テレビの画面に映り出すいかにも日本らしい風景には、あの街頭インタビューがある。人口密度が高いからだろうか、どこのテレビ局もことあるごとに、あるいは何もなくても街角にビデオカメラを繰り出す。そして、そこにはいつでも親しそうに質問に応える熱心な歩行者がいて、ニコニコしてカメラに向かって語り出す。なんとも平和なものだ。
何気なくテレビをつけてみれば、今度は街角でカラフルなクレヨンを差し出してその場で絵を描かせている(「サラメシ」#030)。テーマはその日の昼食。描いてもらった絵から、レストランの定食を前提に当ててみるという、きわめて他愛ないものである。興味深いのは、カメラの前で足を止めた面々の弁だ。白紙とクレヨンを前にして、応じるとしながらも、誰でもきまって絵は「得意でない」、「苦手だ」、「(学校のころ)美術は一だった」(はたして五段階評価なのか、はたまた百点採点なのか)と、とにかく恐縮しきりだった。考えようによれば、絵というものの特質の一面をじつによく表している。絵というものは、単純なもので、無理やり書かせてみれば、だれでもなんとか紙に残せる。かといって、なんらかの訓練、繰り返した実践、そして思い込みや愛着がなければ、たいていの人はほとんど思う通りのものを描けない。一方では、絵の出来栄えは上手にせよ下手にせよ、読み解く人が真面目に向かってしまえば、描かれた内容はなんとなく伝わる。
ここのところ、暇を見つけて読み返しているのは、説話に出る昔の絵師をめぐるあれこれの伝説などだ。昔の人々もまったく同じく絵や絵を描く才能を受け止め、物事を思う通りに描ける絵師たちに驚異の視線を送っていた、そのような絵師たちについての評判と言えば、すぐに「手早筆軽」(とにかく筆が早い、さっさと描き上げてしまう)(『新猿楽記』)、「生きたるもの」(時には非現実的に生きるものと化けてしまう)(『古今著聞集』)と驚いてしまう。絵を評価するには、文化や伝統などいくつもの重層があるはずなのだが、そこまで行くまでには、まずは実物に似ているかどうによって、最初の基準が用意されているのだ。
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