「脱獄(jailbreaking)」という言葉がある。いまや膨大なユーザー群を獲得したアップルの製品シリーズに対する特殊処置のことで、特定のソフトをインストールすることをもって、アップル社が公式認定する以外のソフトの使用が可能になるというものである。今週、これをめぐるニュースがさまざまな波紋を呼び起こした。アメリカ著作権庁がデジタルミレニアム著作権法の解釈を行い、アップル製品に対する「脱獄」が合法なものだと認定した。
そもそもこの用語の由来は、あの一世風靡のドラマシリーズ「プリズン・ブレイク(Prison Break)」を連想して拵えた造語だろう。この言葉に託したのは、言ってみれば、製造者の意思を無視する後ろめたさというより、不可能を可能にする一種の確信犯、愉快犯に近い思いがあって、法律のグレーゾーンへの挑戦を正面から試みるものだった。それに対して、アメリカ著作権庁の決定は、言葉いじりなどの小細工をいっさいせず、ただ堂々とこれが合法だと認定した。ただし、いうまでもないが、「脱獄」合法といっても、これを認めないことを非法とは意味しない。アップル社が「脱獄」した機械を保証修理の対象としないなどの対応を取るものだろう。合法になった「脱獄」は、あくまでユーザーの判断による、リスクや覚悟を伴う行動に過ぎない。
法律とは、社会の発展にしたがって、社会のためにあるものであって、法のためではない。また、とりわけ成功した会社に対して、すべてその会社の言いなりになるのではなくて、むしろ余計に目を光らせてその独断の行動を制限をかける。いまの法解釈を通じて、この二点において現代の法精神の一端を見た思いがしてならない。
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