2013年9月28日土曜日

羅生門のヤモリ

今週、取り上げたのはあの「羅生門」。同じく学生時代からさまざまな思い出を抱いてきたものだ。数え切れないほど読みなおしたはずだが、それでもクラスの中という設定となると、若い学生に教わるものが多くあった。

三十分ほど講壇を学生に譲ってあげれば、さまざまな読み方が提示された。その中の一つ、作品の中に登場した動物に焦点を絞った。ストーリの主人公に名前が与えられていない事実にあわせて、人間の動物本能が著者の意図の一つに違いないとの指摘だった。具体的に用いられたのは、下人と老婆130928の対面に現れた守宮と猿。なるほどと思った。しかもその目で読めば、短い文章の中には、きりぎりす、鴉をはじめ、情況や比喩で登場した動物たちの顔ぶれは、狐狸、犬、猫、守宮、蜘蛛、猿、鶏、肉食鳥と、じつに十と数えられた。もちろんさらにストーリの内容に関連する蛇と魚も忘れてはならない。そこでヤモリから始まったのだから、そのイメージとは、と問えば、農場育ちの経験をもつ若者が積極的に語り出した。しかしながら、どうやらプラスになるイメージはなかなか現われてこない。繰り返し問いただしたら、蚊を喰ってくれるぐらいかな、とあった。こちらはなぜかすぐに漢方薬の事を思い出した。

そもそも羅生門という用語は、興味深い。日本語での一番新しい用例としては、最近のとある演歌のタイトル、それもどうやら男らしいという意味で用いられたものだった。台湾での政治用語、中国映画での借用などと脈絡もなく紹介したら、学生は「Rashomon effect(羅生門現象)」と持ち出した。なんと英語ウェキペディアにも登録され(日本語ウゥキの対応項目なし)、しかも同じ構想をもつ映画九点、テレビドラマ三十六点も紹介された。羅生門という言葉も、まさに「ヤモリ」そのものなのだ。

2013年9月21日土曜日

梓慶為鐻

学生たちとともに読む「夢十夜」。第二編に選んだのは第六夜だった。明治時代に紛れ込んだ運慶が、大勢に見守られて仁王の像を作るというあの夢である。個人的にはかなりの思い出があるもので、学生時代の、人生一大事の日本語試験に、解読文として読まされたものだった。ただ作者名も夢との設定もまったく知らされず、学習者として大いに苦しまれたという悔しい経験は、いまでも深く記憶に残っている。

久しぶりにこれを読み直し、関連の文献まで目を通したら、夢の設定は中国の故事を踏えていたということにはじめて気づいた。あの荘子に説かれた逸話だった。梓慶(しけい)という名の匠が、楽器である鐻(きょ)を作る、という話である。そこでは、人間離れの神技について、周りの驚愕に満ちた視線ではなく、匠本人が丁寧に解説を披露した。それによれば、しかるべき修行のプロセスを経て、ようやく到達できた最高の境地とは、自然の樹木を前にして、「見成鐻」、形を備わった鐻を自ずから見出せるのだと教わる。このように梓慶と運慶、楽器と仏像との対応がしっかりと結ばれ、芸術の境地が立体的に見えてくる。もともと、このような典拠が分かっていても、130921漱石の夢の魅力がすこしも減らず、とりわけ「土の中から石を掘り出す」といった洗練された比喩は、いかにも漱石らしく読む者に伝わり、表現としてますます光っている。

友人の好意により、今年もある書の同人展への出品を誘われた。試しにこの故事を内容とし、日本語による説明を添えた。ふだんまったく筆を取らないことは、書の先生にはすぐ覚られるに違いないが、一つの貴重な思い出としてここに記しておきたい。

2013年9月14日土曜日

夢百年

新しい学年が始まった。今学期の担当には、現代文学がある。名作を英訳で読むという内容で、漱石の「夢十夜」から始まった。十日に一章というベースなので、十夜は長く、第一夜と六夜だけに絞った。丁寧な翻訳もあって、若者とともに夢を読む、という楽しい経験をしている。

夢の名作だから、とにもかくにも夢心地を楽しむことを忘れないでほしいということから入った。誰でも共有できる夢の経験を思い出してもらい、そこからストーリの内容を読み取れるように努力した。それにしても、ストーリの内容というのはどのように捉えるべきだろうか。学術論文の検索サイトで調べたら、「夢十夜」と名乗る論考だけで231篇と数えられる。ちらっと目を通しても、兄嫁への恋心など作者個人の事情を物分り良さそうに嬉々と並べるなど、ちょっぴり腑に落ちない。あるいは文章にあった男の「腕を組」み続けるというポーズ、しかもそれが「わたし」だったことが邪魔したからだろうか、多くの解説はフォーカスが合わない。素直に読んで、一人の男の信じて疑わない、一途な純愛物語として受け止めてよかろう。なによりも、疑わずに言われるとおりに事を進め、じっくりと百年を待ち続けることは、美しい。

一方では、クラスで取り上げる予定の別の一編は、三島の「卒塔婆小町」。夢こそ謳っていないが、漱石の一夜とのリンクはあまりにも多い。恋する男女の死と再会、それまたちょうど同じ百年を待つなど、まるで漱石の夢の変奏だ。しかしながら、こちらのほうでは、百年待った男が、解放され、救われたのではなく、まるでその逆の結末を辿った。いわば女性に喰われた男の物語である。詩人というレッテルを貼られたとは言え、簡単に個別化することができず、はなはだうす気味悪い。このもうひとつ百年の恋は、若い学生たちにどのように映るのだろうか。とても気になる。

2013年9月7日土曜日

英語落語

20130907英語による落語、英語を話す人を対象にし、伝統的な落語のスタイルを用いて、あくまでも「Rakugo」の市民権を得ようとする試みである。きわめて明瞭な概念であり、広くて奥深い実践である。ただ、たとえば日本に行ったらわざわざ英語でのものを求めたりはしないこともあって、これまで意外と一度も見たことがなく、先週、市内にある小さな劇場でそれを楽しむ初体験をした。落語家は、カナダ人の桂三輝。しっかりとした訓練を受けたことは一見して分かり、一流のパフォーマンスを堪能できた。

落語とは、伝統的な日本的なものである。それを英語という違う言語に置き換えてしまえば、それが日本的なものだということがいっそう明らかになってくる。一番の違いは、おそらく笑いの頻度だろうか。落語にある落ち、ほんとうはけっしてそう数多く期待はしない。じっくりと話を聞き、物まねや誇張した口ぶり身振りを楽しみ、その過程のどこかでどっとした笑いが生まれてくる。一方では、英語になると、どうしてもそんなに悠長に構えていられない。リズムのベースは、どうしてもトークショーのそれに重なる。同じ日本語による落語で考えるなら、寄席とテレビの差、とでも喩えられようか。もともと伝統芸能のあるべき格好など難しいことを考えないで、すなおに劇場に座っていれば、笑いが多いということは、けっして居心地の悪いものではない。

英語話者による英語落語となれば、自然に言葉そのものをいじりはじめる。日本語における挨拶の仕方、英語語彙借用、発音のトリック、表現のパターンなどなど。どれもこれも日本語学習者に聞かせたいものばかりだ。笑いのある説明、センスの良いユーモア、出来るものなら日本語教育の現場でも努めて生かすべきだと改めて思った。