2010年12月1日水曜日

不思議な「自炊」 (リレー随筆)

前回の「リレー随筆」で、下野香織先生はフランス滞在秘話を交えて、「以言伝心」を興味深く書かれた。リレーのご指名をいただいたので、それに賛同しつつ、あえて逆説の一例を取り上げてみよう。結論から言えば、並大抵の言語知識を持っていても意味を伝え切れず、首を傾げて苦闘せざるをえない、そのような笑うに笑えない一つの言葉の光景である。

「自炊」という言葉、もちろん知っていると高を括ることなかれ。ここでいう「自炊」とは、食事や料理とはいっさい関係ない、さらに言えば今時のデジタル環境の応用の一こまであり、この言葉の使い方そのものには、日本語表現の無規制な増幅と、社会生活における日本人の道徳的な自制が象徴的に現われていると言えば、どなたかすでにピンときただろうか。

まず、「自炊」の内容から説明しよう。「自炊」とは、パソコンなどで読む電子書籍を自分で作成するという、一つの新しいプロセスを指す。具体的には、本屋から書籍を購入してきて、それをページがばらばらになるように裁断し、スキャナーに掛けてPDFなどのフォーマットの電子ファイルに作成する。なおこのような作業の最大の理由は、本の保管と書斎スペースの確保にあるので、「自炊」を終えた書籍のページは廃棄される運びとなる。注目してもらいたいのは、このような「自炊」とは、一部の極端な愛好者しか手を染めない行動ではないことだ。これまで多くのメジャーな新聞が特別に記事を組んで取り上げている(「朝日新聞」8月19日、「産経新聞」9月25日、「読売新聞」9月27日、など)。さらに、巷では「自炊」するためのスキャナー、はたまた専用の書籍裁断機が売られ、インターネットでは「自炊」請負の有料サービス(一冊100円が相場だとか)の広告が打たれている。

ここでは、まず社会生活としての「自炊」の文化的な側面を眺めてみよう。「自炊」という行動が行われる理由は、いうまでもなく日本の電子書籍環境にある。すなわち書籍を電子の形で購入、閲覧、保存といった技術的な手段が確保された今、これに対する需要が確実に存在しているにもかかわらず、出版社などは、さまざまな理由によって、電子出版には頑として取り掛かろうとしない。一方では、読者の人々はなんらかの方法で電子出版や流通を後押しするのではなく、在来の書籍を購入して、電子化を各自の手で仕上げてしまうという形で対応した。この方法は、電子の媒体の根本的な特徴(複製や流通の利便性)を無視し、各自でデジタル化するという途轍もない無駄を厭わない遠回りなものだ。この行動自体は、一つの意思表現である。その裏には、一種の文化的な矜持が伴っていよう。「自炊」を謳う議論は、電子データの流通どころか、その交換や再利用などにはけっして触れない。電子メディアにおける著作権のことに不確定なところがあるかぎり、それとはいっさい関わらないところに立場を持ち、書籍を実際に購入して、それ相応の代償を支払った物理的な証拠を手にしたことで、著作権侵害のような非難はけっしてさせないという潔癖志向が、ここから否応なしに見受けられる。

話を言葉の領分に戻そう。一つの新語として、「自炊」はまさに不思議だ。まずは確認しておくが、電子書籍の手作りを指すこの言葉の構成は、まったくのデタラメでもない。その由来は、書籍から電子データを「自」分で「吸い」あげることにあったとされる。ただ、この場合、それが「自吸」でもなければ、「ジスイ」でもないことが、ミステリアス。考えてみよう。これまで存在しなかったことを言い表すために、それに対応する表現が必要となり、新しい言葉が誕生する。それにはおよそ三つのあり方が考えられる。既存の言葉の流用、言語ルールに沿った活用、そしていっさい存在しなかった言葉の創出である。それぞれ実例を挙げてみよう。既存の言葉の流用は一番多く、たとえば携帯電話を指して「電話」が用いられ、やがてこれが普通になって、在来の電話が「固定電話」と修飾的な工夫を施さざるをえない。これに対して、二番目のものは言語ルールに沿った活用があり、言葉の活用が魅力的で知的な要素が多い。最近気づいた例で言えば、「就職活動」が短縮して「就活」となり、これに習って「婚活」が語られ、やがて今時の若者の気質を表わすものとして「恋活」が造られる。三番目は一切存在しなかったものを編み出すもので、「KY」などがまさにその典型だ。以上の形で新語のありかたを捉えるものならば、「自炊」はそのどれにも当てはまらない、まさに特殊なものだ。一つの新しい出来事を指しながら、すでに存在していて、頻繁に使われ、かつ意味の関連がまったくない言葉を用いる。しかも、これをもって電子書籍の自作を意味させても、食事を自分で作るという言葉になんらかの影響を与えようとするわけではなく、それと区別を持たせようともしない。一種の言葉の乱暴な応用だとされてもやむをえない、言葉のありかたとして、はなはだ異様なものだと言えよう。

裁断され、スキャナーに掛けられ終わったページの集合は、書籍の変わり果てたもので、もはや書籍とは言えない。だが、それがちり紙として捨てられるのではなく、束ねられて古本屋に流されるとウワサに聞く。つねに電子書籍に惹き付けられている筆者ではあるが、「自炊」という名の、本を裁断することから始まる、本とは言いようのないこの極端な付き合いには、どうしても拒絶感を禁じえない。これなど、ただの愚痴にしか聞こえないのだろうか。

つぎの「リレー随筆」は、ヨーク大学の矢吹ソウ典子先生が快くバトンを引き受けてくださった。いつも学会で刺激の多い発表を聞かせてくれるが、どのようなことを書かれるのか、いまから楽しみにしている。

CAJLE Newsletter No. 41・2010年12月

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