2007年10月3日水曜日

清少納言の感性

絵巻は、平安文化の花形の一つである。「絵」と呼ばれる作品群は膨大な数で文献資料に残り、さまざまな形で貴族たちの日常生活に入り、そのほとんどの場合において華やかなハイライトとなった。

平安時代の人々の感性を伝えてくれた代表的な人物を挙げるとすれば、まず清少納言の名があがるだろう。清少納言の絵巻観を求めて『枕草子』を紐解けば、つぎのようなまるっきり対照する意見が目に止まる。いずれもごく短い文章で、内容は分かりやすい。

まずは『枕草紙』三十一段。この段の始まりはこうである。

「こころゆくもの よくかいたる女絵の、ことばをかしうつけておほかる。」

これに続き、「こころゆくもの」、すなわち気持ちのいいもの、わくわくさせてくれるものとして、たくさんの女房が牛車に乗った様子、上等な便箋に細く書かれた手紙など、風景や品物がリストアップされる。どうやら清少納言にとって、素晴らしいものといえば、まず思い浮かんだのは絵巻、それも興味深い詞書が付いていて、しかもそれが長いほど望ましい、ということだったらしい。

今日に伝わる絵巻のなかで、平安時代のものは、総じて詞書の内容が短い。絵巻のストーリーが熟知された物語や説話に取材され、それが十分に知られているがために、詞書の役割は相対的に小さい、読者が文字よりも絵のほうを期待していたのでは、というのは今日のおよその推測である。それに対して、中世に入ってから詞書の分量はすこしずつ増え、文字と絵との比例で言っても文字がはるかに上回るいう作品も多数作成されていた。

それにしても、文字の記述が多いほどいい、ストーリーの展開を絵を追って確認すると同時に、もっともっと文字が読みたい、という素朴な印象を、平安の、それも清少納言レベルの知的な女性に述べられたとは。

一方では、『枕草紙』百十六段は、一転して絵巻の絵についての不満を記す。つぎはこの段の全文である。

「絵にかきおとりするもの なでしこ。菖蒲。桜。物語にめでたしといひたる男・女のかたち。」

三種類の草と花、そして綺麗に描かれた物語の中の男女の主人公たちの顔姿は、絵に描かれてしまうとかならず見えが思わしくなくなる、という意見だ。

ここに挙げられているものは、よく考えてみれば、二つのまったく性格の異なるものだ。花や草のようなものは紙に描かれると、現実の世界に見せた生き生きとした生命力が薄れて、目の前の実物とは比べものにならない。対して、物語の中の人物は、だれも見たことのないものであり、いわば読者の想像の世界にだけ存在するものだ。そのような想像によって育まれた豊かなイメージは、紙に描かれたものによって、想像に反したりして、破壊されてしまう、ということが問題の核心だろう。言い換えれば、ここは絵師の腕前など問題にしていない。絵の宿命的なことをめぐっての、真摯な読者の苦悩なのである。

清少納言の魅力は、まずなによりも彼女の繊細で感性豊か感受性、そして好き嫌いをはっきりと述べてしまうという歯に衣せずの書きぶりにあるのだろう。そういう意味では、彼女の意見をもって平安の人々の意見を代表させるとなれば、どこか語弊が生じる。はっきり言えば、平安の人々の平均的な感性が清少納言に言い表されているとはとても思えない。清少納言の意見は一番鋭くて、先端を走るものだ。ただ、その分、今日のわれわれにはよけいにずしんと心に来て、考えさせてしまう。(絵:『枕草紙絵巻』に描かれた清少納言)

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