2010年7月1日木曜日

留学の東と西

このコラムの名は「天南地北」。特集のテーマである留学をめぐり投稿させていただく運びとなり、自然にこのタイトルにたどり着いた。いうまでもなく日本と中国という東アジアにおける東・西であり、大洋を隔てる東洋と西洋である。


まず、一つのささやかな個人の経験を書かせてもらいたい。

いまからちょうど二十年前、さほどまともな準備もせずに英語圏での生活を始めた。未知の外国での生活にありがちなことだが、まずは言葉という壁にぶつかり、失語の苦痛をさまざまな局面やレベルにおいて味わわされた。会話あるいは交流をいかにして身に付けるべきかと、外国語教育においては優雅に構えて論じることもできようが、イントネーションのらしさやしゃべり方のリズムなど構う余裕などまったくなくて、表現の完遂はあくまでも語彙にあるということをまざまざと知らされた。単語選びの的確さ、似通った語彙の区別、その背後にある社会的常識への理解など、言葉との格闘である。その中で、かなり長い時期にわたって悩まされたのは、「留学」という一語だった。英語において、これに当たる言葉はどうしても見つからなかいのである。

これほど単純明快にして、ゆたかな思いや多様な行動パターンが詰められるコンセプトに対応する言葉が英語にないとは、どうしても信じられなかった。思いついたら辞書を調べ、答えが出てこなくてその辞書を疑い、友人に訊ねまわって、満足な説明が戻ってこなければ質問する自分の表現の限界を嘆く。そのような模索の末、得られたのは言いようのないもどかしさばかりだった。

そもそも「留学」とは、日本語の造語に違いない。外国に留まって学ぶというのがその字面の意味だろうが、もちろん外国に渡る事も留まることも思うとおりに叶えられない時代に用いられた言葉だった。したがって留学とは、つねに空間的にも時間的にも普段の生活からかけ離れたものだった。約三十年前に日本に渡って勉学した筆者も、わずかながらそのような留学ということの重みを肌で感じていた。あのころ、旅費など、個人の力ではとても賄えないという意味でまったく問題ではなかった。たとえ留学生として数年生活していて、その間の生活費を切り詰めて帰省の旅費をなんとか工面できたとしても、里帰りするためにはさまざまな考慮や許可が必要とされていた。そのため、国の外に出るということは、一種の言いようのない覚悟が伴ったもので、それこそ大昔の「取経」「遣唐」と照らし合わせて語られるべきものであった。

もちろんそこまでの感覚をもつ言葉を英語に求めようとしたら、あまりにも無謀だ。そうではなくて、ただ純粋に学習制度における留学でさえどうも英語表現に存在していない。普通の辞書などに示されるのは、「study abroad」である。たしかに「外国での学習」だ。しかしながらこれが指すのは、既存の教育仕組みの中の一部であり、日本語に言う「短期留学」「交換留学」のようなものだ。自国の大学あるいは大学院に通わないで外国で勉強し、そこの学位を取得するといった経歴は、英語ではどうしても長い文章を駆使して説明せざるをえず、一言で言い表すような単純なものではない。留学に対する考えの違いは、東洋と西洋の言葉においてその位相がすでに極端に現れている。

そのような留学だから、それを経験した一人の人間へのインパクトは計り知れない。筆者の場合も、いろいろな側面においてそれを経験した。留学生として日本に渡ったのは一九八二年のことだった。大学での専攻は日本語だったため、留学といえば日本だという認識をずっと持っていた。しかしながら同じグループの中では日本について勉強した者はほんの少数派であり、自然科学系の学生が圧倒的だった。「ヨーロッパやアメリカを目指していたんだ」と何回も語ろうとする同級生の顔は、記憶に新しい。一方では、最初の留学生活から十年近く経ったあと、西洋とは知識も縁もないままカナダで仕事を始めるようになった。北米の地を踏んで、同じ年齢や経歴の人々と交流をしてみて、留学した国が異なるだけで、人間がこうも違う性格や考え方を持つものかと驚いたことは一度や二度ではなかった。

特定の知識を習得する傍ら、まったく異なる社会生活の中に入り、それまで身に付けられなかった、ひいては持っていたものと丸きり逆の価値観を体験することが、つねに留学の最大の収穫である。それと共に、異なる考え方に接することが出来たおかげで、自身が捨てずに持ち続けるものに対しても距離を取りやすくなり、客観視できるようになる。加えるに、留学が適えられるのは、学問のエリートと呼ぼうと、裕福な家族に生まれた幸運児だろうと、はたまた個人の弛まない努力の結果だろうと、結果的には少数の人間にすぎない。この事実も、社会や文化の差異について観察、感知することを大きく促し、役に立った。

筆者には、一つのささやかな仮説がある。同じ留学生でも、学部生と大学院生と分けて考えるならば、後者より前者のほうがより全面的に留学先の国の生活に符合し、その価値観を身を持って実践する。しかもそれは大学の評判、専攻の内容、恩師の人間性などにさほど関連がない。その理由は、二十歳前後の四年、あるいは二十歳後半にかけての三年から六年という歳の差にあるのだろう。すなわち言葉の壁を乗り越えるための苦闘も含めて、留学による緊張とその達成が、どこまでも一人の人間の成長に鮮明に刻まれる。留学という経歴は、多感な青春の記憶に集約し、その人の人生に大きな烙印を残す。

留学は、とりもなおさず教育の一環である。教育はその国の政策、施策の大事な構成である以上、時代の進歩、政治の姿勢、人材の育成など多様な立場から取り上げられ、論じられるのも当然だろう。ここにも東洋と西洋との異同が明らかで、興味深い。

まず留学生を送り出すことから考えてみよう。一国の将来を担う若者を育てることにかかわるものなので、西洋も東洋も、程度の差こそあれ、ともに援助する方針を取る。カナダの場合、たとえば筆者の勤務する大学のことを実例にしてやや具体的に紹介してみよう。約三万人の学部生を抱える大学では、少人数の交換留学以外、年間約三十の短期留学を設けている。典型的な構成は、定員二十名、滞在期間一ヶ月、習得単位六単位(学部卒には百二十単位必要)、費用五千ドル、という内容である。外国語勉強のプログラムもあるが、ほとんどは言語学習と無関係なものである。このように年間わずか数百人規模の短期留学のプログラムしか設けず、参加者には、ほぼ全員五百ないし千ドルの奨学金を与える。さらに学生ローンを提供したり、追加的な優遇策を設けたりして、留学をサポートする措置を数々用意してより多くの参加者を募る。

一方、留学生を受け入れるということになれば、西洋と東洋では俄然と大きな違いが見えてくる。カナダの場合、学費の金額を知って、中国や日本からやってきた学生が思わず唖然としたことはしばしば耳にする。それは金額自体のことではない。留学生だということだけで、地方の学生の倍かそれ以上が請求されるからだ。学費は履修する科目ごとに支払うものなので、この金額の差は繰り返し表面化され、余計に立場による待遇の差を思い知らされる。このような対応は、教育に対する社会的な認識に由来する。すなわち教育を賄うのは、税金である。納税者は、国の未来を背負う若い世代に投資しても、外国のために学生を育てる義務を持たない、というのがこのシステムを支えるシビアな発想だ。ここに思わず日本のことを振り返る。現行の外国人留学生の優遇政策は、教育を通じて国をアピールする、あるいは遠方からやってくるお客様を歓待するという発想に寄りかかっているのではなかろうか。因みに、この考え方は日本だけのものではなく、中国や韓国の留学生受け入れ政策にも認められ、まさに東洋的なものである。

終わりに再び言葉の話題に戻りたい。

今の中国語には、留学に関連する新しい表現の一群が加わった。日本風に言えば、年間流行語大賞的なものである。その筆頭には「海亀」「海帯(昆布)」が挙げられる。中国語では亀と帰、帯と待とそれぞれ発音が同じなので、大洋の向こうに行って帰ってきた者、あるいはそのような経歴を持ちながらいまだ仕事がなくて職を待っている人々を指す。さらに、二〇〇九年には「被留学」が喧伝された。本人の意思に関わらず、親あるいは社会の圧力により留学を強いられたとのことを意味する。いずれも留学ということへのこの上ない希望と期待が失望に変わったときの言いようのない気持ちの表われだと思う。ただ海外生活が長い筆者のような人間には、理屈として理解できるにしても、これを体感的には受け入れることは難しい。中国における留学にまつわる社会の視線の変化は、このような言葉において、もう一方の極端な様相を見せてくれる。

時代の移り変わりにおいて、留学、そしてそれが人々にもたらす影響は激しく変容を続けてきた。個々人への関わり方が如何なものにせよ、留学はつねに社会の進歩に寄与し、教育の大事な一部を成すものだと信じる。
『中国21』Vol.33
東方書店
2010年7月、297-300頁

0 件のコメント: