饒舌。その反対とは、さしずめ、洗練、エレガント、といったところだろうか。一部の絵巻作品の表現は、明らかに前者に属する。ここに一つの典型例を見てみよう。
取り上げたいのは、『後三年合戦絵詞』の中の一場面だ。これをめぐり、これまですでに二回ほど触れていて、ストーリや人物の配置などの構図の概要は、それらを参照してもらおう。(「絵巻に手紙をみる」2007年11月14日、「みちのくに紙」同18日)そこで十分触れられなかったのは、手紙を作成する三人の中の、真ん中に位置する武士の仕種なのだ。この人は、手紙をすでに仕上げたらしく、筆を口に銜えながら、手紙を左手で握り、右手は小刀をかざしてなにやらと手紙に最後の手入れを熱心に施しているところらしい。
巻物にした手紙と小刀、この組み合わせはいったいなにを表現しようとしたのだろうか。
これへの答えを探るためには、平安時代から知識人たちが丁寧に習得し、盛んに伝授して守ってきた手紙の作法というものの存在に目を向けなければならない。上流社会の人々の教養や身嗜みの表われだと大事にされていたものである。そのような作法の主体を成したのは、手紙の文章の書式や用語である。だが、外在的な行動ももちろん作法の一部であった。一例として、守覚法親王(1150-1202)という人が作成した『消息耳底秘抄』から、つぎの二つを紹介しよう。
消息礼
又立紙ノウハ紙ヲ返事ニ名所ヲ切テ用ハ咎ナキコト也。
礼紙事
又礼紙ヲ封タル時。文書多クシテ不被封之時ニハ。紙ヲ逆ニ細ク切テ可封也。秘事也。
二つの作法は、ともに紙を切るという動作に関わるもので、したがって小刀が必要とされるものである。それは、返事の場合、もらった手紙から差出人の名前や住所などを切り取って差し出す手紙のあて先に用いること、そして、手紙にあまりにも多くの枚数を費やした場合、封筒にあたる紙を切り込みを入れて工夫する、という内容である。このような作法が十分に知れ渡っていたものだとすれば、ここの絵は後者の状況を表そうとしたものだろう。すなわち、留守する家族への手紙は普通の長さにはとても納めきれないということを伝えようとしていたに違いない。
一方では、筆を口に銜えるという仕種の意味は不明なままだ。小刀を握る手を空けるために咄嗟の対応だと理解できないこともないが、あるいはそんな単純なものではなく、なんらかの理由が隠されていたのかもしれない。
手紙のありかたを表現するという意味では、後三年の戦場におけるこの小さな光景は、じつに見ごたえのあるものだ。ストーリの内容にどれだけ沿っているかは別として、手紙作成にかかわるもろもろの様相を絵画にするということでは、まさに細かな気配りが行き届いていた。しかも王朝的な文化や伝統に詳しいほど、味わいを感じるということを付け加えておこう。
饒舌とは、普通マイナスなイメージを伴う。だが、絵師の工夫や構図における知的な遊びに波長を合わせることができれば、なぜか親しみを感じて、わけもなく楽しい。そこから、旺盛な表現欲と、過剰なほどサービス精神を感じ取れるからだろうか。
以上の内容は、国文学研究資料館主催の「第31回国際日本文学研究集会」で発表した研究の一部だ。その時の原稿は、同集会の会議録に載せられて、数日前に出版されたことを付記する。
2008年4月27日日曜日
絵の饒舌
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