2009年5月30日土曜日

烏丸光広の覚書

毛利家伝来の『平治物語絵巻(常磐巻)』には、江戸初期の公卿、歌人なる烏丸光広が記した別紙が付く。日付は寛永9年(1632)8月15日。その内容はつぎの通りだ。

「この一まきは、仁和寺御むろ法守親王の御手なり。ゑはとさのなにかしと也。おほよそ詞なけれは、そのことはわきえかたし。ゑにうつらされは、そのありさまさたかならす。さるによりて、ゑさうしをとりとりにひめをかせ給ふことは、あかしの中宮、むらさきのうへなと、いまもむかしにおなしかるへし。(この一巻は、仁和寺御室法守親王の御手なり。絵は土佐の何某と也。凡そ詞なければ、その言葉別きえ難し。絵に写らざれば、その有りさま定かならず。さるによりて、絵冊子をとりどりに秘め置かせ給ふことは、明石の中宮、紫の上など、今も昔に同じかるべし。)」

詞書の筆者や絵を描いた絵師についての情報を書き留めるためのものだが、絵師の名前は不明のまま、筆者の推定も信用されていなくて、極書としての機能はさほど高いものとは言いがたい。そして一つの句に「ことば」を二回も使い、短い段落で似た意味のことを繰り返したなど、文章としても必ずしも丁寧に考えて書いたとは見えない。しかしながら、逆に言えば、無造作に書き残したということは、それこそ光広がもっている考えや、かれ周辺の常識を自然に流露したとも取れて、却って注目に値するかもしれない。

ここでは、能書との評判が高い光広が絵巻における書の大事さを力説する。詞書がなければ作品自体の意味が伝わらない、絵に文字が伴わなければ全体の様子が分からないと、光広が言う。その上、ずばり「源氏物語絵巻」に話を持っていく。物語でも絵巻でも第一級の古典として目されたものだから、極めて自然な文脈だろう。ただし、光広のイメージにあったのはどのようなものだったのだろうか。今日の読者なら、すぐ「東屋」を描いた、浮舟に絵を眺めてもらいながら、別の冊子に仕立てられた一冊を侍女右近に読ませるというあの画面を思い出すのだろう。

そもそも絵巻の伝統における冊子と巻物、さらに言えば別々に仕立てられた絵と文字と、一続きになる巻物をめぐる物理的な鑑賞の仕方の違いは、今日の研究者にとって頭を悩ませるテーマの一つだ。光広がどこまでこの疑問に直面していたのか確かではないが、「とりどりに秘め置かせ給ふ」との覚書は挑発的だった。それは今になってもきちんと答えられていない。

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