2021年11月27日土曜日

怪談を語り合う

この週末、東アジア日本研究者協議会第5回国際学術大会に参加した。漢陽大学日本学国際比較研究所が主催するパネル「日本古典文学の想像力」に声を掛けられ、コメンテーターの役を務めさせていただいた。

討論の対象となる発表は、木場貴俊氏による「江戸怪談の普遍と特殊」である。発表者は、中世から近世にかけての怪談、とりわけ人間の言葉を発する馬、鳴動、ウブメなど三つのテーマにスポットライトを与え、日記、筆記、文学作品など多彩な文献を応用して、妖異や怪奇の伝承、それに対する人々の視線、そこから見られる江戸怪談の普遍性と特殊性などを論じられた。討論の中で試みた問いかけの一つは、怪談の娯楽性だった。江戸時代に広く享受された怪談ものの流れを汲んで、今日においては、マンガ、アニメ、ビデオゲームなどを通じて「オバケ」は世界に対する日本的なアイコンとまでなった。エンターテイメント性は、はたして怪談の必須の属性なのか、それとも一つの特殊な変異種なのだろうか。これに対しての発表者の答えは、「怪しさ」と「怖さ」との違い、グロテスク、あるいは怖いもの見たさ、病的になまでのおどろおどろしさの表現に怪談ものの本質があることへの強調だった。化け物を人畜無害なものに仕立て、無邪気な笑いをもってそれを無気力にさせてしまうことにばかり気を捉われてしまうという、黄表紙の作品群を読み更けているここ最近の読書経験に照らし合わせて、怪談もののふり幅の大きいことにあらためて気づかされた。

第五回と数えるこの国際大会は、2016年から始まり、これまでインチョン、天津、京都、台北と続き、今度はコロナによる延期の末、オンライン開催となった。遠くカナダに身を置く者として、リモートだからこそ参加できたもので、とてもありがたく思い、主催者に感謝を言いたい。

2021年11月20日土曜日

ブックス全文読み

「黄表紙活字目録」を公開してから、ツイッターなどで教わったり、それをヒントに新たに気づいたりして、タイトルをすこしずつ追加してきた。この目録は、活字出版を完全にカバーすることがとても出来そうにないが、一番の狙いは、本文をそのままインターネットで利用できる資料への案内だ。今週、その中の一点をめぐり、ひさしぶりにグーグルブックスを利用した。

タイトルは、『繪入黄表紙名作集:全』。出版は1922年なので、オンライン利用はできるはずだ。しかしながら、国会図書館のデジタルコレクションにたしかに収録されているが、「著作権の確認が済んでいない」とのことで、館内閲覧か地方図書館への送信によってはじめて読める。そのため、久しぶりにグーグルブックスに入った。タイトルは簡単に出てきて、しかも「電子書籍・無料」との表示がついている。だが、そこからは先へ進まなかった。Google Playへの誘導があり、そこに行くと、「Free eBook」とあるが、「あなたの国では利用できない」との表示が出てきてしまう。しばらくは立往生した。あれこれと試した末、ようやくアクセスの方法に気づいた。書籍情報のページで右上の歯車アイコンをクリックして、出てきたメニューから「PDFをダウンロード」を選び、全文のダウンロード保存が可能になった。書籍のリンクを次に記しておく。

グーグルブックスは、オンランリソースとしてかなりの先発組なのだ。その分、個人出版を含むさまざまな性格の資料、各国の公私にわたる図書館など異なる由来の書籍が混在し、アクセスの方法が頻繁に更新され、アクセス地によって結果も違う。それにしても、そこしかアクセスできな資料は確実に存在するので、とにかくはありがたい。

繪入黄表紙名作集:全』(平安堂書店、1922年)

2021年11月13日土曜日

「こそ」の字形

右は、『改正頭書つれつれ艸繪抄』(国文学研究資料館蔵)からの一部である。底本は新日本古典籍総合データベースで公開され、このページ(上巻四十一オ)は簡単に確認できる。赤線で囲まれた二つは、ともに「こそ」と読めるが、眺めるほどに、くずし字の字形に気づかされることが多い。

くずし字の基本は、やはり仮名である。とりわけ木版の書籍になると、仮名の形が大きく定まる。仮名の数はそもそも限られ、それぞれ複数の字体が用いられるにしても、常用なのはせいぜい150に満たない程度だ。しかもその半分以上は今日使っているものと変わらず、覚えるにはさほどたいへんな作業でもないように思われる。一方では、ここに見る「こそ」の事例のように、いささか面倒なケースもある。詳しく言えば、「こ」の字体は、二画目が下へ伸びる縦線となり、「こそ」「こと」「ころ」などの語彙に伴う傾向がある。「そ」は、終わりの画が左に撥ねる字形と右に撥ねる字形と両方あるが、ここではわざと両者が並ぶ格好となる。さらに直前に「ぼうし(法師)」の「う」が見え、「う」と「そ」の差異は、一画目のわずかな撥ね方にすぎず、形のうえで区別するのが難しい。

ここに見る字形の揺れは、文字としての規範と表現としての達筆さの間の距離から由来していると考えてよかろう。文字は、そもそも読みやすい、読者に無用の負担を掛けないことが基本だろうが、それを美しく、勢い良く書くという意識も働く。江戸時代の読書人の感覚は、十分に図りきれない。それはさておくとして、くずし字を覚えるにはどうしても形から入るのだが、ここに見られるような美意識の存在、それの働きかけは、忘れてはならない。

2021年11月6日土曜日

黄表紙目録更新

試して活字にされた黄表紙の目録を作ってみたら、ツイッターなどで思わぬ反響を得た。かねてから知っているこの分野の専門の方の名前まで現われ、ほとんど思いつきでやっているこの小さな作業が歓迎されたと感じ、大いに励まされた。そこで今週はこれに集中し、さっそく目録を更新した。

いま、集めたのは、442作。そのうち、複数回活字にされた作品は82作、それらをそれぞれ1作だと数えれば、作品数はちょうど300作である。対象となったのは、単行本、全集類が中心で、とりわけ明治末期から昭和初期にかけてのそれは、著作権フリーになって全文アクセスが可能だ。もう一つのリソースは、研究機関紙や大学紀要、こちらのほうは機関リポジトリの形で公開され、逆に新しいほど読める数が多い。ただ、手元にはこの課題に関連する蔵書はほとんどなく、基本資料へのアクセスも思う通りにならない環境なので、文学全集などを調べたり確認したりすることにはいまは手が届かない。なにせ『黄表紙総覧』(1986年)さえ読んでいないので、この目録はあくまでも個人的な読書メモに留めておきたい。これで自分への課題がもう一つ増えた結果となり、いずれ環境に恵まれたら、ゆっくり充実したいと考えている。

黄表紙の作品の数々、一つの研究分野として十分な知識を持ち合わせていないが、一群の読み物として単純に楽しい。この楽しさをどのように他人に伝えるべきだろうか。一人の読者として、そして古典研究に身を置いてきた者として、これからも模索を続けたい。

黄表紙活字目録(442作)