2009年6月27日土曜日

声の今とむかし

                   (「CAJLE Newsletter」2009年6月号より)
大学での講義は四月に終わり、例年と同じように九月までは研究に専念する時間だ。今年は、一年以上前から約束していた一篇の雑誌論文をまず書き上げること。そのテーマは、日本中世の声である。

わたしの研究対象は、絵巻という、きわめて日本的な要素の強い中世の古典だ。典型的な絵巻は、詞書と絵とが交互に書き入れられる。このような作品を理解するために、声という視点を持ち込むというアプローチのきっかけは、しかしながら、いたって現在的なものだ。それは、マルチメディア。これまで文学と言えば、言葉の通りの、文によって成された学問であって、文字によって記録された資料に限定してきた。文字記録は当然一つのメディアであるが、それが一つのみで、比較する対象を視野に取り入れないがために、メディアという目で眺めることが少なかった。それに対して、絵巻は絵と文字という異なる記録方式によって成り立つ。ビジュアルとテキストと、メディアの競演だと捉えれば、そこに自然に音声という要素が浮かびあがってくる。りっぱなマルチメディアだ。

このように、メディアという角度から物ごとを眺めてみれば、さまざまなことに気づくようになる。話はだいぶ飛ぶが、たとえばわたしたちが仕事にしている日本語教育について考えてみよう。日本語学習者を育てるには、声、声を発する、しゃべってもらうことは、言語能力を図る上で何よりも大事な指標だ。発音、イントネーションなどは、学習者の成績判定が難しい。筆記試験となればいい成績が取れても、会話となるとまったく満足に交流できないという学生の苦労を、われわれは数え切れないほど知っている。また、反対のこともある。話すことをもって言語能力のすべてだと考えるあまり、会話能力のみをもって勉強の結果を判断しようとする。かつてかなり広く使われていた教科書があって、その全編にわたってすべてローマ字表記にしたものだった。仮名や漢字の読み書きなどは一切不要で、会話だけに専念してよいとの意図がありありだった。一つのメディアへの極端な傾斜だったと言えよう。

ところで、日本の古典を考える上で、メディアについての観察からどのような手がかりが得られるのだろうか。まず、明らかなことだが、録音機といった便利な道具は現代の特権であり、これに恵まれなかった中世の声そのものは、たとえば古典芸能や古来の祭りの伝承を信じる以外、そのあり方を伺うことなどもう不可能なことだ。しかしその反面、中世の声が聞けなくても、それをめぐるさまざまな情報が文字や絵などの形で伝わり、そこから声の様子をさぐることができる。一つの資料群を挙げてみるとなれば、中世の文化人が記した日記がある。これは膨大な分量に上るもので、いまやその多くがデジタル化されて、オンラインで検索することまで可能だ。その中から、いろいろな声が聞こえてくる。たとえばつぎのような記録がある。ある文化人が旺盛な勉強意欲を満足させるために、忙しい日常の中で、食事などの間に仕える人に書籍を読み上げてもらった。まさに人間録音機よろしくといった、ほほえましい風景ではなかろうか。それから、日本古典の核心を成す物語は、まさに「物を語る」行為から出来上がり、口から耳へという伝達を基本としたものだった。したがって、一部の学者によれば、声を出さないで本を読むという黙読は、近現代ならではの行動であり、古代、中世の人々には、声を出しての音読以外、読書する術をまったく身に着けていなかったと、いささか極端な意見まであった。

高々と読み上げられ、語られる声を伴う絵巻の鑑賞は、したがって声があるゆえの場、時間、ないし読者たちの精神のありかたを現代のわれわれに伝えている。声のある、いや、エネルギーに漲った声が充満する日本中世の時空への旅は、知の刺激が詰まっていて、まさに興味が尽きない。

2009年6月20日土曜日

安禄山の醜態

美人の誉れが高い楊貴妃といえば、入浴を連想するというのが中国の古典教養の一つに数えられる。風呂上りのエロチックな状況がどれだけ語られてきたのだろうか。しかしながら、同じく「長恨歌」をテーマにする絵巻を披いてみれば、そこにはなんと美女ならぬ、いい歳をしているお爺さんが湯船に漬かっている。顎に蓄えたりっぱな髭、締まりを失った裸の体、わけの分からない神妙な表情、過剰なほどに着飾った妙齢の女性たちに囲まれて、まったく不思議な構図だ。堂上には、年齢不詳だが、少なくとも湯船の中の男よりは若く見える男女が対座して、これを見つめる。予備知識を持たないでこれを見れば、誰もが唖然とさせられるものだ。

絵巻の詞書を読めばようやく描かれている事情が分かる。つぎのような一行がある。
  かの安禄山をはたかになしてむつきのうへにのせて生れ子なくまねを
  しけるををかしかりて(かの安禄山を裸に成して襁褓の上に乗せて、
  生れ子泣く真似をしけるを可笑しかりて)
裸を晒し出しているのは、かの悪名高い安禄山なのだ。ならば堂上の男女こそ玄宗皇帝と楊貴妃である。すなわちここでは安禄山が皇帝と貴妃を自分の生まれの親として拝め、そして二人を楽しまそうと、赤ちゃんの真似事をしたのだった。オムツや泣く仕草などはそのまま絵にするのではなく、産湯を使うという、いっそうショッキングな活劇を演じさせたのだった。いうまでもなく絵に描かれたのは豪華な宮廷風景だが、詞書はこれをしっかりとスキャンダルとして語り、しかも玄宗皇帝のありかたを批判すべきものだと、戒めの文言を忘れなかった。

このような奇想天外なエピソードは、はたして中世の日本の文人たちが作り出したものだろうか。はたまた中国関係の文献からなんらかのヒントを得て、それを敷衍した結果なのだろうか。一件の説話としての著作権の帰属はさておくとして、楊貴妃をめぐる宮廷政治への批判という立場は間違いなく受け継がれている。一方では、エピソードの骨組みは、例の「二十四孝」の教えに妙に沿っている。いわば親を楽しませることが最大のテーマであり、それを達成させるためには、自分を忘れ、自然の摂理を無視するまでに人為的な演出をしてしまう。思えば、絵巻のビジュアルな表現は、そのような古風の教えや精神まで朗らかに哄笑のターゲットに祭り上げたのではなかろうか。

京都大学附属図書館(谷村文庫)蔵『長恨歌抄』
大阪大谷大学図書館蔵『長恨歌絵巻』

2009年6月13日土曜日

かぐやの着月

今週のニュースに「かぐや」が何回も登場した。月周回衛星かぐやが、予定より四ヶ月ほど長い観察を終え、木曜日の早朝、月に落下した。人造の衛星だから、その終末も人間の希望のままに動かされ、地球からの観察ができるように時間や場所が制御され、その通りの結果になった。正式発表によれば、衝突の閃光などの画像は現在編集中で、近いうちに公開されるとのことである。

思えば、月の衛星は最終的には果てしない宇宙に放り出されるのではなく、着地ならぬ着月する形でその寿命を終えるということは、最初からの予定に違いない。それを記述する言葉も、したがって月への「落下」「衝突」に尽きる。人間の最高の知恵を詰め込んだ金属の塊が無人の月球にぶつかり、無数の破片となって消える光景は、どう考えても感傷的なものだ。だが、その衛星に「かぐや」という名前が与えられたところに、われわれの感情の琴線が触れられ、ロマンが生まれる。新聞やテレビの報道に見られる語彙も、まさに「月を触る」「月に帰る」だった。古代のかぐや姫の伝説においては、その彼女の昇天が焦点の一つであり、そのありかたや用いられた道具がさまざまだった。だが、そのかぐや姫が経験したつぎの瞬間はどのようなものだったのだろうか。月にたどり着き、厳かな宮殿の門が大きく開き、彼女を迎え入れたに違いないが、そのような想像は、実際に残されている古典で読むことができない。だから、去る木曜日の早朝の観察記録は、まさにそのような伝説を延長させ、あらたな生命を吹き入れたものではなかろうか。

かぐや姫とペアになる中国の神話があった。しかも月に赴くその伝説の主人公は同じく女性であり、その名前は「嫦娥」という。嫦娥の昇天には、随行もいなくて、道具も用いられていなかった。あくまでも長い袖や裾を靡かせながらの飛行だった。長い歴史の中で中国の文人、詩人たちは、月に行って、そこに住み着いたあとの嫦娥の生活ぶりをたくさん詠みあげたが、月到着の瞬間には同じく目を向けなかった。ーー実は、「嫦娥」という名の月周回衛星が打ち上げられていた。それも三ヶ月ほど前に同じく着月という形で予定の使命を終え、月に入るその瞬間が衛星かぐやの撮影によって記録された、とか。

宇宙航空研究開発機構

2009年6月6日土曜日

宋徽宗・写生珍禽図

一巻の中国絵巻をめぐるニュースが今週の新聞の一角を賑わせた。宋の皇帝徽宗(在位1100-1125)の手による「写生珍禽図」が北京で競売に掛けられ、新たな持ち主を得るようになった。かつては京都にある有隣館も一時期所蔵していたこの巻物が、七年前の競売ではベルギーのコレクターの手に移り、今度は匿名の中国人の所有となった。千年に近い歴史をもつ作品だけあって、ただの古書籍、絵画、あるいは美術品に止まらず、古代からの宝物という形で公の場で現われ、競争の末に新たな所有者の手に移る結果になった。

巻物のサイズは、縦27.5ミリ、全長521.5ミリである。もともと内容からすれば「絵巻」と呼ぶにはかなりの躊躇を感じる。十二段に別れて墨絵で描かれたのは、計20羽の鳥たちだけだった。鳥は、画眉(がびちょう)、喜鵲(かささぎ)、戴胜(やつがしら)、麻雀(すずめ)、雉鳩(きじばと)と、異なる種類が集まり、それが一羽かペアになって木や花の枝に止まり、最後の一段では、地面に飛び降りた二羽の子鳥が親鳥に向かっている。前後の画面の間には関連がなく、いわば鳥のカタログを巻物という記録の媒体に描き留めたという体裁になる。したがって一巻の巻物の内容全体を貫く場や時間、あるいはストーリが流れているわけではない。

一方では、一点の古代作品としては、これ以上望めないほどの由緒正しいものだ。まずはその作者はれっきとした皇帝であり、それもさまざまなドラマを残した悲劇の人物なのだ。中国の古典の常として、その所有が変われば、新たな所蔵者は作品自体に証拠を残し、その典型的なやり方として構図などかまわずにじかに印章を押すものだった。この巻物にも宋代の印章が計14個も残され、それもいずれも料紙のつなぎ目を選んで押したものだった。さらに清の乾隆皇帝となれば、これが非常に気に入ったと見て、作品にはじめて文字を書き入れた。それが画面の空白を選び、一段の先だったり、後ろだったりして、中の二つは横書きとさえなった。文字の内容は、一種の画題を付けたようなもので、第一段に「杏苑春声」と書いたように、詩情を狙おうとするものだった。

時を超えて伝わる一点しかない巻物は、その所有者となれば、おのずと特権的な者にかぎる。その特権というのは、昔は政治力、いまは財力といったところだろうか。したがって昔は巻物に押された印章、いまはさまざまな形で残される転売の値段がその記録となる。この二つの側面を感じさせるには、中国語と日本語によるマスメディアの報道ぶりがある。日本の報道には落札金額が七億七千万円という数字が踊り、対して中国語の記事はどれも国を失い、画作が却って伝わる不運の皇帝の生涯に触れる。読み比べてなんとも味わい深い。