2014年9月29日月曜日

北京にて

この週末は、北京で過ごしている。「中華日本学研究協会」の招待を受けて、久しぶりに中国で日本研究の学者たちと交流ができた。非常に貴重な機会で、周りの人々と大いに語りあって、たいへん見識を増やした。

20140927中国は、さすがに環境もスタイルも違う。全体の印象を一言で言えば、とにかくすさまじいスピードでルールを作り、試行錯誤も含めて新しい伝統を残す。しかもかなり意図的にやっており、傍からみていてすがすがしい。きわめて表面的にことだが、あわせて40近くの発表者が集まっていても、午前の全体会議と午後の分科会議で一気に終えて、二日目は名勝を回しながらの自由交流にあてる。発表者には、国外の代表もかな入ってはいるが、やはり国内の研究者が中心だ。ただ国内と言っても飛行機やらで千キロ以上の遠距離を移動しての参加である。発表に立ったのはあくまでも第一線の研究者であり、大学院生など在学中の学習者に発言を任せることはほとんど見かけない。出身校や特定の研究者の指導を受けたグループはすでに出来上がってはいるが、それは個人の会話に留まり、宴会などの場では、むしろ若い学者ばかり集まっている地方大学の数人がまとめて挨拶を回る姿が目立っていて、初々しい。それから、かなりの金額の研究費は国から受け取る研究者が現われ、かれらの研究テーマなどは大いに取り上げられて注目を集め、一方では、一人で九人もの博士コースの指導を現在あたっているなど、教育のスケールにはやはり目をみはるがあって、ちょっぴり想像は追いつかない。

一方では、週末だけの旅のために、あわせて四つのクラスを留守にする結果になった。録画しておいたものを時間限定で視聴してもらうという対応を取った。問い合わせのメールなど一通も入っていないことからみて、とりあえずは予定通りに動いていることが分かるが、やはり気になるものだ。

2014年9月20日土曜日

不美人

今学期の講義もあっという間に二週間過ぎてしまった。慌ただしい毎日で、内容の展開に並走するという格好でその日その日のスケジュールを追い続けている。中では、二年ぶりの英訳で古典を読むクラスにおいて、『源氏物語』の一章はすでに終わった。今年は「末摘花」を選んだ。それも一帖の内容をまるごと読んでもらうことに決め、議論の時間を十分に用意した。

20140920あの不美人の集大成のような人物である。英訳と原文とを並べてじっくり読みなおして、あらためて描写の強烈さに打ちのめされる。見るともなく発見してしまった末摘花の容姿は、源氏の目から捉えて、つぎの言葉の数々だった。まずはその鼻、ここはなんの前触れもなく「普賢菩薩の乗物」とずとんと一発。この一言だけで、あの人懐こくて、神秘な白象を台無しにしてしまう。そして、鼻に続いて、源氏の視線は末摘花の全身に渡る。その結果、色は「白うて真青」、額は「はれたる」、面は「長きなる」、体は「痩せ」ていて、肩は、痛々しいほど服の中から覗かせている。不美人だと分かっていても、そこまで言うかと目を疑うぐらいだった。まとめて言えば、普通の人間とは違う器官のみならず、他人と変わらない体も、その全体において不養生で不健康なのだ。一人の若い女性を図る器量とか、才能とか、立ち振舞とか、そこまで注意が行く前の観察なのである。残念ながら、これらの描写を伝えてくれる古典的なビジュアル資料は知らない。現代になってこそ、末摘花は、新作歌舞伎、オペラ、映画、アニメや漫画と、絶好の人物像になったのだけど。

現代の大学生たちにとって、源氏の、そして末摘花の存在は、まったく不思議でいて、別世界のものだ。それでも、議論においては、つとめて現在の価値観でも受け入れられる範囲で善意に説明を見つけ出そうとしている。そのような結論の向けている方向は何処にせよ、異質な世界に触れてもらうことが、教える側としての最大の狙いなのである。

2014年9月13日土曜日

書籍として出版

今週に伝わってきたニュースの一つに、「昭和天皇実録」が公開されたということがある。一万を超えるページ、出版に先立っての内容公開、動乱の時代を横たわる貴重な記録としては、さっそく各方面から注目が集まり、中国などのニュースメディアまでさっそくコメントを出したりしている。

image政治史にはまったく縁のないものとして、むしろこの報道に接して、出版に関連して、興味深い一瞬をキャッチした。これを伝えるNHKのニュース番組は、来年から順次「書籍として出版」とはっきり述べている。思わず耳を疑いたくなった。ついにここまで来たのか。出版という言葉は、自分の中では書籍の形態にして公にするという意味しかもっておらず、書籍ではない出版など、個人的にはいまだ見聞をしていないが、どうやらそうとも言えないぐらい、世の中にはすでに変化が起こった。思わずインターネットで調べた。すると、あるわあるわ、まったく同じ用例以外、極端な場合になると、「紙の書籍として出版」とまであった。そういえば電子書籍があるのだから、書籍だって自明ではなくなった。一方では、良く考えなおすと、この表現にはべつの理由があるのかもしれない。ことこのような規模のものとして、電子の形で公開したら、もっともっと使いやすいに決まっている。検索だけではなく、読みたいものに飛びつくこともはるかに簡単なはずだ。もちろん、資料の性格上、あえてそのような処置を取らない。もしそのような理由からの表現だったら、データベースではないよ、との断りなのだろうか。

言葉は生き物である。言葉はどんどん変わっていく。これまでずっとあったものでも、弱小なものに流されたおりには、限定や説明がつくようになる。言葉におけるこの変化のあり方を、やはり自覚しておくべきものだ。

2014年9月6日土曜日

スマート・テーブル

新学年はいよいよ始まる。これにあわせて、特別な予算が組まれ、新しい教師用の会議室のレイアウトを検討するようにと言われ、楽しく想像をふくらませている。教室や会議室と性格の異なる家具や植木などを入れるのも必要だが、可能でしたら、テーブルになっているパソコンでも導入できないものかと、調べてみた。

20140906たしかに気楽な会話や同じ視線での議論などには、もってこいのもので、もうすこし普及されてもおかしくない事務用品なはずだ。しかしながら、最初の一歩、思わぬ形で躓いた。あれは、そもそもどのような名前で呼ばれているのだろうか。自分なりに思案して、「テーブルパソコン」から始めた。それなりにヒットがあった。代表的なものは、どうやらサムスンの製品で、洒落ていて、結構宣伝もされているもようだ。しかしよくよく見れば、関連の報道記事はすでに二年も前のものとなっている。これしか上がってこないようでしたら、調べ方が悪いに決まっている。そこで、大学図書館に設置されたものを手がかりに、それの紹介文を読み直して、「スマート・テーブル」との名に辿り着いた。どこかいい加減に決めた言い方のようで、頼りない感じだが、検索に掛けたらはるかに多くのヒットが現われてきた。しかも、マルチタッチスクリーン、コーヒーテーブル、Windowsやアンドロイド対応など、さらにキーとなるポイントがどんどん出てきた。ただし、どう見ても完成したものではなく、販売もベンチャー企業によるものばかりだ。値段ひとつ取り上げてみても、その間の様子がありありと分かる。40センチのテレビは500ドル台、タッチスクリーンモニターは1000ドル台、という目下の相場に対して、同じサイズのモニターのテーブルはいずれも6000ドル以上の値が付いている。いまだ開発途上のアイテムだ。

ちなみに、はたして「スマートテーブル」という言葉が日本語でも通用するのかと、興味本位に試してみた。画像検索では、たしかに同じものが上位に飛び出してきた。ただしヒットリストを読み続けると、同じ名前でも、車の中に取り付けるテーブル、ナノ構造測定の作業台、はてには食事にあたってのテーブルマナーと、驚くぐらい多様なものが対象となっている。はたしてその中のどれがこれの命名権を確保できるものだろうか。