2020年2月29日土曜日

中国ビデオサイトデビュー

中国では、いまでもコロナ対策としてかなりの人々は自宅待機を余儀なくさせられている。その中で、友人は自作の音楽ビデオを送ってきて、いまの生活の一端を披露してくれた。それに触発されて、こちらもすでにYouTubeで公開したビデオを中国のビデオサイトにあげてみようと、週末にかけてあれこれと試した。結論として、予想以上の苦闘だった。メモをしておく。

「騰迅視頻」。例のWeChat(微信)と連動しているので、まずはこれを試した。新規登録はQQ、WeChatの口座からという二つの選択しかなく、WeChatからすると、ビデオアップロードはできず、QQへと誘導される。そのQQは、海外からの新規登録を受け付けていない。ということで早々に諦めた。

「優酷」。こちらは中国のビデオサイトの老舗だ。しかしながら、おそらく繰り返しの合併などを経て「土豆」などの大手が傘下に収まったなどの事情からきたのだろうけど、互いにリンクされたユニットはあまりにも雑で理解しがたく、根気よく試さざるを得ない。最後の段階になっても、どうやら「大魚」にならないと、作者の写真や紹介などを入れるようなオプションが与えられず、個別に書き入れたビデオの紹介は閲覧の画面に現われてこないなど、かなり不完全な公開となった。その「大魚」となるためには、中国国内の銀行情報まで必要となり、海外からはそもそも無理だった。

「Bilibili」。とても妙な名前だが、とにかくいまはかなりの大手に成長したものだ。一通り最小限のことをこなすまでにはさほど苦労しなかったのだが、同じく「実名審査」というハードルがあって、パスポートなどの個人情報が必要とされ、しかも本人の顔写真とともに撮影されたものでなければならない。国内の銀行情報がなければ、大半のサービスが受けられない。そしてこちらの大きな特徴は、アップロードしたものが審査を受けなければならず、しかもタイトル集成といった編集作業も、あらためて審査の対象とされる。それも数時間が必要となって、自動審査ではない。ただ、週末にかけての作業なのに、迅速な結果が戻ってきたことには、小さな驚きだった。

とにかくかなり勝手が違う経験だった。このようなところからも分かるように、インターネットの世界もそのうちかなり方針の違う展開が生まれてくるものだなと、そのような徴候はすでにこんなところで見られたのだ。それはともかくとして、日本の古典は、中国でもしっかりと熱心な学習者、愛読者に届くことを秘かに祈っている。

黄表紙『敵討義女英』(YOUKU)(bilibili

2020年2月22日土曜日

因幡国の娘

注釈絵で読む徒然草」と名乗って、週二点のGIF動画の公開をつづけている。その中、第40段について、「妙な話」「満足な答えが得られない」とのコメントに対して、興味深い教示が寄せられた。小林秀雄の『無常といふ事』(1946年)を紹介し、それをめぐって議論する、わずか数週間まえのブログである。

あの批評の大家をして同じく「珍」をもってこの段を語らせたことには、まずは驚いた。一方では、小林の論が向かう先には、「無常」という大きなテーマにおいての兼好の立ち位置であり、兼好の書き方を鋭く指摘したと賛同しながらも、あくまでも抽象的で、同じ指摘は『徒然草』のほとんどの記述に当てはまり、その分、この40段への答えにはならなかったとも言えよう。

そこで、栗しか食べないという因幡国の娘をめぐり、その親がすべての求婚を断ったということをわざわざ記した理由とは、はたしてどこに求めるべきだろうか。兼好がそれを明記しなかった以上、読み手が答えを探るほかはない。はたして『徒然草』を熱心に読んでいた江戸の文人たちは、さまざまな言説を残してくれた。『徒然草諸抄大成』を頼りに二、三上げてみよう。娘の親を褒め称える意見として、娘の外見と内実が一致しないことを悟っているから失敗を避けた(恵空和尚『参考抄』)、もともと持ち合わせていないものを世の中に求めるべきではない(高階楊順『句解』)などに対して、そのような娘を育てた責任はそもそも親にあるのだ(長頭丸『貞徳抄』)という辛口の批判もあった。まるで重奏を成したかのような互いに譲らないこれらの見解には、納得の答えが隠されているのだろうか。

2020年2月15日土曜日

電子ブック読書

ここ数週間、アマゾン日本が提供している「Kindleunlimited」には海外からでも加入できるのに気づき、電子ブックを数冊読了した。なかには新刊で話題になったタイトルを含め、読み放題でクリック一つで手元で披けたことは、やはり気持ち良い。そして、あらためて電子ブックという媒体を眺めた。

キンドルの電子ブックは、とりわけ複数のデバイスで利用できることを謳っている。個人的にはまさにそのような読者の部類に入る。どこでも握っている携帯、圧倒的に利用時間の多いパソコン、サイズやOSがそれぞれ異なるタブレット、そして電子インクのキンドル端末まで並列に手元に置き、その時の気分にあわせて切り替えている。こうなれば、一冊の書籍の続きを開いたりした場合、まず気になるのはページの記憶や移動だ。電子ブックにおいて、そもそもページという概念は曖昧だ。フォントやテキストサイズを調整すればすべてそのまま全体のページの数に響く。キンドルは一通りページ数の表示を保っているが、一部の電子テキストアプリはすでに「ページ」を不要にして、代わりに行の数を利用するようにした。当然な対処だろうが、読書に伴う引用、批評、他人との交流などきわめて基本的な行為は、どうしてもとまどいが多くて、もどかしい。

現在の電子ブックの主流は、紙書籍に付随してそれを「電子化」することを制作の基本としている。そのため、どうしても紙書籍らしく作ることから出発し、紙媒体へのリスペクトの形で現れたさまざまな工夫は、在来の読書習慣を受け継ぐという理由から必然的に要求される。その分、デジタルの媒体になったことの特有の側面はなおざりにされてしまう。読書活動が必要とする基本的な期待に応える機能は、どれも確立されておらず、音声、動画など他のメディアへの越境となれば、その方向性すらいまだ見えてこない。

2020年2月8日土曜日

男と女の間

男女の間、夫婦の姿、これを持ち出したらまさに人間の数だけさまざまなドラマがあって、それの平均像、理想像などを求め始めたらきりはない。だが、その分だけ、フィクションの世界では長く語り口とされ、弛まずに追求されてきた。

先週日曜に放送した「麒麟がくる」三回目に、目を惹く一瞬があった。土岐頼芸から妙な一言を囁かれた斎藤高政が、その真実を母深芳野に問いただし、それが斎藤道三に悟られ、側室としての深芳野は夫婦睦まじい様子を懸命に息子に見せるという件だった。これだけ密度の濃い情報を本のわずか数分間の会話や演技に託したのは、さすがに映像のマジックと言わざるをえない。それのハイライトは、女が男に体を寄せ合うという、いわゆる王朝絵巻を思わせるような構図を地で行く振り付けだった。丁寧な演出に思わず唸った。

一方では、絵巻に見る「男女ならびゐたる絵」(「十訓抄」の用語)をかつて追い求め、国文学研究資料館主催の研究集会で発表したことまであった。それを想起してみれば、目の前にあったような、視線を交わさない、まるで舞台の上に座って観客にこれでもかと見せつけるような構図は、意外と記憶に残らない。一つの細やかな課題が現われた。なお、その経緯を記した「男女の構図」では、発表内容の未公開が嘆かわしいと呟いたが、その状況はいつの間にかすっかり変わり、ただただ嬉しい。

絵巻にみる男と女の間

2020年2月1日土曜日

光秀と麒麟

光秀をめぐる出来事のあれこれは、日本の歴史を講義する場合、なによりも恰好のテーマであり、若者たちはいつも目をきらきらしながら話を聞いてくれる。そのようなところに、大河ドラマになっているのだから、いっそう好都合だ。

ただ文学的な脚色だと十分承知しているつもりだが、それでも「麒麟」の意図するところが分からない。伝説上のめでたい動物、ひいては平和などといった由来が信じられたとしても、それと光秀との関連にはぴんとこない。もともと歴史事件の解読としても、平和を願う人物像を信長に求めたら、もうすこし分かりやすいようなものだが。

あれこれと不思議に思っていたら、江戸時代に書かれた『絵本太閣記』には、光秀の身辺をまつわる記述にたしかに麒麟のことが出てきた。思わずはっとなって読み返した。例の、光秀怨恨説の一端を担う、徳川(作品の中ではあくまでも「東国より」の「上客」としたのだが)接待での失策を描く件の一行である。

「麟の脯、鳳の炰なしといへども、山海の魚鳥、数を尽して蓄設け」(三編巻七「惟任光秀再恨信長公」より)

脯には「ほじゝ」、炰には「つゝみやき」と、読みが振られる。麒麟や鳳凰の干したり、焼いたりした肉、というものだった。

さらに目を凝らして読めば、そのようなものを用意されたのではなく、なかったと書いてある。「太閣記」においてだって、麒麟はいまだやってこなかったのだ。なぜかほっとした。