2009年5月16日土曜日

中山定規が目撃したもの

巻物という媒体は、すでに日常実用から消えてしまった。したがって、それに伴うさまざまな使用法、使いこなすためのコツ、ひいては長い伝統に由来する作法など無形のものは、多く想像に頼るほかはない。ただし、浩瀚な歴史記録の中に、時には予想を超えた記事に出会う。つぎの一件は、十五世紀中葉、室町中期のものだ。

これは、『薩戒記(さっかいき)』という、中山定親が書き記した日記の中の一こまである。時は応永33年(1426年)1月6日、日記主は宰相中将という官位にいた。その日、暦上の理由で一日遅れに年頭恒例の叙位がとり行われた。行事の一部として新しく官位に昇進した人々の名前を書き留めることがあった。実際に筆を手に執るのは、右大将久我清通、そばに仕えるのは、蔵人弁俊国であった。記入するのは、一巻の巻物であり、しかもすでに例年の記録によってぎっしりなっていると見えて、その年の分は、巻物の一番後ろに書き入れることになる。そこで、巻物の取り扱い方そのものが、中山定規をいささか驚かせた。

日記に記されたところによってこれを再現してみよう。巻物を手にした右大将久我が、両手で巻物を披き、それも台や机などに置くわけでもなく、ずっと胸ほどの高さのところに持ち上げたままの状態だった。巻物が最後のところまで開いたあと、今度は左手に握っている軸を反対に巻き上げ、内容を記してある巻物の表面が表に来るようにした。そのまま巻き上げてゆき、やがて記入すべきところが左手の軸の上に来たところで、今度は右の軸をまるごと左手に握り、右手は筆を取り出して記入しはじめる。結果のところ、巻物を披き、それに内容を記入するという二つのプロセスは、持ち上げたままの両手の中で行ったのだった。

このような巻物の取り扱い方を記し留めようと、中山定規はかなりの文字を使い、それでも十分な自信が持てないと見えて、略図まで四枚ほど添えた。文字では、これが「是源家説也」と由緒のあるものだとコメントをし、「尤珍様ナリ」「スルスルトハ不見、聊巻ニクキ様也」と、その場に感じた印象を書き記すことも忘れなかった。その通りだろう。いまのような扱い方だと、珍しかろうが、常人ではとてもできないような離れ業で、事がスムーズに運ばれるには程遠く、どう考えても見苦しいものだったのだろう。

中山定規が身を置かれた空間とは、どれぐらいのものだろうか。そこに居合わせたすべて人々が全員同じくこの行動を細かく観察できたのだろうか。いずれにしても、多くの人々が注目する中、行事の大事な要素をなす時間が、たしかにじっくり緩やかに流れていたに違いなかった。

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