2010年2月6日土曜日

詞書の品格

世の中は、品格への関心が集まっている。女性、国家、国技、これらもろもろの大きな言葉とペアを組んで、心をそそる表現が新聞やテレビを踊る。学生たちにも伝えなくてはと、録画を編集してクラスに持ち込み、品格と大きく黒板に書いてこれを解説する。いうまでもなくそう簡単に伝えられるものではない。

思いは自然に絵巻のことに馳せる。都合よく手元に格好の実例がある。先週とりあげた芥川の、絵巻と名乗る短編は、明らかに絵巻の詞書のスタイルを意識していた。読者もそのようなことを心に留めて読むべきだ。具体的な作品まで辿りつくことがあってもなくても、約百年まえに書かれた芥川のあの作品は、いまはもちろんのこと、発表当時において非常に格調高い、品格のある書き方をしていたと感嘆されたに間違いない。

一方では、実際の絵巻の世界においては、事情はおそらくまったく異なる。例えば『福富草紙』の詞書(画中詞)は、つぎの数行で締めくくる。
「あな、をかしや」
「なにわらふぞ」
「なにみるぞ、おれら」
分かりやすいと言えばその通りだが、これはどう考えてみても、品格で上位に位置づけできる文章ではなかった。数々の絵巻、綿々と続く詞書を披いて、文章の品位で眺めるならば、その時代の人々が認めるような基準というのが存在していた。詞書の書き出しを見てみよう。

「朝家に文武の二道あり、互に政理を扶く」(『後三年合戦絵詞』)
「夫春日大明神は満月円明の如来、久遠成道のひかりをやはらげ」(『春日権現験記絵』)
「醍醐天皇之御宇、延長六年八月之比」(『道成寺縁起』)

似たようなものはまさに枚挙に遑ない。ただし、これが名文だとの思いそのものも、その時代の一部だった。時の移り変わりとともにそのような価値判断の基準が薄れ、やがて崩れてしまう。今日になれば、ただの常套句だと捉えられてしまう。しかもさほど意味を持たないものとして、研究者でさえついつい目を飛ばしてしまう。文章の品格って、そういうものだろうか。

因みに、品格を説明するためのガッツポーズ云々の件は、日本語のクラスではナットクというよりも、明るい笑いを誘った。時や場が変われば、常識も、判断基準もそこまで変わったとしみじみに思い、ついその説明の言葉に力を入れるようになった。

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