2013年11月30日土曜日

春画動く

「shunga」という言葉は、このままの表記で英語の語彙に入ろうしている。そのための大いなる一歩は、現在大英博物館で開催されている特別展にほかならない。英語での新聞に止まらず、日本国内の新聞や週刊誌も揃って取り上げている。それも子供が登場した絵が展示から除外されたとか、このようなテーマの特別展はいまの日本で難しいとか、話題にこと欠かさない。

気軽に大英博の公式サイトを覗いた。現在進行中で、トップに挙げられている4つのテーマの二番目という位置に付けられている。展示のキャッチフレーズは、「他所とは一線を劃す日本の版画、絵画を発見しよう」である。特設ページにアクセスすると、まず目に飛び込んでくるのは、映画の予告編さながらの紹介動画である。言葉通りに、ここでshungaが動いている。131130ただ気になるのは、その動き方、あるいは動かして見せようとする絵の魅力の捉え方である。古典の絵に動きを加えるとなれば、まさにさまざまな可能性が選ばれる。絵の内容とリンクすることは、事は会話やら労働やらではないから、この場合遠慮して除外するとしても、あとは浮世絵だから、版を重ねて色を付けだしていくとか、木版そのものを彫り出すプロセスとか、多く考えられる。しかしがなら、ここの動画はあくまでもポップな音楽にあわせて絵の線が白紙の上に広がるという、今どきのパソコンソフトが提供しているスタンダードな処理方法に頼ったのだった。肉筆と木版との区別さえ定かではない、ひいて言えば主な展示品についての誤解さえ招きかねないもので、残念でならない。

金曜日の講義の内容は、まさに浮世絵だった。それも教科書は、わざわざ数行を割いてshungaを記述している。このヨーロッパでの出来事は、まさに最適の脚注なので。ただクラスが終わって、熱心な学生に聞いたら、まったくの初耳のものだったとか。「shunga」という言葉が英語に定着することなど、いまのところあくまでも幻なのだ。

Shunga: sex and pleasure in Japanese art

2013年11月23日土曜日

ハリウッドRONIN

来週最初の講義のテーマは、江戸の武士。教科書は、政治の執行者、道徳の手本という二つの側面を大きく強調している。それにあわせてあれこれと準備を進めていくと、今年も映画「47 ronin」が上がってきた。ずいぶんと苦労し、脚本も制作もかなりの紆余曲折を経たのだと伝わるが、映画館ではすでに予告編が流されているから、今年こそ無事上映することだろう。

師走となれば赤穂ものと、いつからかこういう相場が出来てしまった。それにしても北米までこの習わしに加わったとは予想もしなかった。しかしながら、予告編を見ていて、はなはだ呆れた。どこでどう苦労し、何を勘違いしたのか、さっぱり見当が付かない。僅かな情報からまとめてみれば、討ち入りの対象は、まったくの異界となってしまった。よっぽどの面倒があったからだろうか、この世とのつながりを映画はばっさりと切り捨てた。残されたわずかな関連と言えば、刀を武器にする以外、47という数字、そして、その数の人間たちが切腹した、といったところだ。予告にはその切腹シーンがきちんと入っている。集団で集まり、全員白装束して、反対側の人間が一人も見えない設定の中で、与えられた畳を前に妙に恭しく一礼する。設定としてはさすがに新鮮だが、長い伝説にビジュアル的な想像の新たな一頁を加えられようとしていることを思えば、気が重い。クラスでちょっぴり釘を刺しておかないいけないとしっかりとメモをした。

関連するニュースなどを見てみれば、すこし前のものだが、主演俳優の真面目なインタービューが乗っている。しかし語られたことと言えば、中国の武術、それも太極とやらの流派の師匠から指導を受けたことを嬉々として自慢気に語られている。同じ俳優は、夏に公開した、とある漫画をテーマにした武士もののファンダジー映画を主演したばかりだ。セットなり、ひょっとしたら画面まで使い回しをしていないかと、ツッコミを入れたくなった。

131123

2013年11月16日土曜日

清洲会議

このころ、伝説的な一大事件を語る、かなり現代的なニュアンスをもつこの言葉がかなりのヒットを得ている。個人的には、たまたま目に止まった電子ブックを購入し、さっと読み終わったころになって、これが映画とセットとして制作され、かつその映画もわずか数日前に封切りされたばかりだと知った。いまごろの時代劇は、天文やら、会議やらと、娯楽をベースにかなり対象を拡大したのだと感心した。目の前の講義の内容は、まさに信長と秀吉。クラスの最後の時間を利用して、学生たちといっしょに映画の予告編を楽しんだ。

131116同じ伝説を語るビジュアル的な古典材料といえば、おそらく右の絵だろう。「絵本太閤記」四篇の巻頭を飾るものだ。添えられた説明文は、「三位中将信忠卿之嫡男三法師君之像、羽柴四位少将筑前ノ守平ノ秀吉公之像」と読む。一つの歴史事件、あるいは闇に隠されたミステリアスな経緯をめぐり、それを語り伝え、思う存分に面白おかしく粉飾していく様子を至るところに伺える。ストーリの構成、文学的な虚構、歴史の虚実、そのどれを取り上げてみても、時間的にも空間的にもあまりにも離れているからこそ、すっかり楽しめる象になったものだ。たとえばこのような何気ない一枚の挿絵を取り上げてみても、はたして画像的な違和感は、どこに一番由来するのだろうか。秀吉の殿上人の装束、そして三法師が身に纏っているミニチュアバージョンの束帯姿などは、まずは考えれば考えるほどに滑稽に見えてくる。一方では、現代の小説となれば、秀吉の対応には、馬乗りや唐繰人形などのエピソードが案出されている。歴史といっても、時代の嗜好やその時々の常識にあわせてこのように形造られたものだと、あらためて思い知らされた。

ちなみに、この挿絵は、ウィキペディアの同条目の冒頭に掲げられている。一方では、はるか画質の良いものが早稲田大学の図書館から公開されおり、簡単にアクセスできる。デジタル環境の恩恵を示す好例として、あわせて記しておきたい。

「絵本太閤記」より

2013年11月9日土曜日

鎧を纏い餅を搗く

大学の講義で、来週のテーマは織田信長。薄い教科書は、あのホトトギスのじゃれ歌を持ちだして、信長・秀吉・家康を並べる。まさにここ数日、とある週刊誌をめくってみたら、時事諷刺漫画の実例として「道外武者御代の若餅」を取り上げたのが目に止まった。戦国時代の三人の巨人について、こういうしゃれたアプローチが根強く楽しまれていたのだと、あらためて知らされた。

131110餅搗きの風刺画は、宮武外骨著の『筆禍史』に取り上げられたことで注目を集めたと聞く。それよりも、時事という文脈から離れて、遠く離れた歴史上の一齣を解説する一つの表現として読んでも、十分に楽しい。三人の人物の特定方法といえば、猿だけすぐ納得する。そこからさらに目を凝らして見れば、武家紋から信長と光秀が分かり、そうなればあとの人は家康にほかならない。一方では、餅というテーマは、それがお正月の付き物だと思い出されても、「御が代」との関連の必然性にピンとこなくて、おそらく江戸の人々の何かの感性に基づくものだろう。それにしても、鎧を纏い、家康となれば兜まで被っている姿と食べ物作りに夢中になるという状況との組み合わせは如何だろうか。天下取りに生涯を費やした人物たちだと分かっていても、このようなかなり無理の多い状況を目撃して、この上ない可笑しさを感じるのは、はたして江戸の感性なのか、それとも現代の思いつきだろうか。

ときはまさに奈良の正倉院展が終了を迎えようとしている。今年の展示では、家康が寄進した唐櫃まで出品されて、いささか話題を呼んでいるとの噂だ。しかもあの蘭奢待を切り取った信長、興味を持たなかった秀吉云々と、またもや三人の巨人の比較が語りぐさになっている。目の前の教科書へのまたとない注釈となるので、クラスで若い学生たちに紹介してみよう。

味の素・錦絵アーカイブ

2013年11月2日土曜日

イメージとは

ちょっとした理由で、三年ほど前にこのブログで一度取り上げた本をあらためて取り出した。タイトルは、「The Archimedes Codex」。デジタルと古文書の復元、しかも対象は西洋の書物なので、新鮮でいて刺激になる内容が多い。中では、イメージそのものについての興味深い議論があった。読んでいて、まさに「目からウロコ」との思いだった。

著者曰く、いわゆるイメージというものは、美術館員の立場からすれば、「芸術家が創り出した形」である。しかしながら、同じことをデジタル技術を駆使する科学者に問い質せば、イメージとは「光が生み出した数字」にほかならない(202頁)。まさに明晰でいて、はなはだ挑戦的な記述である。著者は解説を展開する。前者の「形」は、普通の感覚に合致するもので、およそなんの疑問も持たない。対してデジタル技術をもってこれを記録し、再現するとなれば、物事はまったく違う様相を呈している。突き詰めて言えば、光がなければイメージが見えてこない。さらに言えば、見るということを、なにも肉眼という、人間が備え付けている器官だけに頼るものではない。肉眼には見えない波長の光を用いれば、肉眼ではけっして見えていないイメージも数字に記録することが可能である。そこに、このマジックのような数字、いわゆるデジタルである。デジタルの真髄は、けっして記録、伝播、再現といった、単純な媒体に止まるものではない。もう一つの、遥かに大きな機能は、一定の規則に則っての操作である。いまやほどんどどんな基礎的な画像処理ソフトにも付いている色のチャンネルを用いての編集機能ということを挙げれば分かりやすいだろう。このような操作を加えられたデジタルデータは、肉眼では見えないイメージまで確実に再現できる。そのようなデジタルデータを巧妙に動かして進めた操作、そしてそれによって得られる結果の成功例というのは、まさに芸術的なものとしか言いようがない。

以上の内容を含む報告は、著者のWilliam Noelがあの「TED」の講演で披露している。あまりにも多くの発見やプロセスをごく短い時間にまとめることは、さぞ苦労したし、必ずしも十分に伝わったとも思えないが、魅力的なデジタルプロジェクトについての、一つのユニークな要旨説明だと捉えれば、大いにためになるもの言いたい。

TED:失われたアルキメデスの写本の解読