2012年9月29日土曜日

勧進プレゼン

新しく担当した講義は、知らずうちに一つの楽しいスタイルが出来た。パソコンとプロジェクタが備え付けてある教室なので、クラスの最後の数分間、数枚の写真を取り出して、それを見せながら講義の要点を繰り返すものだ。そのクラスのつぎのテーマは、京都。自然にデジタル画像で洛中洛外図屏風を眺めてみた。数え切れない場面やエピソードが想像を心地よく刺激する。中でも、勧進の場面が目に飛び込んできた。

120929勧進とは、まずは何よりも布教を伴う宗教活動であり、その主体のお寺にすれば大事な経済営為であり、一人ひとりの僧侶たちにとっては精神も肉体も鍛えられる修行である。だが、それらの要素をすべて一瞬忘れさせるぐらい、屏風絵に描かれた場面は、一つの洗練された巧妙なプレゼンだったと見えて、なぜか大きく感心を覚えた。小さな団体に成しているわずかなメンバーは、それぞれはっきりした役割を担い、心得ている。先頭を走っている人は、差し出されたお金を受け取り、集団の最後いる人は、勧進主の名前を記入し、そのような長い名簿を一心不乱に読み上げる。一団はけっして黙々と移動するのではなく、大きな銅鑼を手にした僧侶は頭も上げないまましっかりしたリズムをたたき出す。そして、集団の中心に鎮座したのは、絵に描いた鐘であり、勧進の理由を分かりやすく周りに見せ付ける。周囲と一線を劃した服装、賑やかな音、虔誠な声、そのどれをあげてもこのグループの移動に従って辺りの視線が集まり、道行く人々は迷わずに懐を解き、真剣な眼差しを向ける。

しかしながら、大通りに向かって生活しているそこの住民からすれば、大げさな勧進は、これまた見慣れた風景の一つにほかならない。それを極端に象徴したのは、襖の隙間から顔を覗かせている女性の姿だった。僧侶たちの行列に明確な距離を保ち、はなはだ醒めた視線しか投げ出さなかった。勧進を一つの周到に用意されたプレゼンだと考えれば、その限界をまたきわめて象徴的に物語っているといわざるをえない。

e国宝:洛中洛外図屏風(舟木本)

2012年9月22日土曜日

皇女御産の図

大学での講義は、今学期の二週目も終わった。講義の一部として、普段は自分でもあまり見ていない絵画作品を、学生たちとじっくりと時間をかけて読んでみた。デジタル画像を教室に持ち込み、備え付けのプロジェクターに映し出して眺める。得がたい経験である。今週の一つに、細かな書き入れが着いている国宝「聖徳太子絵伝」の数場面があり、とりわけ太子誕生にスポットを当てた。

0922思い出してみれば、ちょうど去年のいまごろ、前後して二つの場所で御伽草子に描かれる出産を取り上げていた。それと比較してみれば、まさに中世とそれ以前の情況が対照的によく分かる画像実例なのである。「間人皇女御産」との書き入れが、人物や出来事の内容を過不足なく明示しているが、ビジュアル的な表現は、子供を抱く皇女と、その彼女を囲む五人の晴れやかな姿のみである。厩戸の前という伝説が表現の対象となり、子供よりも一回り大きくスペースを占めたりっぱな馬が顔を覗かしている。そして、突拍子もないぐらい華やかな美女集団の姿は画面いっぱいに溢れ、どこかまったく場離れした構図を成している。敢えていえば、つぎの出産祝賀の構図こそ、男性たちも姿を見せて、後世に広がる出産の構図に繋がっているのである。

いうまでもなく、この出産の様子は、中世に喧伝された太子伝の一端を担うものだ。中世の言説を丁寧に掘り下げ、読み比べていけば、豊かでいて、時と共に変化し展開する多彩なイメージが見えてくるに違いない。いつかの課題にしたいものだ。

e国宝:「聖徳太子絵伝

2012年9月15日土曜日

漢字伝来

勤務校は新しい学年の始まりを迎え、あっという間に最初の一週間の授業が済んだ。今学期は、はじめて「文明概論」を受け持ち、概観する知識を、それこそ自分でも勉強しながら講壇に持ち込むこととなる。50名を超える若い人々の真剣な眼差しを受けて、気持ちの良い張り詰めた時間を計13週間ほど続く。

120915さっそくはじまった講義テーマの一つは、日本文明の始まりがあった。となれば、漢字伝来は避けて通れない。現存する最初の文字の姿をすこしでも実際に見せてあげようと思って調べたら、江田船山古墳出土「銀錯銘大刀」銘文がリストに上がってくる。そこで、適当な画像をどこに求めるべきだろうか。すこし前のやり方だと、写真が入っている参考書、教科書を漁り、大型の図書館でも近くにあれば、国宝全集などのアルバムを開けば、なんらかの結果が出てくることだろう。ただし、おそらくどれも高精度の画像が望めず、かつ部分の写真がほとんどだから、だれかが選んだ部分を適当にそのまま使い、全体を見通した上で自分の手で画像を取り出すことなどはとても無理なことだったろう。しかしながら、デジタル環境において、事情は一変した。所蔵が東京国立博物館だと分かれば、「e国宝」、「カラーフィルム検索」サイトにアクセスすれば、呆気にとられるぐらい簡単に全体画像が手に入った。改めてスクリーンを見つめ、感動を覚えた。

いまや常識になったものだが、デジタル情報には検索という利便性がある。ただ、一発の検索をあまり信用すればとんでもない失敗にも繋がる。この実例においても、東博サイトの内部の情報は、インターネット全体の検索では浮かんでこない。言い換えれば、さきの参考書を使うような要領がどうしても必要となり、一冊の本や一つのシリーズの代わりに、特定のデジタルリソースに目を向ける予備知識が要求される。他の人にすこしでもこの手がかりを伝えようと、さっそくウィキペディアの「江田船山古墳」項目に外部リンクを付けておいた。

ウィキペディア:江田船山古墳

2012年9月8日土曜日

「リンク」あれこれ

ここに取り上げたいのは、ウェブサイトのリンクである。偶に目に止まった中国語による日本紹介の雑文は、日本の街角に飾られた宣伝、テレビ画面を賑わせるコマーシャルなどがインターネット情報についてリンクを紹介しないで検索キーワードを提供するのみだと、すっかり感心した口調で紹介している。思えば、たしかにその通りだ。しかも目の前の課題に一つのヒントになった。

そもそもインターネットサイトのアドレスは、日本語の中に置いたら、どうしてもその異質な感じを拭いきれない。口で伝え、耳から受け止めるためには、英語なら至って自然だったものでも、どうしても発音しづらい。「WWW」だってどう言うものか、英語らしく発音するほど違和感が耳障りになると、アナウンサには同情せざるをえない。一方では、書面になればいいというわけでもない。そもそもリンクは長くなるばかりだ。サイバー運営の理屈以外、ファイルに漢字を入れたり、データベースと連動したりと、技術的な理由はいくらでも挙げられ、結果としてはたいていのアドレスは英語としてだって読めるものではない。これに対応ために、もちろんさまざまな術が施されている。ツイッターにある自動短縮、手動短縮のオンラインサービスなど枚挙に暇ない。しかも開発関係者は、公開資料に固定リンクを割り当てることをもって、リンクの流動性の排除に真剣に取りかかっている。最後にもう一点、新聞や雑誌でさえ縦書きが主流のレイアウトにおいて、リンクはどんなに短くても、なじまない。

手元の課題とは、論文の中でリンクをどのように記述するかというものである。あるいは検索後のみという要領を生かして、引用サイトの公式タイトルを明記して、特定の記号を添えてそのタイトルで検索させるという方法を取るべきかもしれない。はたして関係編集者に受け入れられるものだろうか。

2012年9月2日日曜日

ランパント

120901観光がてらにバンフにあるホテルに入り、古風のロビーを歩き回った。重厚な一室の中を覗けば、壁にはライオンの紋章が描かれ、その部屋に続く廊下に敷かれた絨毯にも似たような模様が描かれている。たまたま友人が最近車を購入して、それのロゴは、同じく立ち上がって、前足を上に差し伸べるポーズを取っているものである。カナダのホテルとフランスの製造会社が繋がっているのでないかと、にわか興味が湧いてきて、さっそく傍にる若い係りの方に聞いてみた。「分からない」、「意味ないじゃない?」と、そっけない返事だった。

どうだろうか。思わず自分で調べてみたくなった。そこで、さっそく「ランパント(rampant)」という言葉に出会った。この言葉一つだけで、このポーズ、ポーズの主であるライオン、という情報がすべて入っている。しかも、ライオンのこの特定のポーズ以外、この言葉には指すことはなにもない、ということが分かった。これだけには止まらない。これとグループになっている言葉には、さらにライオンが後ろ足を地面につけて座ることを示す「シージャント(sejant)」、前足を差し出しながらも頭を後ろに向ける「リガーダント(regardant)」といった一群の言葉が存在することを知った。これを統括するのは、あの豊穣な伝統を誇るヨーロッパの紋章についての学問であり、とりわけ紋章記述(blazon)を構成するものである。言い換えれば、これらの言葉の存在は、まさに紋章の内容の抽象化、抽象された紋章への認識、認識を言葉をもって描写する、という一連の実践に集約したものであり、大きく言えば図像をめぐる観察、記録、伝承を具体的に物語る貴重な一風景なのである。

このランパントを用いた中世の貴族、古くからの伝統を大事にする国などの実例は、数えきれない。十四世紀はじめのフランス王ジャン一世の紋章をはじめ、同じテーマにおいてさまざまなバージョンが伝えられている。その中にあっては、十九世紀半ばに創業した会社、あるいは十九世紀終わりに開業したホテルなどは、同じランパントを選んだとしても、まさに新参者にほかならない。そういう意味で、ホテルの若い方のそっけない返事は、違う意味でかなり的を得ているのかもしれない。