2006年6月1日木曜日

古典は声で届けよう

前回、この欄目で「ポットキャスティング」のことを書いた。それからの半年、ほぼ一日も欠かさずにインターネットから取り込んだ音声内容を楽しんできた。名作や文芸番組もあれば、その日その日のニュースもあった。そしてこのような時間が続く中で、自分からもなんらかの発信をしてみなくてはとの衝動に駆られた。わたしの研究分野は日本の古典である。「ポットキャスティング」で定期的になにかを公表することはとても無理だが、小さな規模の内容をまとめて作ってみることなら、それなりに可能だ。今回はそのささやかな試みの結果や、それに至るまでの考えを記してみる。

とりあげるタイトルは『後三年合戦絵詞』という鎌倉時代に作成された絵巻である。現在は東京国立美術館に保存され、重要文化財に指定されているこの作品は、日本中世の絵巻物の基準作だとされている。絵巻に描かれたのは、十一世紀の終わり頃、東北の地で繰り広げられた中央の武士源義家と地方の覇者清原家衡・武衡との間の合戦だった。そこに語られたストーリの数々は、平安時代の武士たちのあり方を語るうえで、由緒ただしいエピソードとして頻繁に引用されて、広く知られている。一方で、私はストーリを伝える絵の役割や表現の方法を考えるという課題をもって、過去数年の時間をかけてこれを読み続けてきた。これを対象に音声表現を試みるということは、作品へのもう一つのアプローチになることは言うまでもない。

一点の絵巻の作品に音声を加えるということは、古典研究という立場からすればいくつかの理由が挙げられ、とりわけ古典の基本に関わる次の二点が大事だと思う。一つ目は、絵巻というジャンルは、昔から絵と音声との競演によるものだった。絵巻の絵を見ながら、そこに添えられる文字テキストを誰かに読ませてストーリを楽しむということは、平安や鎌倉時代の日記資料などに多く記され、ひいては絵巻の中のユニークな場面として描かれていた。貴重な作品を借りるなどして手に入ったら、尊敬のおける文人に頼んで読み上げてもらい、その傍らで絵の鑑賞に耽るという公家貴紳たちの姿を思い浮かべて、絵巻とは今日におけるテレビか映画のような物だったと言えよう。二つ目の理由は古典全体に及ぶ。日本古典文学の中心となるものが「物語」だったことが象徴しているように、もの(ストーリ)を語るということは、つねに文学活動の中心だった。かつては音声によって伝達されていた内容は、記録方法の制限により、今日のわれわれには文字に記されたものを目で読むという方法しか接することができない。だが、消えてしまった音声そのものを聞く可能性を持たない今日になっても、ストーリを耳で楽しむということを追体験することは、あっていいように思われる。

一方では、上記の二つの理由はそのまま二つのチャレンジとなる。二番目の伝達の手段としての音声から言えば、かつて行われていた文学享受の体験を思い起こさせるためには、はたして自分の声でいいのだろうか。発音のありかたから表現の能力にいたるまで、その落差はあまりにも大きい。そして一番目の、絵と文字との競演だが、テレビや映画を連想して、享受の在りようを思い描くにしても、完全な答えがそこにあるわけではない。絵巻とは今日のマンガにあたるとすれば、それをアニメ、さらに俳優実演の映画に仕立てるためには、いくつか質的な飛躍があって、安易に短絡させては重要な要素を見失う危険に直面してしまう。言うまでもなく、私は以上の難題に答えられるといった大それた自信をもっているわけではない。それどころか、文字テキストの空白をどう埋めていくかといった初歩的な作業から、すでにしどろもどろに苦労しはじめたものだった。たとえば「今日」という二文字でも、はたして「けふ」なのか、はたまた「こんにち」なのだろうか、音声に直してみないと気づかない課題は山積みだ。結局私にできることはただ一つ。丁寧に、知りうる限りの方法をもって考証を重ね、自分なりの一つの音声バージョンを試作して、可能な答えの一つを提供してみるのみだ。

絵巻『後三年合戦絵詞』の文字テキストは、計十五段、約八千文字に及ぶ。いまは原文と全文の現代語訳の両方合わせて約七十分の朗読をすべてインターネットに載せた。サイトのタイトルは、「音読・後三年合戦絵詞」。お暇な折にどうぞ一度アクセスなさってください。ご意見やご提案をお寄せくださることを心より楽しみにしている。
http://www.ucalgary.ca/~xyang/go3nen.html

Newsletter No. 32・2006年6月