2008年5月3日土曜日

デジタル複製

この二三日、絵巻に関連する新聞記事では、「デジタル複製」とういう言葉が注目を集めている。見慣れないもので、思わずあれこれと読み比べた。

ことの始まりは、北野天満宮が所蔵している国宝『北野天神縁起絵巻』を日本HP社がデジタル技術をもって複製をし、それを神社に奉納したということである。それをうけて、北野天満宮は、これまで展示してきた明治期の模写を下げて、新しい技術を詰め込んだ複製本を特別展示し、関心ある人々は一つのユニークな媒体を通じて国宝本の姿を偲ぶことができるようになった。

ここに「デジタル複製」という言葉が事の内容を十分伝えていているとはちょっと思えない。新しい試みとしての複製は、デジタルの、あるいはデジタルを通じての複製ではなく、あくまでも一旦デジタルを通過した、デジタルのプロセスをもつ複製なのである。技術としての魅力とは、画像をデジタルに取り込むための精度、そしてそれを紙(この場合は和紙)にプリントする色彩に収斂され、現代のデジタル技術における入力と出力の二つのポイントにおいて、その工夫と到達が提示される。印刷されたものは、伝統的な表装など贅沢な処置を経て初めて展示に耐えうる巻物になるが、ここではとりあえず時代の寵児としてのデジタルが脚光をあびる結果になった。貴重な画像をみるためには、これまでには写真撮影したものを図書という形に印刷したもの(因みにこれを「フィルム複製」とは誰も呼ぼうとしないが)に頼ってきたが、それに比べて、もっと精密になり、しかも、おそらく近い将来により安価に手に入る可能性さえ伺わせる。

興味深いことに、ほぼ時を同じくして、「NHKクローズアップ現代」は、北野天満宮の展示とは関係なく、「デジタル複製」というテーマを取り上げた(「本物そっくりの文化財~デジタル複製の波紋~」、4月15日放送)。しかも同じキーワードを使いながら、きわめて対照的に、これを憂慮するという立場から問題を提起した。商業利用の可能性、本物からの遠ざかりへの危惧、などはその主な理由と見られる。一つの新しい技術的な試みに対して、すかさず文化的な思慮、ひいては憂慮を与えるということは、いかにも日本的な文化バランスを感じさせてくれた。

ちなみに、NHKの番組では、狩野永徳の襖絵などとともに、最近インターネットでデジタル公開された「最後の晩餐」の壁画が触れられたので、さっそくそのサイトを覗いてみた。あくまでもデジタル公開で複製とは縁がないが、160億画素と謳うだけあって、見たことのない視覚内容だ。サイトには親切にも制作過程を記録したビデオまで付いている。画像を取り込むために使ったのは、もちろんNikkonのカメラ、しかももっぱらフラッシュをたき続けていたことにはいささか驚いた。きっと照明ライトを当てるより損傷の度合いが少ないとの判断が動いたことだろう。ちなみに、せっかくの貴重なデジタル情報だが、いまの公開の仕方では、ぱっと見ての楽しみ以外は、まじめな使いようがちょっと考えられないことだけ付記しておこう。

しかしながら、文化人たちの関心の持ちようが如何にせよ、そのような憂慮や議論を横目に、技術はどんどん進む。その象徴的な一場面を、わたしは先の京都の襖絵を取り入れるための技術を紹介するサイトで目撃した。そこでは、人間の体より大きい絵をまるごと印刷してしまうプリンターの外観やその出来栄えを見せながら、その隣では、背中を裸にしたままの女性をスキャナの機械の上に横たわらせた。技術と文化とが異様に交わりあう現場ではなかろうか。

北野天神絵巻、鮮やか複製
最後の晩餐
第3のイメージキャプチャ

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