詞書に書かれた仏典の偈を英訳しようと思ったら、とたんに困惑した。
偈の内容はたいてい分かりやすい。しかしながら、そうであっても、即自分の言葉で英語に変えるとは、いかにも無謀だ。仏典レベルのものだから、これまでだれかが取り扱っていたに違いない。それぐらの薀蓄があってしかるべきだ。そう思いながら、とりあえず検索エンジンに掛けてみる。あるある、簡単にクリックをいくつか試みたら、もののみごとに狙ったところの英訳に出会った。しかも翻訳作業は19世紀終わりのものだから、いまやグーグルブックスにて書籍の全点を読むことさえ出来る。
しかし、一方では英訳の内容を読んでみて、正直、どうしても落ち着かない。大乗、観音などの言葉は、英語の知識にはまったく属さないサンスクリット語がそのまま応用され、対して経文の中身は、噛み砕いた英語に変身してしまう。その落差はじつに大きい。とりわけ日本語原文の、「念彼観音力(ねびかんのんりき)」と並べれば、いく層もの段差が見えてならない。思えば歴史的な沈殿を持たないとは、このことだろう。ただし、ここではたとえ中世の英語のまねごとをして訳したとしても、その出来栄えは所詮知的な遊びであって、それ以上のなんの意味も持たない。やむをえず分かる英語に止まる、それしかないことだろう。
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