語り口はなぜかとても知的で、生き生きとして説得力があった。絵の読み方を考えることを自負していながらも、なぜかその時だけはまるで異文化、異国人を眺める思いだった。

同じ作品を手に入れて、それものんびりと構えてはいるが、それでもあの若者が語ったような感覚を体験することなど、とても無理なことだと分かった。しかしながら、漫画の文字の、絵の、そしてストーリの枠組みやそれを伝えるための約束ごと、拠ってかかるベースとリズムといったものさえ受け止められたら、それなりに楽しいものだということは、確かだ。

まんが批判の代表的な論拠の一つには、画像があって、文字が最小限に減らされたから、読者の想像力が限られたものにならざるをえないとのことがあげられる。しかしながら、その画像だってあくまでも断片でいて、作為が満ち溢れるものであり、それを読解するためには、限りなく読者の想像力が必要とされる。これまた見過ごすわけにはいかない事実だろう。

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