(「CAJLE Newsletter」2009年6月号より)
大学での講義は四月に終わり、例年と同じように九月までは研究に専念する時間だ。今年は、一年以上前から約束していた一篇の雑誌論文をまず書き上げること。そのテーマは、日本中世の声である。
わたしの研究対象は、絵巻という、きわめて日本的な要素の強い中世の古典だ。典型的な絵巻は、詞書と絵とが交互に書き入れられる。このような作品を理解するために、声という視点を持ち込むというアプローチのきっかけは、しかしながら、いたって現在的なものだ。それは、マルチメディア。これまで文学と言えば、言葉の通りの、文によって成された学問であって、文字によって記録された資料に限定してきた。文字記録は当然一つのメディアであるが、それが一つのみで、比較する対象を視野に取り入れないがために、メディアという目で眺めることが少なかった。それに対して、絵巻は絵と文字という異なる記録方式によって成り立つ。ビジュアルとテキストと、メディアの競演だと捉えれば、そこに自然に音声という要素が浮かびあがってくる。りっぱなマルチメディアだ。
このように、メディアという角度から物ごとを眺めてみれば、さまざまなことに気づくようになる。話はだいぶ飛ぶが、たとえばわたしたちが仕事にしている日本語教育について考えてみよう。日本語学習者を育てるには、声、声を発する、しゃべってもらうことは、言語能力を図る上で何よりも大事な指標だ。発音、イントネーションなどは、学習者の成績判定が難しい。筆記試験となればいい成績が取れても、会話となるとまったく満足に交流できないという学生の苦労を、われわれは数え切れないほど知っている。また、反対のこともある。話すことをもって言語能力のすべてだと考えるあまり、会話能力のみをもって勉強の結果を判断しようとする。かつてかなり広く使われていた教科書があって、その全編にわたってすべてローマ字表記にしたものだった。仮名や漢字の読み書きなどは一切不要で、会話だけに専念してよいとの意図がありありだった。一つのメディアへの極端な傾斜だったと言えよう。
ところで、日本の古典を考える上で、メディアについての観察からどのような手がかりが得られるのだろうか。まず、明らかなことだが、録音機といった便利な道具は現代の特権であり、これに恵まれなかった中世の声そのものは、たとえば古典芸能や古来の祭りの伝承を信じる以外、そのあり方を伺うことなどもう不可能なことだ。しかしその反面、中世の声が聞けなくても、それをめぐるさまざまな情報が文字や絵などの形で伝わり、そこから声の様子をさぐることができる。一つの資料群を挙げてみるとなれば、中世の文化人が記した日記がある。これは膨大な分量に上るもので、いまやその多くがデジタル化されて、オンラインで検索することまで可能だ。その中から、いろいろな声が聞こえてくる。たとえばつぎのような記録がある。ある文化人が旺盛な勉強意欲を満足させるために、忙しい日常の中で、食事などの間に仕える人に書籍を読み上げてもらった。まさに人間録音機よろしくといった、ほほえましい風景ではなかろうか。それから、日本古典の核心を成す物語は、まさに「物を語る」行為から出来上がり、口から耳へという伝達を基本としたものだった。したがって、一部の学者によれば、声を出さないで本を読むという黙読は、近現代ならではの行動であり、古代、中世の人々には、声を出しての音読以外、読書する術をまったく身に着けていなかったと、いささか極端な意見まであった。
高々と読み上げられ、語られる声を伴う絵巻の鑑賞は、したがって声があるゆえの場、時間、ないし読者たちの精神のありかたを現代のわれわれに伝えている。声のある、いや、エネルギーに漲った声が充満する日本中世の時空への旅は、知の刺激が詰まっていて、まさに興味が尽きない。
2009年6月27日土曜日
声の今とむかし
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