2021年7月25日日曜日

京菓子と徒然草

今年は、『徒然草』がちょっとしたブームになっている。学術の界隈では、仏教文学会と金沢文庫共同企画の講演(動画配信公開)、中世文学会春季大会シンポジウム(配信公開対象は当日参加者のみ。近世文学会の公開があるだけに残念)が広く話題になった。そして、京都では有斐斎弘道館他主催の京菓子展「手のひらの自然ー徒然草」があって、裾の広さが示された。

京菓子展の公式ページを覗いた。楽しい。同じ企画の七年目にあたるらしい。眺めてみれば、琳派や蕪村といった絵画、百人一首や万葉の歌などのテーマに続くもので、兼好の思弁的で、ときには饒舌な随筆は、この流れにおいて明らかに新しい挑戦が仕掛けられている。それにしても、趣旨解説するための数行は味わい深い。数えてわずか二百文字ちょっとの文章だが、「江戸時代の文芸」、「不安定な世の中」、「不完全」、はてには「美意識の原点」(日本的な意識?)と、どこか『徒然草』読解の新たな指針を密に込めた挑発的な言説だった。

思えば表現の媒体としての菓子と随筆との組み合わせは人をわくわくさせる。慎重に構成された描写を抽象化し、そこから得られたコンセプトや感じ方を菓子という具体的な物体に置き換える。まるで離れ業だ。発表は秋ころになるだろうが、とても楽しみだ。

2021年7月17日土曜日

国宝指定

二日ほどまえに伝わってきたニュースの一つには、新たな国宝指定があり、今度「蒙古襲来絵詞」が筆頭になった。この絵巻が迂闊にもとっくに国宝だと思い込んでいて、いささか意外な思いでこれに接した。たしかに報道記事を読むと、「国宝級」などの記述が目立つ。「読売新聞」のオンライン記事は、三の丸尚蔵館が1993年に開館したこと、十分な保護があるため文化財の指定をされてこなかったことなどと親切に解説している。

「蒙古襲来絵詞」は、繰り返し読んだ経験がある。すでに二十年もまえになるが、その一端をある国際シンポジウムで発表し、活字記録まで残している(リンク)。さらに「音読・日本の絵巻」の一点として全文朗読を試み、欠字などにずいぶん苦しんだことを記憶している。一方では、その朗読の音声が妙な形でニコニコに登場した結果には、いまなお不思議でならない。(「「ニコ動」デビュー」)

デジタル環境が凄まじいスピードで進化している中、この絵巻への満足なアクセスはずっと叶えられないでいる。これもずいぶんと昔から公開されたものだが、小さな画像での全巻閲覧、しかも模写本との比較、英語による注釈まで添えられたサイトが稼働されている。古典作品のデジタル公開をめぐるさまざまな考慮や躊躇は、すこしずつ過去のものになったいま、この度の国宝指定を機に高精細画像によるオンライン閲覧が実現できることを切に願いたい。

2021年7月10日土曜日

古画会唱歌

だいぶ古いニュース記事がたまたま目に入った。北京故宮が主催する、中国の古典絵画の魅力を音楽で表現するコンテストだった。たいへんキャッチなコンセプトのわりには、この行事の行方や結果などはさほど記録に残っておらず、関連の報道も見られない。古典をめぐる数々の模索の中の一つだったと思われる。それでもYouTubeに公開している二つの宣伝ビデオを繰り返しで眺めた。

ビデオの中では、中国の名画についてさまざまな現代的なアプローチの事例が開示された。絵の内容をアニメにすることはすでに方法的には確立された感があるが、現代的なタッチで古い絵を描き直し、二階建ての水車の構造や利用を伝え、あるいは鷹峰の地名を解説して空飛ぶ鷹がやがて山となって固まる。二番目のビデオでは、絵に文字を入れて、楽器の存在を浮き立たせて名前を加える。思いつかなかったのは、AI技術の導入だ。山々の画像から輪郭を抽出し、それをそのまま歌のリズムや詩の脚韻とし、それに文字を合わせる。一つの大胆な方法としての有効性や達成はともかくとして、名画に対面するにあたっての魅力的で、チャーミングな提案なのだ。

中国の古典絵画は、日本のそれと較べて、叙事よりも詩的な美しさを追及する傾向が明かだった。それが絵の構図、作品の形態、名作をめぐる記述法、鑑賞法などもろもろの方面に現われている。そして、総じて音楽との距離も、日本のそれより中国のそれがはるかに近いと考えられよう。このような伝統に立って、デジタルやAIなどの技術を躊躇なく生かして古典の画像に立ち向かう姿勢は、まさに刺激的だ言いたい。

丹青千里MV
古画会唱歌

2021年7月3日土曜日

ネット授業2021

二週間ほどまえに触れた予定のネット授業は、今週無事に終わった。いまやさまざまな行事がリモートで行われ、それには遠いはずの大学授業もオンライン提供がすっかり定番となった。教室に機材を持ち込むための苦労や、カメラ写しを配慮したライトの設置などの見逃しがちな気配りはZOOMのようなソフト一つで置き換えられ、多くの学生が携帯でそれにアクセスするなど、ネット授業は、その運営においてすっかり気軽なものとなった。

いつもながらこちらから提供する内容よりも、聴講する学生たちの受け止め方やその反応は頼もしい。今度のそれは、文字と画像、古典とデジタルという二つのテーマにきれいに収斂された。クラスでの質問応答も、授業のあとの感想文も、これにまつわるものが圧倒的に多かった。前者については、文字ばかりと認識していた古典には、絵もあるんだ、絵の表現がここまで慎重で自由自在、読み応えがあって魅力的だと繰り返し寄せられた。そしてそのような絵をもっと読みたいと続いた。後者については、古典を古典として片付け、見過ごすのではなく、現代の生活に生かしたいと纏めてくれた上で、こちらから提示する動画や朗読などのアプローチに共感するとともに、さっそく自分も動画を作りたい、講義を聞きながらすでに手もとでイラストを描いていると、さすがにデジタルネイティブ世代だけあって、なんとも心強い。

記録を調べれてみれば、このネット授業の最初回は2001年の秋、ここにもそれを記した。(「スカイプ授業」)あれから十年も経ったが、ほぼ毎年のように続けてきた。遠い日本への一つの窓口として、講義する本人が一番収穫が多かった。心から感謝したい。