2018年2月24日土曜日

機械読み上げ

今週伝わってきたニュースの一つには、Amazonからの新技術の発表があった。「Amazon Echo」シリーズに読み上げ機能が組み込まれ、購入されたキンドルの書籍を音声で指示をすればすべて読み上げてくれるというものである。技術関連のWeb記事などにとどまらず、一般の新聞やラジオ番組にまで取り上げられ、大きな関心を集めた。すでに普通に実現されている技術なのに、ここまでスポットライトが当てられ、かつ反響があったことにはちょっと驚いた。

個人的には、読み上げられるものを聞き続けるということは、英語圏で生活を始めてからずっと日常の一部分だった。英語圏のベストセラーなどは、多くの場合出版と同時にそれの朗読バージョンが発売され、そして紙媒体の小説と同時に市民図書館に入ってくる。20年以上も前には、朗読されたものは、ダイジェストの形でカセットテープに収録され、それを借りて大事にウォークマンに入れて、どこに行っても聞いていたものだった。いつのまにかそれが音楽CDの形に姿を変え、さらにmp3フォーマットのファイルを同じくCD-ROMに載せて貸し出されるようになった。この段階では、ダイジェスト版がだんだん姿を消し、一冊10時間程度の全文朗読が主流となった。今でもmp3のフォーマットが基本だが、専用のアプリを利用してアクセスし、図書館にまで足を運ぶような必要さえなくなった。小さなイヤホンを耳に入れて、すでに数えきれないほどの英語の小説を聞き続けてきた。一方では、このような慣習に対して、日本語による内容があまりにも少ないということをなんとも嘆かわしい。日本の出版文化の一端を表しているものだが、音声による読み物の享受にさほど需要がないことは、自分には不思議なことの一つである。

考えてみれば、かなり成熟した読み上げの技術でも、Amazonのようなアプローチが注目を集められたこと自体にはいろいろなヒントを隠している。とぴっきり新しい技術ではなくても、利用の方法を限定し、使いやすいプラットフォームあるいはハードウェアに載せるだけで、かなりのユーザーにアピールできるものとなる。大いに記憶にとどめておきたい。

2018年2月20日火曜日

デジタルを語る

関西大学にKU-ORCAS(アジア・オープン・リサーチセンター)が設立された。キックオフの行事に招かれ、週末にかけて大阪へ出かけ、たいへん勉強になる経験をしてきた。前面に打ち出された領域は、名前が示すごとく「オープン」に重きに置いたものである。典籍資料の所蔵に恵まれ、研究業績にもトップクラスの実績を誇る研究機関である。そのような研究者の集合が、しっかりとつぎなる一歩に力を合せ、具体的なアプローチについてもきわめてオープンな構えを見せていることはとても印象的だった。ここに、開かれた研究の基盤になるものとして、自ずとデジタルにスポットライトがあたった。

二日にわたる講演のテーマを一覧すればすぐ分かるが、じつに多彩な分野からの研究者により、異なる問題意識のもと、それぞれの実践の結果や現状への考察が語られていた。それらの一つひとつにじっくり聞き入り、得るところは多かった。一方では、与えられた45分の発表には、いま脚光を浴びているIIIFを取り上げた。リソースの公開や現行基準の向上に第一線で尽力している研究者に対して、あくまでも一利用者という立場を訴え、個人的な疑問まで投げかけてみた。強烈なビジュアル上のインパクトに押され、IIIFの可能性はなかなか捉えきれていない。IIIFとは即最高画質のデータを意味しない(満足できない画像でもIIIFに乗せられている)、同じ典籍のデジタルデータの取り直し、公開者の都合によるリソースの持続など、素朴な不安を持ち出した。これらの質問に対して、情報学の立場からの回答はじつに興味深かった。「データは大事」、言い換えれば上質なデータなら環境が追ってくるという心強い励ましと、「DOIも二十年近く続いたから」(Digital Object Identifier、2000年から実施)、つまりいまの勢いならIIIFはしばらく安泰という、いかにもデジタルの「中の人間」ならではの観察と立ち位置からの発言だった。

もっぱら画像資料におけるIIIFの意味と利用について考えてきたのだが、しかし音声、動画への対応がすでに具体的に検討され、開発されているとのことが報告された。考えてみれば、画像データと同じく、音声も動画も一つのデータセット(続き)の中に立ち入ってアクセスするような需要は厳然と存在している。ただ、実現すれば、IIIFという名前は相応しくなくなる。「I」が一つ消えて、「M(Media)」に取り替えられるという展開なのだろうか。

東アジア文化研究の新しい地平

2018年2月10日土曜日

キラキラネーム

日本語作文クラスの出来事である。日本語はいまだけっして自由な境地に至っていない、語彙も限定されている学生たちだが、漫画やアニメの話になると、俄然自信のある態度を見せ、「六道骸」やら「雲雀恭弥」やらの名前を並べて、「ろくどう・むくろ」などはっきりした口調で教えてくれた。まったく予備知識を持たない教師のこちらは、あっさりお手上げ状態だった。

かつてはいわゆるキラキラネームのことが盛んに議論された。新聞記事などで紹介された「今鹿=なうしか」、「首相=キャプテン」などの例は強烈的だった。一度は小学校に足を踏み入れて子供たちの名前のリストを見たら、「陽起=ひお」、「紫記=しき」、「海闘=ゆう」など、内心ほとんど絶句だった。どうやらこれだけではまだまだ人名についての可能性が尽きたにはほど遠い。漫画やアニメのような最初から仮想を前提とする世界になると、名前の付け方は一層活発的で、奇想天外なものになってしまう。日本のことに関心を持ち始めたずいぶん昔のころ、中国人の二文字か三文字の名前に比べて、三文字か四文字の日本人の名前のほうは、バライティーがあって誤解が少ないのだと思っていたものだ。どうやら物事は誤解などのレベルでは終わらない。人名というものは、時代の文化や価値観を映し出し、想像や創造による独特的な世界とも緊密な関係を持っていることも見逃してはならない。

学生たちの作文は今週で五週目に入る。今年も個人的な体験などに基づく精力的な作文が並んでいる。遠くカナダにいて、日本にこの上ない関心を持つ若者たちのあり方の一端を探るという意味でも非常に読み応えがある。暇な折にはぜひ覗いてください。

日本語作文ボード

2018年2月3日土曜日

神々の姿

神様は、中世の人々にとってより近い位置にあったとよく言われる。このような言説の論拠やそれが示す着地はさておくとして、神々の姿をビジュアルに表現するにあたっての苦労や工夫は、やはり興味深い。手元に開いている「融通念仏縁起」の一段は、まさにそれを考えさせてくれる好例である。

同絵巻上巻第五段は、良忍に結縁の名帳が授かるとの奇跡を描く。諸天冥衆の名前が詞書に文字で記され、そしてその中の代表的なものが絵に姿を見せる。ここに、絵のほうに目を凝らして眺めれば、仏土の明王、天女、竜王に続き、日本諸国の神々が一斉に登場してくる。ただし、前者の、仏画や仏像に由来した躍動するイメージ群と明確に一線を画して、日本の神様は、すべてそれを祀る建物の景観に統一した。それらの様子はじつに叙事的だ。梅が満開する北野、猿が戯れる日吉社、海の上に社殿を構える厳嶋、川に面する賀茂社などなど、しっかりと建物の特徴や環境が捉えられて、そして塔頭が添える祇園、山の奥に隠れる稲荷などは、今日とは異なる昔日の様子を訴える。ただ、ここまで描写しても完璧に情報が伝達されたと思えないと覚しく、それぞれの建物に分かりやすい文字の注記が書き加えられている。(写真は清涼寺本より)

一連の神社のなかに、春日、伊勢、北野はいずれも鳥居にスポットが当たる。これも二週間前、京都での研究会で交わされた話題の一つだが、近代日本文学英訳の表紙には、鳥居が多く見られ、しかもその一部は内容とまったく無関係で、あくまでも日本の記号として用いられたのだった。ビジュアル表象として鳥居は、その根が思う以上深くて長い。