2016年5月28日土曜日

フェスブック・デビュー

いまさらながら、フェースブックはほとんど使っていない。自分のIDこそ、十年近く前からすでに取得しているのだが、あくまでも学生たちに唆られるまま、かれらの活動を見守るための受け身的な行動だった。そのような経緯から、かなりの数に上る友達招待にもほとんど応じないでいる。そこで「生活百景」サイトをきっかけに、近世文学を中心にした研究者たちの集まりに参加させてもらい、すこしずつ発言を試してみようという気持ちが生まれた。先週公開した黄表紙の動画はちょうどほどよいテーマであり、これを知らせるために、はじめて進んで書き込みをした。いわば遅ればせながらの実質的な「デビュー」だった。

結論から言えば、予想を大きく上回る手応えを得た。実際に発信してみて、いわゆる実名という仕組みのありかたをあらためて知らされた。集まりの登録者が「Like!」をクリックしてくれると、その人の名前が周知され、そしてその人の友達にこの動画の存在が伝わる結果になる。実際にクリックしてくれたのは、多くはこれまで交流のない方々ばかりだった。一方では、とても活躍されていて、このような小さなプロジェクトをわざわざ報告するわけにはいかない方々の名前も入っていた。そのような名前を拝見して、やはりなによりも嬉しい。一方では、伝わってきたもろもろの出来事にこちらから「Like!」をクリックしようと思っても、そのようなオプションが用意されていたり、いなかったりして、戸惑いも少なくなく、いまだ周りの若い人に説明してもらいながらの手探り状態だ。

ちなみに、黄表紙動画の知らせに対する反応数字をここに記しておこう。アナウンスしてまる一日経った時点では、「Like!」は24人、シャアは7人だった。そこから、動画のほうでは、一番目は54回見られ、四番目は7回見られた。万単位のヒットが当たり前というYouTubeでは、話にもならない数字だろうけど、40分以上の動画を一気に見ていた人がたしかにいたことは、一方ではとても嬉しい。しかも、そのような研究者に紹介されて、若い学生や熱心な学習者たちの視野に入るのではないかと想像し、そう願っている。

2016年5月21日土曜日

黄表紙朗読動画

だいぶ前から始めている「音読」の試みは、しばらくはまったく続けていない。ここ数日、手元の仕事が一段落し、なにかデジタル関連の作品を作ってみようという気持ちが起こった。今度は、単なる音声ファイルに留まらず、画像も同時に活かそうということで、動画にまとめることを目指した。作業の対象にはじめて黄表紙の作品を取り上げた。

底本がデジタル化されて公開されていて、かつ翻刻も行われたものを、ということで、さほど多く考えずに『敵討義女英』を選んだ。この作品は、全部で三十帖、翻刻された活字は七千文字弱、原稿用紙に直せば約十八枚という計算になる。普通のスピードで朗読したら、ちょうど四十分程度に収めた。黄表紙の作品群の常として、画像と文字の比率はほぼ同分量であるため、画像にクローズアップして人物の様子や行動、活動の経過や結果を見せながら、とりわけくずし字によって記録された文章と音声との対応を明示することに重点を置いた。それにより、文字そのものの形もさることながら、絵の中に入り込んだレイアウト、地の文と会話との距離、そして人物同士の呼吸の合った掛け合いなど楽しい要素が多数あり、動画を無心に見て行けば、その不思議なリズムに魅せられるはずである。江戸のストーリを耳から理解する、くずし字をとにかく目で追って慣れていくという、楽しみにも勉強にも参考になれればと願っている。

デジタル画像は、国会図書館で公開されたものから、一番解像度の高い画像ファイルを用いた。ただその画像は、周りの空白をそのまま残されているなど、ほとんどまったく手入れされていない。見やすいように、色のトーンを変えたりして、最小限の調整を加えた。そして、動画の公開にはYouTube利用した。さまざまなデバイスで簡単にアクセスできる上、コメントは入力する方法も用意されているので、関心のある方はぜひそこからも意見を残してください。

黄表紙朗読動画『敵討義女英』

2016年5月14日土曜日

子どもの姿

すでに六年前にもなるが、東京にある大学の学生たちのためにネットを通じて講義するという機会が与えられ、それがずっと年一回の形で続けられてきた。数えて六回目のそれは、この間の水曜日に行った。今度取り出したテーマは、絵巻にみる読み書き。一回目からずっと続いてきたやり方に従い、前もって四十分程度の内容を動画で用意し、それを見せたうえで、残りの半分ぐらいの時間をかけて学生たちとの会話に当てた。カルガリーにいながらにして日本の現役の学生たちとの交流は、このうえなく楽しい。

学生たちの発言を聞いて、とても印象に残った一つがあった。読み書きや手習いということとなれば、どうしても子どもの姿が対象となる。そこで、絵巻にみる子どもだが、わたしの目には、それらはいきいきとして、貴重でいて、なんともありがたい。この印象にはすこしも疑いを持たなかった。しかしながら、教室の中の学生たちに無理やり子どもの姿を見ての印象を聞いてみれば、なんと「老けている」、「男女の差は小さい」、はてには「可愛くない」と、じつに面食らった、意外なものだった。考えてみれば、思いつくものがないわけでもない。いまごろの学生たちは、少年少女の絵となれば、それこそあの漫画風のものが圧倒的になり、たとえ表現が極端に限られた絵文字といえども、そのような流れを汲んで、大きな目や誇張された表情など、抽象的でいて、視覚を刺激するものばかりだ。そのような描き方をすっかり慣れ親しんだ目には、絵巻の、半分剥落された人物などは、やはりどうしても物足らないと、率直にそう思うことだろう。

思えば極端なほどに仕上げられた今日の漫画風の子どもの姿は、一つの審美観を反映しているには間違いはないが、現実からかなりかけ離れていることを忘れてはならない。たとえて見れば、あの浮世絵と当時の実際の舞台俳優との距離ぐらいはあるだろう。後々の時代の人々の目には、漫画風の顔などは、似たようなインパクトを持つものに違いないと、なぜか漠然と想像したくなった。

2016年5月7日土曜日

底本の間違い

ここ数日、小さなプロジェクトに取り掛かり、室町時代物語の一篇「あきみち」を読み返している。いわゆる典型的な奈良絵本の体裁をもっていて、その流麗な変体仮名は、やはり見つめるほどに魅入られてしまう。そこで、底本に見られる興味深い一例をここに記しておきたい。

物語の主人公であるあきみちの妻がはじめて登場したところである。美人を形容する常套文句が用いられ、「みめかたちよにならびなき(見目、形、世に並びなき)」との描写が読まれる(六オ)。しかしながら、あまりにも言い慣れた文章だったからだろうか、なんとここだけ書写する人が緊張が切れて、二回書いてしまった。底本を翻刻した『御伽草子』(日本古典文学大系)もこれを見逃せず、「誤りと見て、改めた」と慎重に注釈を添えた(396頁))。ここに、底本をあらためて見れば、同じ文章であることには違いはないが、しかしながら、使われたかなのうち、「め」と「き」は違う字母のものなのだ。この事実からは、底本書写のどのような状況が推測できるのだろうか。書写のプロセスは、はたして読み上げられたものを聞き取りながら進められたのだろうか、それとも元となる文章を書写する者その本人が目で追いながら書いたのだろうか。普通に考えれば、後者のほうが自然に思われる。ならば、書写する人において、違う字母をもつ仮名は、どこまでも同質なものだったと認識されていたという結論にたどり着くことだろう。

ちなみに、底本は国会図書館に所蔵されている。デジタル化されてインターネットで公開されているので、簡単に閲覧することができる。古典文献へのアクセス環境の激変には、いまさらながらそのありがたさを噛みしめるものである。