芥川龍之介には『往生絵巻』という短編がある。阿弥陀仏と唱えながら街を行く五位の入道を見物する人々の会話をもって構築された秀逸な一篇である。
作品は、童、そして鮨売の女の騒がしい掛け声から始まる。絵巻を知っている読者なら、さっそく「福富草紙」の会話、「長谷雄草紙」の街角の光景を思い出すに違いない。とりわけこの二つの絵巻をどこまで見ていても飽きない読者なら、うきうき、わくわくした思いを押さえながら、一気に終わりまで読み進むものだろう。
街角の人々の会話には、いたるところに芥川らしい機知やユーモアが見られる。世を捨てて出家する勇気を感嘆する声があれば、捨てられた家族が不憫だとさっそく反論があがり、それも「弥陀仏でも女でも」家族を奪われたら恨みが生まれるものだと論破される。仏と女と並べるものかと、思わずツッコミを入れたくなる。荒っぽい武士の行いとなれば、仏の在り処を法師に尋ねようと、なんと刀を引き抜いて法師の胸に突きつけて聞き出そうとするものだから、分かるわけがないと、くすくす笑ってしまう。人間百様のさまざまな思い、行いを俯瞰的に眺め、洗練された短い会話をもって縦横無断に表現してみせるのは、まさに芥川ならではの腕前だ。
道行く五位の入道に投げかけられた視線をゆっくりと移動して捉えて行き、それが一つまた一つ、消えたと思ったらさらに魅力的なものが現われたという形で連綿と続いて、まさに一巻の絵巻だ。さらに言えば、絵にするものならば、背景も細部の描写もなにも施さないで、余白をいっぱい残したままのスタイルが相応しい。闊達な筆捌きと無造作な会話、それだけで十分だ。
しかしながら、さきの二つの絵巻を見る経験を持ち合わせない読者には、この作品の世界ははたしてどう映るものだろうか。ちょっぴり敷居が高いかもしれない。少なくとも、何回も読み返す私には、今昔物語の虜になった芥川龍之介がますます普通の読者のことを省みる余裕を失いはじめた書き方をしているもんだと勝手に想像しながら、難解な語彙や表現を追い続けていたことを書き留めておきたい。
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