2013年9月14日土曜日

夢百年

新しい学年が始まった。今学期の担当には、現代文学がある。名作を英訳で読むという内容で、漱石の「夢十夜」から始まった。十日に一章というベースなので、十夜は長く、第一夜と六夜だけに絞った。丁寧な翻訳もあって、若者とともに夢を読む、という楽しい経験をしている。

夢の名作だから、とにもかくにも夢心地を楽しむことを忘れないでほしいということから入った。誰でも共有できる夢の経験を思い出してもらい、そこからストーリの内容を読み取れるように努力した。それにしても、ストーリの内容というのはどのように捉えるべきだろうか。学術論文の検索サイトで調べたら、「夢十夜」と名乗る論考だけで231篇と数えられる。ちらっと目を通しても、兄嫁への恋心など作者個人の事情を物分り良さそうに嬉々と並べるなど、ちょっぴり腑に落ちない。あるいは文章にあった男の「腕を組」み続けるというポーズ、しかもそれが「わたし」だったことが邪魔したからだろうか、多くの解説はフォーカスが合わない。素直に読んで、一人の男の信じて疑わない、一途な純愛物語として受け止めてよかろう。なによりも、疑わずに言われるとおりに事を進め、じっくりと百年を待ち続けることは、美しい。

一方では、クラスで取り上げる予定の別の一編は、三島の「卒塔婆小町」。夢こそ謳っていないが、漱石の一夜とのリンクはあまりにも多い。恋する男女の死と再会、それまたちょうど同じ百年を待つなど、まるで漱石の夢の変奏だ。しかしながら、こちらのほうでは、百年待った男が、解放され、救われたのではなく、まるでその逆の結末を辿った。いわば女性に喰われた男の物語である。詩人というレッテルを貼られたとは言え、簡単に個別化することができず、はなはだうす気味悪い。このもうひとつ百年の恋は、若い学生たちにどのように映るのだろうか。とても気になる。

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