英語による落語、英語を話す人を対象にし、伝統的な落語のスタイルを用いて、あくまでも「Rakugo」の市民権を得ようとする試みである。きわめて明瞭な概念であり、広くて奥深い実践である。ただ、たとえば日本に行ったらわざわざ英語でのものを求めたりはしないこともあって、これまで意外と一度も見たことがなく、先週、市内にある小さな劇場でそれを楽しむ初体験をした。落語家は、カナダ人の桂三輝。しっかりとした訓練を受けたことは一見して分かり、一流のパフォーマンスを堪能できた。
落語とは、伝統的な日本的なものである。それを英語という違う言語に置き換えてしまえば、それが日本的なものだということがいっそう明らかになってくる。一番の違いは、おそらく笑いの頻度だろうか。落語にある落ち、ほんとうはけっしてそう数多く期待はしない。じっくりと話を聞き、物まねや誇張した口ぶり身振りを楽しみ、その過程のどこかでどっとした笑いが生まれてくる。一方では、英語になると、どうしてもそんなに悠長に構えていられない。リズムのベースは、どうしてもトークショーのそれに重なる。同じ日本語による落語で考えるなら、寄席とテレビの差、とでも喩えられようか。もともと伝統芸能のあるべき格好など難しいことを考えないで、すなおに劇場に座っていれば、笑いが多いということは、けっして居心地の悪いものではない。
英語話者による英語落語となれば、自然に言葉そのものをいじりはじめる。日本語における挨拶の仕方、英語語彙借用、発音のトリック、表現のパターンなどなど。どれもこれも日本語学習者に聞かせたいものばかりだ。笑いのある説明、センスの良いユーモア、出来るものなら日本語教育の現場でも努めて生かすべきだと改めて思った。
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