今学期の講義もあっという間に二週間過ぎてしまった。慌ただしい毎日で、内容の展開に並走するという格好でその日その日のスケジュールを追い続けている。中では、二年ぶりの英訳で古典を読むクラスにおいて、『源氏物語』の一章はすでに終わった。今年は「末摘花」を選んだ。それも一帖の内容をまるごと読んでもらうことに決め、議論の時間を十分に用意した。
あの不美人の集大成のような人物である。英訳と原文とを並べてじっくり読みなおして、あらためて描写の強烈さに打ちのめされる。見るともなく発見してしまった末摘花の容姿は、源氏の目から捉えて、つぎの言葉の数々だった。まずはその鼻、ここはなんの前触れもなく「普賢菩薩の乗物」とずとんと一発。この一言だけで、あの人懐こくて、神秘な白象を台無しにしてしまう。そして、鼻に続いて、源氏の視線は末摘花の全身に渡る。その結果、色は「白うて真青」、額は「はれたる」、面は「長きなる」、体は「痩せ」ていて、肩は、痛々しいほど服の中から覗かせている。不美人だと分かっていても、そこまで言うかと目を疑うぐらいだった。まとめて言えば、普通の人間とは違う器官のみならず、他人と変わらない体も、その全体において不養生で不健康なのだ。一人の若い女性を図る器量とか、才能とか、立ち振舞とか、そこまで注意が行く前の観察なのである。残念ながら、これらの描写を伝えてくれる古典的なビジュアル資料は知らない。現代になってこそ、末摘花は、新作歌舞伎、オペラ、映画、アニメや漫画と、絶好の人物像になったのだけど。
現代の大学生たちにとって、源氏の、そして末摘花の存在は、まったく不思議でいて、別世界のものだ。それでも、議論においては、つとめて現在の価値観でも受け入れられる範囲で善意に説明を見つけ出そうとしている。そのような結論の向けている方向は何処にせよ、異質な世界に触れてもらうことが、教える側としての最大の狙いなのである。
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