2015年3月5日木曜日

地図のメタファー

京都で開催される国際研究集会に参加するため、一週間だけの慌ただしい日本滞在をしてきた。旅の間はやはり落ち着かず、その代わりにたくさんの人々と膨大な分量の会話をしてきた。休憩、食事、それに移動の時間のすべてに渡って、つねにしゃべったり、人の話を聞いたりして、言葉通りに片時も休むことなく、じつに刺激の多い濃厚な時間だった。その中での一つの記憶に残る会話をここに記しておこう。

研究会のテーマは「夢」、それも学際研究を目標に掲げるものだった。研究発表の一つのセクションでは、脳科学の最先端の成果が語られ、その場のコメンテーター役を与えられ、ある意味では会場の人々を代表して質問をぶっつけることが期待された。いうまでもなく文科系的な発想しか持たず、苦労して捻出したものは、進化著しい地図を用いての比喩的なものだった。地図には、思いっきり抽象化された荘園図、足でその地を踏破して制作された古地図、そして現代の技術の粋が結集された衛星図、航空図、ストリートビューという、その展開はあまりにも鮮やかで、その進歩の様子は分かりやすい。その上、どの時代においても、人々はその時の地図を精密なものだと思って疑わず、つぎの時代に入れば、逆にその不備の度合いにあきれてしまう。そこで人間の体を対象とする地図とは、どのようなレベルまで来ているのか、その眺めを知りたかった。しかしながら、この「地図」という言葉は、誤解を招くもととなった。脳科学において、地図、あるいは「マッピング」とは、まさに人体の中の小宇宙へのアプローチの基本らしい。そこで、戻ってきた答えとは、十数年まえまでの研究では、世界地図の洲レベルの情報しか得られておらず、現在は、それを国のレベルまで精密な情報を手に入れることが出来た。いずれは、人間全体の平均図ではなく、一人ひとり個人の脳内の様子をきちんと把握することだろう。期待されたものではまったくなかったが、あきらかにこれまたもう一つのきわめてメタファ的な答えだった。

学際的な研究においては、それぞれの分野において豊かな積み重ねがあるからこそ、どんなテーマでも一から説明を試みなければならず、しかもその説明の方法を真剣に工夫しなければならない。研究の発見を語りあうとは別の、もう一つの本領が試されていることをあらためて知らされた。

0 件のコメント: