2019年9月28日土曜日

有料データーベース

いくつかの雑誌投稿をこの夏からずっと取り組み続け、論文の体裁のもの、エッセイなど、例年より多く書いてきた。中ではデジタルはテーマの一つだった。貴重書から大学紀要まで、海外に身を置いた生活環境からすればその恩恵は語りつくせない。一方では、振り返ってみれば、商業ベースのデジタルリソースにはつい視線を避けてきたのだと気づく。

たとえば日本の大学図書館などに入れば、たいていの場合かなりの数のものが利用できる。新聞、雑誌を網羅した大規模なものから古地図、古文書のような専門的なものまで、どれも未知の世界に導いてくれる。ただ日本から離れれば、そう簡単にはいかない。あのジャパンナレッジを取り上げてみても、たしかに機関同士の共同利用にまで対応していると聞くが、自分の勤務校にはまだまだ届かない。大学図書館のアジア担当の方は日本と無縁、現実的に利用する人もあと一人や二人しか思い浮かばないような状況であれば、諦めとまでは言わなくても、やはりこの現実から出発し、あれこれと工夫をしてやりくりをするほかはない。代替リソースの収集や確保、プロジェクトの立案からの考慮や対応、あるいは溜まった課題を日本に行ったら集中的に取り組むなど、いろいろな模索をしてきた。

思えば、デジタルネイティブ世代の学生、そして研究者には、以上のような苦労はすでに伝わらないのだろう。さらに言えば、日本にいて、いまの環境では、リソースを使いこなせることがそもそもの出発だと期待される。ひと昔の、同じ用例を多数リストアップするような基礎訓練の作業はもはや意味を成さない。大きく言えば、環境は行動を変えてしまった。

2019年9月21日土曜日

あさきゆめみし

漫画『あさきゆめみし』の全巻セットを友人が「はまるよ」とコメントを添えながら貸してくれた。ずいぶんと話題になったどころではなく、厳然と一つのジャンルを切り開いた観をもつもので、ずっと関心があった。やはり予定よりはやくページを開いた。

いまだ最初の数章しか読んでいない。最初の印象としては、すこし肩透かしを食ったというものだ。あれだけ熟知されている古典だから、正攻法でも、あるいはなんらかのヒントを持ってでも、大切なエピソードはきっと丁寧に表現しているだろうと想像していた。だが、けっこう略されていた。一方では他の帖から有名なものを持ってきて物語をよりテンポ良く展開させたところも多い。やはりクラスで学生たちとともに読んで語り合ったなどの経験も含めて、つい現代的な表現になると、批判的な目を向けてしまうという、こちらの姿勢も反省している。結論からいうと、リズムに乗るまでには、もうすこし時間がかかりそうだ。

それよりも、タイトルは、最初に聞いたときから気になっている。この「イロハ歌」からの文言とイメージの中の源氏とはなかなか繋がらなかった。そもそも「見じ(見ない)」なのか、「見し(見た)」なのか、あるいはわざわざ両方を掛けたのか、唐突には推測したくない。なにげなくクリックしているうちに、かつて机を並べてともに勉強していた先輩が正面からこれを取り上げたのを見て、読み入った。「見し」だって、歴とした根拠を持つものなのだ。記憶に止めておきたい。

「あさきゆめみし」の言語学

2019年9月14日土曜日

大唐玄奘

「大唐玄奘」、これは映画の名前である。なにげなくYouTubeをクリックしてみたら、三年ほどまえに公開されたこれが飛び込んできた。さほど期待を持たないで見はじめたら、意外とはまり、とても印象に残るものとなった。

いまだ時にふれ「玄奘三蔵絵」を開く。数々のハイライトは鎌倉の人々の想像にほかならないと知りつつ、なんとなく玄奘をめぐるイメージはそこに凝縮した。そういう意味では、映画が見せてくれたのは、かなり違う映像だった。一言でいえば、華やかさを数段落とし、理想、空想の世界に対しての、現実的で等身大のビジュアルだ。ストーリーの作り方としても、求法の道を遮る権力者には敵対心がなく、ときどき現れて旅を手伝い、玄奘を師と仰ぐ人々はかえってさまざまな事情を抱えて、一縄にはいかない設定には興味が尽きない。一種のロードムービーと捉えなくもないが、劇的なエピソードよりも対話に深みがあって味わいがある。

ちなみにタイトルにある「大唐」とは、あくまでも敬意をもっての称呼に過ぎず、日本語に直せば「唐の玄奘」ぐらいのニュアンスだ。タイトルの英訳は、あくまでも「Xuan Zang」である。

「大唐玄奘」のトレーラ

2019年9月7日土曜日

鬼が里の饗宴

絵巻には、凄惨で残虐な画面はあまた存在する。その多くは、決してリアルに状況の詳細を精緻に描くのではなく、物語の発想に勝負を任せ、ときには素朴で微笑ましく、その分逆に恐ろしい。

鬼退治の代表作「酒呑童子絵巻」の一こまはよく覚えられる。長い道のりの苦難を一つまたひとつと乗り越えて、ようやく鬼との対面が叶った。そこで、普通の人間ではない、鬼と対等に渡り合う度胸を持っていることを示すものとして、童子が設ける饗宴に頼光ら六人が堂々と顔を出した。しかしながら、出された料理とは、なんと女性の足。物語が伝えたところでは、「女房の股、ただ今切ったると思しきをまな板に押し載せて持ち出たり。」これには、頼光がすこしも怖じず、おいしそうに切り取りながら口に運んだ。酒宴、料理、食事に堪能、言ってみれば饗宴にふさわしい要素をすべて取りそろえた画面において、まな板に載せられた料理の中身一つでそれらのすべてが崩れ、目も当てられないような構図に化けた。(写真は日文研蔵「酒天童子繪巻」中巻第六段より)

あえて付け加えるが、昔の読者が全員このような描写に夢中になったわけではない。それを証するには、同じ絵巻の系統をもつ特異な模写の一点(オックスフォード大学蔵)がある。それにおいて、まな板の上にあったのは、赤鯛だった。この模写には絵のみで文章が付いておらず、物語はどうなっていたのやら、ちょっと想像しがたい。

オックスフォード大学ボドリアン図書館附属日本研究図書館所蔵『酒呑童子』について