2008年4月19日土曜日

人を笑う

数年前の話だ。身近にいるある学者と日常的に交流をもっていた。かれの関心は、古典における人間の体の表現、絵巻も自然にその対象だった。ある日、一つの単純な質問をぶっつけられた。「病草紙」に見られるあの笑いとは、なんなんだ?不意を打たれて、まったく答えられなかった。

この質問は、いまでも時々反芻し、あれこれと答えを並べてみる。

「病草紙」は、病気をテーマとするもので、日常的に出会うものというよりは、かなり極端なものにより興味を示していた。そして、ただその病気を並べるだけではなく、それを見つめ、それを人に見せて語り、結果を共有することを表現の方針としていたように見受けられる。その態度とは、病気、というよりも難病をもつ人、すなわち自分の力ではなんともできない、いわば不幸の人を笑いにする、というものだ。(写真は国宝「病草紙・ふたなり」より)そこから一つの笑いの仕組みを見出そうとすれば、弱者、少数者のものに対して、普通の人々の常識に違反するという見地から、それを不可思議なものだとして笑い飛ばす。この笑いは、事実の確認から出発するものであり、しかも悪意がなく、考えようによっては、いたって健康的だったとさえ言える。

いうまでもなく、現代生活において、以上の笑いの仕組みは、人間の平等という理由で、極端に除外されるようになる。弱者でも、弱小のグループの存在でも、その尊厳を尊重し、その存在を理解し、助ける。同じ事実に対して、笑いの代わりに同情を、さらに同情さえ顕にしないという振る舞いが良しとするようになる。このような新たな価値観の形成に伴い、「病草紙」のような笑いは、作品が古典であることを主張するがごとくに、歴史の向こうに押し出された。

ここにたいへんとっぴな結びを記す。中国では、「病草紙」と同じ原理をもつ笑いは、いまなお根強く存在している。テレビでいつでも高い視聴率を取る「小品」と言われるコメディーでは、これを根底にする着想のものは、いまなお実に多数上映されている。そのような番組を目にし、テレビの中やテレビの周りから伝わってくる陽気な笑いを聞く度に、「病草紙」を思い出してしまう。

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