今週のニュースに「かぐや」が何回も登場した。月周回衛星かぐやが、予定より四ヶ月ほど長い観察を終え、木曜日の早朝、月に落下した。人造の衛星だから、その終末も人間の希望のままに動かされ、地球からの観察ができるように時間や場所が制御され、その通りの結果になった。正式発表によれば、衝突の閃光などの画像は現在編集中で、近いうちに公開されるとのことである。
思えば、月の衛星は最終的には果てしない宇宙に放り出されるのではなく、着地ならぬ着月する形でその寿命を終えるということは、最初からの予定に違いない。それを記述する言葉も、したがって月への「落下」「衝突」に尽きる。人間の最高の知恵を詰め込んだ金属の塊が無人の月球にぶつかり、無数の破片となって消える光景は、どう考えても感傷的なものだ。だが、その衛星に「かぐや」という名前が与えられたところに、われわれの感情の琴線が触れられ、ロマンが生まれる。新聞やテレビの報道に見られる語彙も、まさに「月を触る」「月に帰る」だった。古代のかぐや姫の伝説においては、その彼女の昇天が焦点の一つであり、そのありかたや用いられた道具がさまざまだった。だが、そのかぐや姫が経験したつぎの瞬間はどのようなものだったのだろうか。月にたどり着き、厳かな宮殿の門が大きく開き、彼女を迎え入れたに違いないが、そのような想像は、実際に残されている古典で読むことができない。だから、去る木曜日の早朝の観察記録は、まさにそのような伝説を延長させ、あらたな生命を吹き入れたものではなかろうか。
かぐや姫とペアになる中国の神話があった。しかも月に赴くその伝説の主人公は同じく女性であり、その名前は「嫦娥」という。嫦娥の昇天には、随行もいなくて、道具も用いられていなかった。あくまでも長い袖や裾を靡かせながらの飛行だった。長い歴史の中で中国の文人、詩人たちは、月に行って、そこに住み着いたあとの嫦娥の生活ぶりをたくさん詠みあげたが、月到着の瞬間には同じく目を向けなかった。ーー実は、「嫦娥」という名の月周回衛星が打ち上げられていた。それも三ヶ月ほど前に同じく着月という形で予定の使命を終え、月に入るその瞬間が衛星かぐやの撮影によって記録された、とか。
宇宙航空研究開発機構
2009年6月13日土曜日
かぐやの着月
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